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空と無と仮と

沖縄・日本史・ミリタリーなど、拙筆ながら思ったことをつれづれと、時には無駄話、時にはアホ話ってなことで…

1990年代の沖縄旅行 渡嘉敷島でホエールウォッチング

2019年03月31日 01時09分30秒 | 1990年代の沖縄旅行 いろんな場所編

 

 

沖縄旅行で離島に行ったことがあるのは伊江島と渡嘉敷島だけです。

ま、いつかは石垣島とかにも行きたいなぁ~と思っていますが、

いまだに行ってないんですよね。

 

従妹が石垣島に移住しておりますので、

そのツテでひそかに上陸作戦を計画しているのですが、

そもそもお金がないんだよなぁ…てな感じです。

 

さて、渡嘉敷島には1990年代後半に2回ほど行きました。

最初は沖縄戦の時に起こった集団自決の現場に、

次はホエールウォッチングです。

 

渡嘉敷島には毎年1月~3月くらいにザトウクジラがやってくるのですね。

どこから来るのは調べていないからわかりませんが、

どうやら子育てに来るみたいです。

慶良間諸島の海はこの時期になると穏やかになり、

子育てにはちょうどいいそうです。

 

まずは沖縄の友人が運転する車に乗って、

とまりんの有料駐車場へ。

知らない人のために、

とまりんとは那覇泊港フェリーターミナルのことです。

フェリーターミナルはなんか、

真新しかったですね、全てが。

リニューアル直後だったのかな?

どこもかしこも新しいんですよ。

1990年代後半のお話ですけどね。

 

乗船券エリアの一角に長テーブルの簡単な受付があり、

そこでお金を支払います。

確か5000円ぐらいだったかな。

 

電話で予約した旨を伝えると「ちょっと待ってください」といわれました。

あれ、予約はちゃんとしたはずなのに、

なんか、リストを見ながら携帯電話で話しているんです。

 

TRFの後ろで踊っている、

長い髪のゆで卵みたいな顔の人にそっくりなお姉さんでした。

いや、バカにしているわけではありませんよ。

だけど妙にハッキリと覚えているんですよねぇ…

 

どうやら、予約はちゃんと取れていたのですが、

その時に「前日に確認のための電話を入れてください」

と言われたのに、ついうっかり忘れてしまったので、

本部かどこかに再度確かめていたそうです。

 

海の状況は逐一変わるので船が出せるかどうかわからないから、

そういうことを連絡するためにも、

前日に確認のための電話をしてほしかったようです。

ま、忘れていた自分が悪かっただけですね。

今回は運よく中止にはなりませんでしたので、

予定通り船が出るようです。

 

さて、お金も払って一件落着。

まずはフェリーに乗って渡嘉敷島へと向かいます。

渡嘉敷島へは一日一往復のフェリーがあります。

これは今も変わりませんね。

 

海のない土地に暮らしていると、

やっぱり非日常的だからというものなのでしょうか、

海を見てても飽きないですね。

本島周辺からキレイな海でしたけど、

渡嘉敷島に近づくにつれキレイさも倍増です。

あのキレイな青い色は、

言葉ではどう表現していいかわかりません。

 

フェリーの一番上はテニスコートみたいな広さのデッキですから、

帽子なんか飛んじゃいそうなほど、

風が強くてモロに吹きつけてきます。

それでも右舷にいってはキョロキョロと、

左舷にいってはキョロキョロと、

沖縄の友人ほったらかしてウロウロしていました。

ま、その友人は初めての渡嘉敷島だったので、

それなりに楽しんでいたんじゃないんかなぁ~

 

よく聞く話かもしれませんが、

沖縄の人は雪に感動するそうですね。

友人もそう言っていました。

海のない土地に住む人間が、

海を見て感動するのと同じでしょうね。

 

雪といえば、沖縄も一回だけ雪が降った、

ということを聞いたことがあるのですが、

それは本当のことなのでしょうか?

たしかヤンバルあたりに吹っかけ雪みたいなのが、

とか聞いたような…

ちょっとよくわからないですけど…

 

フェリーだと片道一時間ほどで渡嘉敷港に到着します。

そこで一旦フェリーを降り、別の船に乗り換えます。

 

今はどうか知りませんが、

この往復するフェリーもホエールウォッチングツアーをしていました。

往復の合間に運航しているんですね。

料金はたしか1000円前後だったような。

こちらの方が料金が安いから、

最初はこのフェリーにしようかなと思いましたが、

小回りがきく船のほうが、

ザトウクジラに出会える可能性が高いかもしれないと思いましたので、

小さいほうの船を選びました。

 

その船は乗員が20名ほどだったと思います。

そのくらいの規模の船だとしか思い出せません。

 

それよりもハッキリ覚えているのは、

ほとんどのツアー客が若い女の子たちだったことです。

自分と友人とスタッフさんぐらいしか、

野郎どもはいませんでした。

自分は20代後半だったけど、

20代前後みたいな女の子が多かったですね。

大学のサークルか何かの団体客だったのかもしれませんが、

それもよくわかりません。

でも内心、なんだかちょっとうれしかったですね。

下心丸見えですいません…ハイ。

 

それでは出発!

ただ、どういうルートでどういうところに行ったのか、

正確なルートがあまり思い出せません。

出航後は向かって右側に陸地が見えましたから、

グーグルマップで見る限り、

ず~っと南下したようです。

 

どういうわけか船の一番先、舳先の右側に座り、

友人は左側に座りましたね。

数十分ほど一気に航行していました。

船の揺れはありましたが、

自分としては激しいとは思いませんでしたね。

ただ、海で数十人ほどの小型船に乗ったことは初めての経験で、

漁船にさえ乗ってことがありません。

小さな船といえば湖で周遊したモーターボートぐらいでしたので、

その時よりは揺れが大きかったです。

ま、海と湖じゃ比較にならないかもしれませんけど…

 

とある地点で船は止まりました。

そこがクジラと出会えるスポットなのでしょう。

船が前進しなくなった途端、

グゥ~ワングワンと大きく揺れるんです。

前後に左右にグゥ~ワングワン~グゥ~ワングワンです…

船が動いているときは立たないでくださいと言われました。

でも動きそうもないから、

座っているより立ち上がって、

屋根を支える太い棒につかまりながら、

その揺れに合わせて身体をク~ネク~ネク~ネク~ネしてました。

すいません、

アホだからそれしか表現できないんです。

 

これがいつもより激しいのか、

穏やかな状態なのかもわかりません。

自分は海の男ではありませんので。

 

船の揺れ具合をこれ以上表現することができないのですが、

4~5人の女の子たちは明らかに船酔いしていて、

みるからにグッタリとして顔も真っ青なんです。

あれはちょっとかわいそうだったな。

 

せっかくお金を払ってまでしてここまで来たのに、

まだクジラも姿を見せないのに、

それどころじゃないですからね。

自分だったら遠慮なく撒き餌しますけど、

やっぱり女の子はそういうことできないのかなぁ…

 

動いて止まってはグゥ~ワングワンして、

また動いては止まってグゥ~ワングワンしてクネクネして…

それを何度か繰り返しているうちに、

 

やっと待望のザトウクジラが現れました!

自分は右舷側の一番前だったのですけど、

左舷側の後方に現れました。

 

背中を海面から出して潜っていくあの光景を初めて見ました!

ただちょっと、距離が遠いんですよね。

海だから距離感覚がわからないのですけど、

10メートル以上は離れていたんじゃないかな…

クジラはデカかったのは確かですが、

体長がどの程度かはサッパリ…

 

それでもさすがに感動しますね!

クジラ兄さん、いい仕事っぷりでしたよ!ってな感じです…

姉さんかな?

 

同じような状況で2回ほど見ました。合計3回ですね。

でも、目と鼻の先ぐらいの距離までに、

近づくことは結局できなかったですね。ちょっと残念。

ま、予測不能な野生動物ですから仕方ありませんね。

 

かれこれ1~2時間でホエールウォッチングは終了だったと思います。

お昼ぐらいに渡嘉敷港へ戻りました。

 

昼食もツアーの中に入っていました。

どこかのレストランにでも行くのかなぁ~なんて思っていたら、

なんか公民館のような施設の2階で、

殺風景な会議室みたいな部屋に案内されました。

 

いや、決して貶しているとかバカにしているわけではございません。

そういう記憶があるんです。

ただそれだけなんです。

場所はどこだかサッパリ忘れてしまいました。

 

そこでツアー客全員が長テーブルに置かれた仕出し弁当というか、

幕の内弁当みたいなものを食べるんです。

肝心の味はというと、

その…ま、記憶に残らないくらい美味しかった…かな。

 

でもでも、

お弁当のほかにお味噌汁も出たのですが、

これがめちゃくちゃ旨かった!

普通の味噌汁なんです。

具が岩ノリを入れただけなんですけど、

それがものすごく旨かったのを覚えています。

 

あまりにも旨いから恥も外聞もなくおかわりしようと思って、

配膳していたオバちゃんを探したのですが、

オバちゃんがいないんですよ!

女の子たちが和気あいあいにお弁当を食べているところを、

お椀を片手にアホ面しながらウロウロしてましたね。

結局おかわりできませんでした。

 

ツアー客にはもう一つのサービスがあって、

マイクロバスでとかしくビーチまで送迎してくれるんです。

でもツアー客以外の人も乗れまして、

その場合はたしか500円程度の料金が必要でした。

自分たちはサービスですから、

ケチケチ野郎二人は当然乗ります。

 

出発時間ギリギリで乗車しましたので、

先に乗った友人だけが席に座れました。

もう満杯で自分の席がないんです。

ツアー客以外の人がいたんでしょうね。

とにもかくにも後ろの方に座っている友人の、

隣にある補助席を降ろして座りました。

小学生以来の補助席です。

自分一人が補助席でしたね。

ま、先着順ですから仕方ないですけど…

 

とかしくビーチ方面は初めて行くので、

ホントは窓際に座ってゆっくり、

外の景色を見ながらっていうのがよかったんですけど、

補助席だとそれができないんですよね。

右側だと友人のアホ面だし、

左側だと女の子だからジロジロ見るっていうわけにもいかないし…

どうしようもないから、

ずっと前を見ながら道路を見ていました。

 

「この島には信号機がないんです」みたいなことを、

ガイドさんが言ってましたね。

今はどうなのでしょうか?

信号機はあるのでしょうか?

 

「あの山に上にある家は有名な小説家の…」

なんかもガイドしていましたよ。

小説家の名前もちゃんと言ってましたが、

自分は本を読むけど小説は読まないし、

小説家が住もうが大物タレントが住もうが興味ないです。

 

山の間をスーッと上って、

それから下りて20分ぐらいですかね?

とかしくビーチに到着したのは。

 

ビーチもキレイでしたね。

本島北部にある瀬底島の瀬底ビーチはキレイだなと思いますが、

とかしくビーチのほうがキレイかもしれません。

ただ、滞在時間が30分程度しかなかったような気がします。

だから2人で砂浜に座り込んでボ~っとしてましたね。

連れの友人が女の子だったらロマンチックだったのにぃ~

 

そうこうするうちにまた補助席に乗って渡嘉敷港へと帰りました。

どうせならと一番前の補助席に座って、

パノラマ全面展望を一人楽しみました。

 

それからフェリーに乗って那覇へと帰りましたとさ。

 

ホエールウォッチングの話なのに、

クジラのことはあまり書けませんでした。

 

もうちょっとじっくり見たかったですね、

ザトウクジラさん…

 

追伸
 
当時もらったチラシを見つけました。

阿波連からも出航してたのですね。

自分たちは渡嘉敷港からでした。
 
 
 
 

楽しそうなシュワブ~フェスティバ~ル 

2019年03月25日 18時39分26秒 | 沖縄の基地問題について

米軍フェスで最長2キロ渋滞 沖縄・名護 専用ゲートが原因か

 基地を一般に開放するキャンプ・シュワブフェスティバルが始まった23日、沖縄県名護市辺野古の国道329号の北向け車線で最長約2キロの渋滞が発生した。

 メインゲートは米軍関係者専用とされ、がらがらの状態。通常閉鎖している別のゲートが一般客用となり、このゲートを先頭に午後2時開門の約1時間前から渋滞が始まった。フェスティバル参加の家族連れのほか、路線バスや配達中のトラックも巻き込まれた。(沖縄タイムス 2019年3月24日 09:11)



渋滞ができるほどの人気だったのですね!

いやぁ~自分も行きたかったなぁ~


それとも米軍嫌いな沖縄の皆さんが、

「県民の総意」に「オール沖縄」で抗議活動にでも行ったんですかね?


でも辺野古近辺じゃ、

いつも渋滞起こってるみたいですよ。

私設検問まであるみたいですし。

なぜかは知りませんが…

いや、ホントは知ってますけど、

沖タイ読んでるだけじゃわかりませんからね。

ご興味のある方はご自分で調べてみてくださいな。


 

米兵、来場の子に銃を握らせる 名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブフェスティバル 識者「非常に危険」

 一般市民に基地を開放する名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブフェスティバルで24日、機関銃などの銃器を来場した子どもらが持ち操作していたことを本紙記者が確認した。米兵が身ぶりで銃の扱いを説明し、小中学生とみられる子どもたちが銃器を握り、引き金に指を掛けていた。

 新城俊昭沖縄大客員教授(琉球・沖縄史教育)は「銃は人を殺す道具だ。子どもが銃の本質を理解しないまま、銃に触れるのは非常に危険なことだ」と問題視した。

 フェスティバルは23日から始まった。(琉球新報 3/25(月) 10:19)



道具は「正しく使うことを理解する」のが本質だと思うのですがね…


この教授の論理が正しいのであれば、

刃物なんかこの世から撲滅しないといけませんね。

人類が刃物を発明して何千年、いや何万年もたってるかもしれませんが、

その刃物で何十億、いや何百億ともいえる人が殺されてきましたからね。

 

しかもスーパーやコンビニや100円ショップで気軽に、

ちっちゃな子供たちにも簡単に手に入る「人殺しの道具」ですからね。

コンビニや100円ショップを徹底的に潰さないといけないかもしれません。

 

板前さんやお肉屋さんも完璧に撲滅しないといけません。

あの人たちは「人殺しの道具」で商売しているのですから、

ホントに恐ろしいったらありゃしません!

 

戦争のないこの平和な日本でさえ、

刃物で人が死んだり殺したりしているこの世の中、

清廉潔癖な新城俊昭大先生は刃物なんか、

一度も使っていないでしょうね…

 

あれは「人殺しの道具」ですから、

絶対に使っていないと信じていますよ…

 

ま、ウソですけどね…


オスプレイ見てたらイタチも出てきた

2019年03月21日 15時20分33秒 | いろんなこと日記

今年はどうやら暖冬だったみたいですね。

 

そんな春の訪れを知らせるように、

先日、またまたオスプレイが2機編隊で、

自宅上空を何度もなく飛んでました。

 

何してるんだろ~?ってっボォ~っと空を眺めていましたら、

視界の片隅に茶色くて細長いものが、

ピョンピョンピョンっと…

そしてピタッと止まってこっちをジィ~っと見てるんです。

 

「あっ!」っと思ってこちらもジィ~っと見返したら、

小さな小さなイタチでした。

 

昼間にイタチが出てくるなんて、ウチのほうでは珍しいです。

これで2回目かな、イタチを見るのは…

 

お互い微動だにせず見つめあっていました。

もう、動いたら負け!みたいな感じでしたね。

 

イタチといえば、自分みたいなオッサン世代だと、

「ガンバの大冒険」のノロイをすぐに思い出します。

おっかないんですよね、ノロイってやつは…

 

でも実際のイタチって、意外とカワイイ顔をしています。

スマホがあれば撮れたかもしれませんが、

数分後キョロキョロあたりを見回しては、

またピョンピョンピョンっと、軽快に走り出しました。

走り方も愛嬌があってかわいいですね。

 

コンビニまで5㎞も行かなきゃいけないような、

栃木県の中途半端なクソ田舎ですので、

イタチのような野生動物は時折見かけます。

 

ちなみに猿や熊や鹿はいません。

イノシシやキジはこれからの季節、しょっちゅう出てきます。

ヘビは去年、天井裏でズ~ルズ~ル這いつくばっていました。

たぶん、アオダイショウでしょうね。

 

タヌキは時々見かけます。

でも、車に轢かれて死んでいるのが多いかな…なんかかわいそうですけど。

ハクビシンはいるみたいです。

アライグマはまだいないみたいです。

 

しかし夜行性のイタチだからかもしれませんが、

それでも今まで2回しか見てませんね。

 

野ウサギは一度だけ。黒に近い灰色っぽかったなぁ…

耳が小さいけどよく見るペットのウサギと同じように、

ピョンピョンしてましたよ。

ま、そんなの当たり前か…

 

キツネも一度だけ。それでも自分が小学5年生の時だから、

かれこれ30年以上前のことですね。

鳴き声は聞こえるんですが、やっぱり警戒心が強いのかな?

 

でもなんかうれしいです。

普段はめったに見れない野生動物を見ることができたことは、

なんか得した気分にもなりますね。


渡嘉敷島の集団自決 誰も知らない「兵事主任の証言」④

2019年03月20日 23時36分58秒 | 渡嘉敷島の集団自決 その他

曖昧な前提条件③とまとめ

 

  •   話したことがあれば、という条件
  •   書いたことがあれば、という条件
  •   聞いたことがあれば、という条件

 

 前回は「書いたことがあればという条件」を考察しましたが、今回は「聞いたことがあれば」という条件について考えていきたいと思います。これは兵事主任の証言を本人以外の誰かが、具体的には1988年以前にも聞いたことがあるかどうかについてです。

 ただ前回までとは違って少し事情が異なり、やや複雑な様相を呈しておりますので、できるだけわかりやすく説明することに努めてまいります。

 

 まずは引用文を時系列順に提示します。少し長くなってしまいますが、複雑さをできるだけなくすための作業ですので何卒ご了承ください。

 

①  「(金城重明氏の証言──引用者注)当時の役場の担当者に電話で確認を取りましたら、集団自決が起こる大体数日前ですね、日にちは何日ということはよくわかりませんけれども、日本軍の多分兵器軍曹と言っていたのでしょうか、兵器係だと思いますけれども、その人から役場に青年団員や職場の職員が集められて、箱ごと持って来て、手榴弾をすでに手渡していたようです。一人に二箇ずつ、それはなぜ二箇かと申しますと、敵の捕虜になる危険性が生じた時には、一箇は敵に投げ込んで、あと一箇で死になさいと」──安仁屋政昭編 『裁かれた沖縄戦』(晩聲社 1989年)

② 「私は金城牧師(金城重明氏──引用者注)と話すチャンスがありました。「先生、あの自決はほんとに赤松が命令した自決なのか。どうでしょうか」「私は知らない。当時の私は日本人としてお国のためなら親兄弟を殺してもなんでもないと思った。赤松隊長の命令だったということはまったく知らない」──富村順一 『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』(柘植書房 1995年)

③ 「渡嘉敷島の「集団自決」は、一九四五年三月二十八日、米軍上陸の翌日に発生しました。しかし実は、その一週間ほど前に、軍は、兵器軍曹を通して村役場の男子職員や青年たちに手榴弾を配り、「敵軍に遭遇したら、一個は敵に投げ込み、他の一個で自決しなさい」との指示を与えていたのであります。──金城重明 『「集団自決」を心に刻んで 一沖縄キリスト者の絶望からの精神史』(高文研 1995年)

④ 渡嘉敷島で「集団自決」を経験した金城重明氏(78)が被告岩波側の証人として出廷。兵器軍曹から住民に手榴弾が配られ、「一個は敵に投げ、もう一個で死になさい」訓示があったと、後になって当時の兵事主任から聞いたと証言。(中略)被告代理人によると、金城氏は、当時の兵事主任だった富山真順氏から「米軍が上陸する一週間前に、兵器軍曹が役場に青年団や職員を集めて手榴弾を一人二個ずつ渡した。『一個は敵に投げ、もう一個で死になさい』と訓示していた」という話を聞いた、と証言した。──『沖縄タイムス』(2007年9月朝刊)

⑤ 「(執筆は金城重明氏──引用者注)皇軍が住民に手榴弾を配ったという事実は、渡嘉敷島では二度あった。第一回は、米軍上陸(一九四五年三月二七日)のおよそ一週間前に、約十数人の役場の男子職員と青年たちが、兵器係の下士官に呼び集められた。部下によって手榴弾が運び込まれると、兵器係の下士官は、呼び集めた十数人の役場の男性たちと青年に、一人に二個ずつ手榴弾を手渡す、という前代未聞の事件が起こった。その時、下士官は村の男性たちに「敵に遭遇したら一発は敵軍に投げ込み、残る一発で自決しろ」と命じた。第一回目の自決命令だったのである。」──沖縄タイムス社編 挑まれる沖縄戦 「集団自決」・教科書検定問題報道総集』(沖縄タイムス社 2008年)

 

 兵事主任の証言を「聞いた」という主張をなさっているのは、集団自決の当事者でもある金城重明氏です。戦後はキリスト教の牧師になり、沖縄基督教短期大学の創設者でもありますし、集団自決に関するものに興味がある方なら、講演会等で実際に話を聞いた方もおられるかもしれませんので、経歴等は省略します。

 

 兵事主任の証言に間違いないのであれば、金城氏は当時16歳で阿波連地区に住んでいらしたということなので、役場前で渡嘉敷地区の少年たちにしか配らなかった手榴弾は当然受け取っておらず、ご本人もそういった旨を証言しています。

 

 それでも「聞いた」ということを主張しているのですが、ではいつ聞いたかということになりますと、①の引用文にある通り戦後になってから「後日談」のようなかたちで、元兵事主任から聞いたということです。

 ①の引用文は1988年2月9日に行われた、いわゆる家永裁判の原告側証人として出廷した時の証言ですから、少なくともそれ以前は知らなかった、ということになります。この時点でも兵事主任の証言は前回考察した安仁屋氏の件も含め、いまだ兵事主任だけしか知らないという状況です。

 

 しかしながら、年月が経過するごとに意図的なのか無意識なのかはわかりませんが、その「後日談という事実」が後退していきます。同時進行で兵器軍曹から手榴弾を渡されたという事柄が全面的に強調され、集団自決が「軍の命令あるいは強制」された根拠として決定的な役割を担っていくことになります。

 

 ただしここで強調しなければならないのが、金城氏が「嘘をついているのかどうか」を追及することではないことです。むしろ兵事主任の証言に関しては、金城氏が虚偽の証言をしているとは思いません。

 

 金城氏の証言というのは「当事者の証言を聞いた当事者」という構造になると思います。資料という観点からすれば貴重で重要な一次資料ですから、そういった意味では重厚なものでもあると思います。

 現に「軍の命令あるいは強制」説を主張する論調においては、この「当事者の証言を聞いた当事者」が決定的な証拠として、必ずといっていいほどに取り上げられています。前回考察した沖縄国際大学名誉教授である安仁屋氏の主張が典型的な例でしょう。

 

 2019年現在でもそれが「沖縄全体」として継続しております。ゆえにそういった現象は文献やインターネット等で簡単に見聞することができるので、ここでの具体例掲示はあえておこないません。興味のある方はご自分で検索なさってください。

 

 「当事者の証言を聞いた当事者」という決定的証拠によって、あたかも「軍命令・強制」説に裏付けがなされた様相を呈していますが、前述した「後日談」ということが無視されていることにもつながります。

 つまり、結局は出所がいまだ元兵事主任だけであるにもかかわらず、その原因も考察されないまま既成事実化されているということです。それが意図的なのか無意識なのか、あるいは考察不足によるものなのかはわかりませんが、何の抵抗もなしに2019年現在も主張され続けているということです。

 

 以上、「話したことがあれば」「書いたことがあれば」「聞いたことがあれば」という条件で、兵事主任の証言を考察してきました。 

 個人的見解としては「誰も知らない」兵事主任の証言としか言いようがありません。

 渡嘉敷島の誰もが「当然のように知っている」はずだった「役場前の出来事」は、結局はネタ元である元兵事主任と安仁屋氏と金城氏しか知らないのです。しかも安仁屋氏と金城氏は、当の本人から数十年後になって初めて聞いたというのです。
 しかもたった3人しか知らないのに、巧みな「誰もが知っていた」という印象操作を行うことで、現在では既成事実となりつつあるのです。

 こういった「誰も知らない」という現象を脱却しない限り、決定的な証拠とはなり得ないものだと思います。
 勿論、再三している通り実際に参加した人あるいは聞いた人がいて、戦争中や戦後になってお亡くなりになった可能性も否定できません。それに証言というのはあくまでも個人個人の記憶が唯一の頼みなのですから、忘れてしまったり思い出せなかったりすることも多々あると思います。

 しかし、誰も知らないどころか、相互参照や相互補完さえ不能な状態であり続けるならば、それを一次資料として位置付けるということについては、個人的見解として疑問を持たざるを得ません。
 たった一つの資料を決定的証拠として取り上げてしまうということは、多角的な考察を一切無視する行為と同じことになってしまいます。したがって「軍命令・強制」説の根拠は、それ以外の説を何の考察もなく退けているに等しい行為ともいえるのです。
 
 上記のように兵事主任の証言を決定的な証拠にするという論理を適用するならば、赤松大尉の「自決命令は出していない」という証言も、当事者の貴重な一次資料ですから、当然のごとく自動的に決定的な証拠として認めなければなりません。
 しかし現状では特に「軍命令・強制」説を主張する論調においては、赤松大尉の証言どころか、日本軍全体の資料を信用しない傾向があります。これは資料を「事実か否か」というよりも、資料を「信じるか否か」という観点で考察するような問題をも含んでいると思われますが、ここではこれ以上追求しません。

 2019年現在、本当に「誰も知らない」兵事主任の証言になってしまっているこの現状、皆さんはどうお考えになるでしょうか。

 
 これで誰も知らない「兵事主任の証言」を終わりにしたいと思います。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

渡嘉敷島の集団自決 誰も知らない「兵事主任の証言」③

2019年03月16日 00時03分14秒 | 渡嘉敷島の集団自決 その他

曖昧な前提条件②

 

  •  話したことがあれば、という条件
  •  書いたことがあれば、という条件
  •  聞いたことがあれば、という条件

 

 兵事主任の証言が特定の条件さえ揃えば、1988年以前にも存在したということを考察しております。前回は「話したことがあれば」という条件でしたが、今回は「書いたことがあれば」についての条件です。

 

 「書いたことがあれば」という前提条件ですが、ここで取り上げている兵事主任の証言が1988年以前に他の文献等で掲載されているか、あるいは考察されているかということです。

 これは「誰も知らない」兵事主任の証言が流布されていたかどうか、もっと具体的にいえば他の人に共通的な事実として既に知られていたか、ということにもつながります。したがって無視することもできない、看過もできないものであると思います。

 

 1988年以前にも既に知られていたと主張するのは、沖縄国際大学名誉教授の安仁屋政昭氏です。当ブログでも幾度もなく安仁屋氏の文献等を引用し、参考文献として掲載しておりますし、渡嘉敷島の集団自決だけではなく、沖縄戦全般に関する著作等でご存知の方もおありでしょうから、経歴等は省略いたします。

 

 ではその安仁屋氏が一体どのように主張されているかというのを、「裁かれた沖縄戦」から以下に引用させていただきます。

 

「(原告代理人=弁護士の発言──引用者注)この乙第一二四号証(嶋津与志「沖縄戦を考える」を指す──引用者注)の二一六ページ、先程の御証言の中で、渡嘉敷島のいわゆる集団自決の事例について御証言がございましてけれども、曽野綾子氏の著作に触れて、(中略)赤松隊長によって集団自決が命令されたのだという事実がなかったのではないかということを立証されたという文章がございます。(中略)この点について証人はどのようにお考えになっているのでしょうか。

(安仁屋氏の発言──引用者注)二点ありますね。一点は、曽野綾子さんが、「ある神話の背景」(原文ママ)という本の中で、(中略)あの本を読む限り、立証されているとは思いません。(中略)私自身、渡嘉敷村史の編集を担当しておりまして、一九七二年以来の調査で言いましても、二〇年近い調査活動をやっている中で曽野綾子さんの説をくつがえすだけの反証は出てきております。(中略)兵事主任の証言を得ていることは、決定的であります。これは、赤松部隊から、米軍の上陸前に手榴弾を渡されて、いざというときには、これで自決しろ、と命令を出しているわけですから、それが自決命令ではないといわれるのであれば、これはもう言葉をもてあそんでいるとしか言いようがないわけです。(中略)

(原告代理人=弁護士の発言──引用者注)その、兵事主任の証言というのは、渡嘉敷村史に収録されているということですね。

(安仁屋氏の発言──引用者注)はい、渡嘉敷村史にも収録されておりますし、私が二年か三年前に書いています地方史研究にも書いておりますし、(中略)多くの人がそのことは書いてあります。」

 

 「裁かれた沖縄戦」というのは1988年に行われた、いわゆる家永裁判である第三次教科書訴訟の、裁判記録を中心に書籍化したものであり、発行年は翌年の1989年になります。

 第三次教科書訴訟の沖縄出張尋問における上記の証言は、「裁かれた沖縄戦」によると1988年2月10日に行われたということです。朝日新聞に掲載された兵事主任の証言は同年の6月16日の夕刊ですから、新聞に掲載される4か月前の裁判記録だということになります。

 

 安仁屋氏の証言を要約しますと、

 

  1. l  渡嘉敷村史の編集を担当
  2. l  1972年以来の調査でも曽野氏の著作への反証がある
  3. l  兵事主任の証言は渡嘉敷村史にも掲載されている
  4. l  自らも数年前から兵事主任の証言を論文等に複数書いた
  5. l  他の人も兵事主任の証言を既に取り上げている

 

 といったことになると思います。

 

「渡嘉敷村史にも収録されております」というのは「渡嘉敷村史 通史編」と「渡嘉敷村史 資料編」という二種類がありまして、安仁屋氏は両方の編集を担当しているということになります。

 そして「渡嘉敷村史 通史編」には兵事主任の証言が掲載されており、内容については当ブログ①の冒頭で提示したものと一致するので、ここでの引用はいたしません。

 また渡嘉敷村という自治体から発行されたという体裁から、兵事主任の証言の事実認定が、公式見解という立場で認められたようなことになっています。

 

 しかしながら秦郁彦氏の「現代史の虚実」によりますと、「渡嘉敷村史 通史編」は出版年が1990年であり、1987年出版の「渡嘉敷村史 資料編」には掲載されていないということです。つまりこの時点でも1988年以前の資料がないというわけです。

 ただし「渡嘉敷村史 資料編」には、厳密にいうと似たようなことが書かれているのも事実ですので、以下に引用いたします。

 

 「すでに、上陸前に、村の兵事主任を通して軍から手りゅう弾が配られており、(中略)自決をするように指示されたといわれている」

 

 1987年出版の「渡嘉敷村史 資料編」ですから、これで初めて1988年以前のものが出現したということになります。

 ただ気になるのが「指示されたといわれている」ということで、「渡嘉敷村史 通史編」や朝日新聞に掲載された記事のような具体性が全くありません。

 

 しかも1987年出版の「渡嘉敷村史 資料編」には兵事主任と同一人物の証言が、当事者証言集の中に入っているにもかかわらず、役場前での手榴弾云々に関することは一切証言していないばかりか、集団自決に関するものも証言しておりません。内容としては1944年(昭和19年)10月10日の空襲に関することだけです。

 

 1990年出版の「渡嘉敷村史 通史編」には「この事件については重大な事実が明らかになっている。すでに米軍上陸前に、村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。」と前置きし、事の重大性を主張した後に兵事主任の証言を掲載しています。

 転じて1987年出版の「渡嘉敷村史 資料編」は上記の通り、「指示されたといわれている」といった曖昧な表現で、尚且つ元兵事主任が証言しているのは、役場前での手榴弾云々には全く触れず、10月10日の空襲についての証言だけが掲載されているということです。

 

 しかし、秦氏の主張によると「渡嘉敷村史 資料編」初版には上記の引用文はなく、「誰が自決を指示したかは不明」となっていたということです。

 つまり「不明」だった自決命令が、「村の兵事主任を通して軍から手りゅう弾が配られて」自決命令が出たと、書き換えられたということになります。

 

 秦氏の主張が正しいのであれば、この時点では1988年以前の資料がないということになります。

 

 「裁かれた沖縄戦」によれば「私が二年か三年前に書いています地方史研究にも書いております」といことですので、安仁屋氏は既に兵事主任の証言を知っていて、かつ「地方史研究」等にも掲載されているという主張がなされています。つまり1988年以前にも存在していたということになります。

 それがどのようなものか、具体的なものを考察するため、「裁かれた沖縄戦」から以下に引用します。

 

 「(指定被告代理人=弁護士の発言──引用者注)それから、先生、それ以前にも、二、三年前にも自分でお書きになったとこうおっしゃっていますけれども、これは、いつ、どういう論文かなんか。渡嘉敷村史以外に、なにか、

(安仁屋氏の発言──引用者注)ちょっとお待ちください。私の意見書の最後に添付してある経歴書から申しあげます。

 

 後に提出する甲第二九五号証を示す

 

(安仁屋氏の発言──引用者注)「四、主な著書・論文等」のところに──これがすべてだという意味じゃありませんよ。

(指定被告代理人=弁護士の発言──引用者注)いや、一つだけで結構です。さっきの、二、三年前におっしゃった。

(安仁屋氏の発言──引用者注)11です。「地方史研究」一九七号──これは東京で発売されている全国誌です。「沖縄戦四〇年と県民の心」。たとえば、それです。

(指定被告代理人=弁護士の発言──引用者注)それは何年でございますか。

(安仁屋氏の発言──引用者注)………もう三年前ですかな。

 

 甲第二九五号証というのは、安仁屋氏の略歴等が記載された意見書のことのようですが、その中に「主な著書、論文等」があり、1から19まである著作・論文等の中の11番目に提示してあるのが、1985年に発行された「地方史研究」197号に掲載された「沖縄戦四〇年と県民の心」ということです。

 

 当の本人である安仁屋氏が指定したという論文になるのですが、ここに兵事主任の証言が掲載、あるいは言及されていれば、「地方史研究」197号の発行年が1985年ですから、1988年以前にも存在していたという紛れもない事実にもなります。

 

 それでは「沖縄戦四〇年と県民の心」から、渡嘉敷島の集団自決に関するものだけを以下に引用させていただきます。

 

  1. 「二十七日には渡嘉敷島に上陸、二十九日には慶良間諸島全域をほぼ手中におさめた。軍民は混乱状態で山中に避難した。山中では飢えと熱病のもとで住民は八月下旬まで日本軍の監視のもとに置かれていた。渡嘉敷・座間味・慶留間の島々では凄惨な集団自決が発生し数百人が死んだ。」
  2. 「人びとの絶望感を醸成する「自決の事前教育」と軍の論理が結合し、地元の指導者たちを督励して、場合によっては事前に手りゅう弾など配っておいて、自決の場面となるのであろう。」 
  3. 「移民地の調査を通して、沖縄戦にかかわることがらもたくさん出てきている。たとえばケラマ諸島の渡嘉敷島で集団自決を強要したといわれる赤松大尉が、フィリピンでゲリラ討伐隊長として沖縄県出身者を通訳に使い、さまざまの残虐行為をしたこと、(後略)」

 

 

 安仁屋氏本人が指定した「沖縄戦四〇年と県民の心」は、73ページから84ページまでの比較的短い論文ですが、渡嘉敷島の集団自決に関するものは上記の3項目しかありませんでした。

 

 最初に言及しなければならないのが、ここでは兵事主任の証言が全く取り上げられていないことです。

 次に兵事主任の証言と関連性がありそうなのは、「場合によっては事前に手りゅう弾など配っておいて」という箇所だけです。

 しかしながら、初版が1950年の「鉄の暴風」には「住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが」と、集団自決をする前から既に手榴弾が住民たちに手渡されていたことに言及しております。したがって、兵事主任の証言と関連性があるのかどうかについては、これだけでは不明としかいいようがありません。

 

 「沖縄戦四〇年と県民の心」と兵事主任の証言には、第三者からすると関連性があるのか否かという判断がつかないのです。「事前に手りゅう弾など配っておいて」が兵事主任の証言そのものなのか、あるいはそれを元にしたかどうかについては、執筆した当の本人である安仁屋氏にしかわからないということです。

  

 つまり、たった一人の当事者である安仁屋氏の主張によって、どうにでもなるということであります。第三者からすれば1988年以前かどうかという問題が、結局は曖昧になってしまうという状況のまま、いつまでたっても決着がつかないということになるのです。

 

 あとに残るのは安仁屋氏を「信じるか信じないか」ということになってしまいますが、前回も指摘した通り「信じるか否か」と「事実か否か」は全く関係ない事柄であり、リンクもシンクロナイズもしないものであります。

 前回は当事者同士にしかわからない事柄でしたが、今回は当事者だけにしかわからないという事柄です。したがって「事実か否か」が考察できない以上、このまま追求することはいたしません。

 

 ここで確実に言えることは、安仁屋氏が兵事主任の証言を決定的な証拠として事実認定し、それによって自らの主張を展開し継続していることです。

 それに対し兵事主任の証言の存在自体に曖昧さがあり、それを払拭できないゆえに少なからずの疑問がある、ということを提示しなければなりません。

 

 さて、皆さんはどう思うでしょうか。

 

 次回以降に続きます。

 


 

参考文献

 

渡嘉敷村史編集委員会編 『渡嘉敷村史 資料編』(渡嘉敷村 1987年)

渡嘉敷村史編集委員会編 『渡嘉敷村史 通史編』(渡嘉敷村 1990年)

地方史研究協議会編 『地方史研究 第197号』(地方史研究協議会 1985年)

別掲 『裁かれた沖縄戦』

別掲 『現代史の虚実』