goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

空と無と仮と

沖縄・日本史・ミリタリーなど、拙筆ながら思ったことをつれづれと、時には無駄話、時にはアホ話ってなことで…

渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」⑥

2019年03月10日 00時26分52秒 | 渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」

           

   

 

「命令」から「強制」へシフトした瞬間


 「自決命令」→「軍の命令」→「軍の強制」というシフトチェンジがなされてきたということ、それが集団自決の実像解明の弊害あるいは阻害しているのではないか、ということを今まで指摘してまいりました。僭越ながら、詳しくは当ブログを最初からお読みになっていただけるとありがたいです。

 

 今回は「軍の命令」から「軍の強制」に変換された瞬間はいつなのか、ということを中心に考察したいと思います。

 

 ターニングポイント的な、あるいは象徴的なものとして目立っているのが、当ブログのタイトルにもなっている「挑まれる沖縄戦」ではないかと思われます。

 

 「挑まれる沖縄戦」というのはサブタイトルに書かれている通り「「集団自決」・教科書検定問題報道総集」が中心の内容なのですが、かれこれ10年以上前のことになりますので、ご存知のない方もおられるかと思います。もちろん沖縄に住んでいらっしゃる方は知ってるどころか、その県民大会に参加された方もおられるのではないでしょうか。前回の話の続きではないですが、ここでは積極的に「行ったか」強制的に「行かされたか」といったことに関しては特に取り上げません。

 

 そもそも教科書検定問題とは何か、ということを説明しなければなりませんので、朝日新聞から引用させていただきます。

 

文部科学省が公表した06年度の教科書検定で、沖縄戦集団自決を巡り、「日本軍に強いられた」などとする高校教科書の内容に修正を求める意見が付けられた。文科省は、従来と判断基準を変えた理由について、「軍の命令があった」とする資料と否定する資料がある▽自決を命じたと言われてきた元軍人やその遺族が名誉棄損で訴訟を起こしている――などと説明している。

(2007-06-23 朝日新聞 朝刊 2社会)」

 

 これに対し「沖縄からは猛烈な反発」があり、それが県民大会である「教科書検定意見撤回を求める県民大会」へと発展していきます。「挑まれる沖縄戦」はそういった経緯を沖縄の視点から捉え、いかに沖縄からの反発や「怒り」が強かったか、ということを主張する展開になっています。

 

 とはいっても、本当に11万人が集まったのかという疑問や、自治体が税金を使って無料バス手配等の便宜を図るといったことへの批判があり、それはそれで問題ではあるかもしれませんが、ここではこれ以上追及しません。そういったものに興味がある方は他の文献等でご確認ください。

 また、この「挑まれる沖縄戦」は渡嘉敷島以外の集団自決も掲載されておりますが、ここでは引き続き渡嘉敷島の一点だけに絞ります。

 

 さて、当ブログで再三取り上げてきた「鉄の暴風」における赤松大尉の文言について、「挑まれる沖縄戦」はどのような取り扱いなのかというと、今回も全く無視あるいは排除されており、既に過去のことのように忘れ去られています。一応確認いたしますが、「鉄の暴風」と「挑まれる沖縄戦」の出版元は同じ沖縄タイムス社です。

 

 「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が、開催される発端となったものは教科書検定であります。ではなぜ教科書検定の修正がなされたかといえば、朝日新聞の引用にある通り「自決を命じたと言われてきた元軍人やその遺族が名誉棄損で訴訟」が起こったことです。

 中心人物というのは座間味島の元戦隊長で、数年前に亡くなられておりますが、その中には赤松大尉の遺族も含まれていました。

 

 「鉄の暴風」に掲載された赤松隊長の文言を中心に考えてみれば、いわば「直接対決」といっても過言ではないのですが、「挑まれる沖縄戦」には全く取り上げておりません。唯一、名誉棄損裁判の証言要旨として掲載されてますが、あくまで遺族側の証言であり、しかも「鉄の暴風」に言及していることが明記されているのに、それに対する回答や反論はありませんでした。ただしこの名誉棄損裁判では「鉄の暴風」がメインではなく、大江健三郎氏の「沖縄ノート」とその出版元に対するものなので、参考がてら付言します。

 

 そうはいっても、事の発端はまちがいなく「鉄の暴風」にあります。「沖縄ノート」も「鉄の暴風」に掲載された「事実」を元に書かれたと大江氏本人も証言しているのでありますから、この件に関しては全く異論がないと思われます。

 にもかかわらず当事者の遺族に対して何の対応もせず、よく言えば沈黙を守り、悪く言えば第三者を装って無視するといった態度は、礼を失するような、あるいは侮辱しているような態度である気がしてなりません。

 

 ただ、「訂正しろ」や「謝罪しろ」ということを主張するのではありません。「鉄の暴風」における赤松大尉の文言が正しいと主張するならば、それを堂々と遺族に説明すべき義務があると思います。それどころか、有識者や専門家の意見を借りて、遺族たちは「そそのかされて」裁判を起こしたような印象を与える記事も見え隠れします。

 あくまでも個人的な意見ですが、そういったものが無く、しかも赤松氏の文言を無視し排除する態度をとり続ける限り、沖縄タイムス社全体の信用性自体を疑わざるを得ませんが、皆さんはどう思われるのでしょうか。

 

 「鉄の暴風」における赤松大尉の文言が無視・排除される代わりに、前回取り上げた「兵事主任の証言」が決定的証言として、より一層前面に出てきます。

 特に「教科書検定意見撤回を求める県民大会」を支持する大学教授等の専門家と称される方々は、兵事主任の証言を前提として軍の命令があったとする主張を展開しています。

 

 兵事主任の証言を裏付けできるような証言も出てきました。

 集団自決の生存者、つまり当事者である金城重明氏が兵事主任の証言を聞き、それが軍命令の根拠となることを主張しています。特に名誉棄損裁判ではそういった主張が全面的に出され、同じく当事者である座間味島配備だった元戦隊長や赤松大尉の「命令はしていない」という主張と真っ向から対立する展開になっています。

 

 当事者同士の証言に全くの食い違いがあるのは明白です。

 それと同時に、バカの一つ覚えのような感じで申し訳ありませんが、兵事主任の証言には相互参照・相互補完できる資料というのが全くないことも付言しなければなりません。この現象はここで新しく発見されたわけではなく、軍の命令がなかったという主張する文献によって以前から指摘されていました。

 つまり信ぴょう性が既に疑われていたのです。

 

 そういった状況を考慮してか、当事者である金城氏が「軍命令を聞いた」と主張することにより、その疑われた信ぴょう性を払拭させようという狙いが見え隠れしています。

 

 しかし、実は金城氏が聞いたのは元兵事主任からであり、「軍の命令」を直接聞いたわけではありません。これに関して言えば、既に金城氏本人も「聞いていない」と証言しており、「軍命令を聞いた」あるいは「軍命令が出た」と主張する根拠は、その元兵事主任から戦後聞いた「後日談」ということになるのです。

 兵事主任の証言と同じような、あるいは似たようなことを「その当時」聞いたのではなく、戦後になって「そういう話があった」ということを、元兵事主任から直接聞いただけなのです。もっと具体的なことをいえば、元兵事主任から電話で確認をとったということを、ご本人は1980年代後半に証言しています。

 

 兵事主任の証言をいつ聞いたのか、その時期によって裏付けできるか否かの判断は変わると思います。今回の場合はいわゆる元ネタが元兵事主任でしかなかったという点において、結局は今までと同じように相互参照・相互補完できない状態を維持してしまっているということです。

 

 そういった経緯は当然のように「挑まれる沖縄戦」に掲載されていません。それどころか、兵事主任の軍命令を聞いた「当事者」として、金城氏の主張が大々的に取り上げられております。

 少々ややこしい話になりますが、金城氏の「軍命令を聞いた」という証言そのものは、集団自決の前といった「当時」のことではなく、戦後になって、しかも直接ではなく間接的な「また聞き」なのです。したがって、兵事主任の証言に対する信ぴょう性は依然として疑問があると言わざるを得ないのに、その「また聞き」を一切削除して「軍命令を聞いた当事者の証言」として取り上げてしまっているということになります。本来は結び付けることができないようなものを、結んでしまっている展開ともいえます。

 

 当事者の証言というのは貴重かつ重要な一次資料であります。しかし上記のように「細工」したものになってしまえば、軍の命令があったかどうか明確ではないのに、「軍が命令を出した」というイメージだけが確実に残ります。「軍命令を聞いた当事者の証言」なのですから、当然といえば当然の帰結です。

 

 特に上記の経緯を知らない方が「挑まれる沖縄戦」等の文献や新聞記事を読んだ時は、より一層信じてしまうでしょう。いや、圧倒的多数の方、特にあの県民大会へ積極的に参加した方々は上記の経緯を知らないかと思われます。第一、金城氏はあの凄惨な集団自決の経験者ですから、信じないほうがおかしいかもしれません。

 

 ただし、ここで金城氏が「嘘をついている」と非難しているのではありません。少なくとも金城氏の主張は軍命令が出たと「信じている」のですから、一個人の感情まで追及するつもりは全くないことを理解していただきたいです。そもそも今回の件では金城氏が嘘を言っているとは思えません。

 

 しかし金城氏の証言では、軍の命令があったかどうかの明確な判断が依然として不可能です。それでも「軍命令を聞いた当事者の証言」があるということは、軍が命令を出したという「印象」「イメージ」だけが単に強いだけになってしまいます。 

 つまりこれは印象操作なのです。軍の命令があったかどうか不明なのに、軍の命令があったという「印象」 だけが強調されているということです。印象操作は印象操作であって「教科書検定意見撤回を求める県民大会」をある程度成功させたかもしれませんが、「軍の命令があった」という決定的証拠には程遠いものです。

 

 印象操作という観点に立てば、これだけにとどまりません。まずは「挑まれる沖縄戦」から以下に引用します。

 

「軍強制を削除した教科書検定は、「集団自決」の真実と、残された人々の心痛をも全て消し去った。

 検定に連なる背景には、日本軍の加害を「自虐的」とし、名誉回復を目指す歴史修正主義の動きがある。「集団自決」は標的にされたのだ。」

 

 教科書検定に変更があったことの原因が、要は「歴史修正主義者」の陰謀だということです。そして上記の記事を沖縄タイムス社の記者が署名入りで書いているということは、沖縄タイムス社全体の主張ととらえても問題ないと思います。

 「歴史修正主義者」の陰謀があったかどうかはわかりません。興味のある方はご自分で考察なさってください。ここで言えるのは当事者自身が「命令していない」として名誉棄損裁判まで起こしている状況がある以上、「軍命令があった」とする教科書の記述を再考する行為自体は自然の成り行きだと思われますが、皆さんはどう思われるのでしょうか。

 

 ここで注視しなければならないのは、「軍の命令」があったというのが大前提で上記の主張がなされ、その「厳然たる事実」をあたかも「歴史修正主義者」が闇に葬り去ろうと、陰で策動しているといった印象操作が行われていることです。「軍の命令はなかった」説を主張するものすべてが、あの忌まわしき「歴史修正主義者」だと悪いイメージのレッテルを張っているのです。

 

 これを別の観点から見てみると、「軍の命令」がなかったという説に対して、印象操作をしなければならないほど「軍の命令」説の信ぴょう性が保持できない、ということになるのではないかと思われます。「軍の命令」説が崩壊してしまうという危機感を抱いているということかもしれません。もう一度書きますが、印象操作は印象操作以外の何物でもなく、決定的証拠には決してなり得ないものです。

 

 現に赤松大尉が自決命令を出したという決定的な証拠は、2019年の現在でも発見されておりません。「軍の命令」という証拠は兵事主任の証言だけで、その信ぴょう性に疑問があるという指摘を払拭できません。当事者本人も1970年代から一貫して「命令は出していない」と主張しております。

 

 それでも日本軍の責任追及という結果を固定してしまっている人たちには、どうしても日本軍が「悪いことをしていなければならない」証拠が必要なのです。なぜ必要なのかは、当ブログを最初からお読みになっていただければありがたいです。

 

 ここで「軍の命令」から「軍の強制」へとシフトが変わるのです。命令という具体的なものから、強制という抽象的なものへのシフトチェンジです。「命令」ダメなら「強制」ならどうか、といった感じです。

 

 「軍の強制」へと変わりましたが、強制だと曖昧になってしまうという懸念からか、正確には「強制集団死」という用語が頻繁に用いられています。核心部分は順次曖昧にしていくのにもかかわらず、自らの主張はより具体的に、よりセンセーショナルになったというのが個人的な見解ですが、軍からの明確な命令がなくても、指示や誘導といった、必ずしも軍の命令ではないものまで含まれることは同じです。仮に自主的なものであったとしても、強制されたという主張がこれで可能になるのです。

 

 そうやって適用範囲を拡大するという、小さい的から大きな的へとすり替えるようにしておけば、誰からも批判されることなく、引き続き日本軍、あるいは日本の戦争責任を追及することが可能です。「日本軍は悪いことをした」と言い続けることができるのです。

 

 そしてここでも「鉄の暴風」における赤松大尉の文言は無視され、忘れ去られることを期待するかのように排除するのです。むしろ邪魔な存在だけなのかもしれません。さらにそういった行為は歴史学の考察を職業としている大学教授の一部の方々にも、残念ながら加担していると言わざるを得ない状況が見受けられます。

 

 「歴史修正主義者」による陰謀ということを前述しましたが、そのネオナチのような忌まわしき「歴史修正主義者」が行う常套手段の一つとして、自らの主張に反するもの真逆なものは全て排除し、時には暴力といった実力行使も厭わないようなことを平然とします。

 さて、集団自決における、あるいは沖縄問題における「歴史修正主義者」は一体誰なのでしょうか、陰謀は誰が企てたのでしょうか。

 

 そして「赤松大尉の自決命令」→「軍の命令」→「軍の強制」という流れが、これでようやく完成するのです。

 集団自決の実像を解明する阻害要素、つまり恣意的な資料の取捨選択が連続して行われているということをご理解いただけましたでしょうか。自分たちの都合が悪いものは無視して排除する人たちが誰であるか、皆さんにも是非お考えいただきたいです。

  

 最後に「教科書検定意見撤回を求める県民大会」の決議文を一部引用します。

 

「教科書は未来を担う子供たちに真実を伝える重要な役割を担っている。だからこそ、子供たちに、沖縄戦における「集団自決」が日本軍における関与なしに起こり得なかったことが紛れもない事実であったことを正しく伝え、沖縄戦の実相を教訓とすることの重要性や、平和を希求することの必要性、悲惨な戦争を再び起こさないようにするためにはどうすればよいのかなどを教えていくことは、我々に課せられた重大な責務である。」

 

 この決議文には「軍命令」が記載されていませんが、「軍の関与」というシフトチェンジへの「萌芽」がみられます。 

 

 そして「子供たちに真実を伝える重要な役割」が「我々に課せられた重大な責務」なら、もう一度「鉄の暴風」へ回帰しませんか、ということを提案して終わりにしたいと思います。

 

 最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。

 


参考文献

沖縄タイムス社編『挑まれる沖縄戦 「集団自決」・教科書検定問題報道総集』(沖縄タイムス社 2008年)

別掲 『裁かれた沖縄戦』

別掲 『現代史の虚実』

コメント

渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」⑤

2019年03月03日 00時01分01秒 | 渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」

  

個人的に気になる点その2 「合囲地境」説について


 今回も兵事主任の証言について、個人的に気になるもう一つの点を説明したいと思います。

 まずは再度の引用から。


 

 「「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と、近くの国民学校にいた軍から命令が来た」。自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだっただろうか、と富山さんは回想する。「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」

 すでにない旧役場の見取り図を描きながら、富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅二㍍ほどの道へ並んだ少年たちへ、一人一個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。「いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ」。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに…。富山さんは証言をそうしめくくった」1988年6月16日付『朝日新聞』(夕刊)


 

 渡嘉敷島の集団自決において軍の命令や強制があったという立場の考察では、この証言が決定的な証拠として取り上げられています。少なくとも兵器軍曹が「自決せよ」と言っており、集団自決の手段として手榴弾が使用されたことからも、その入手経路を解明する一つの証拠ともなり得るものです。

 

 しかし、この兵器軍曹の発した言葉は「命令」と断言できるのでしょうか。「指示」「訓示」という可能性はないのでしょうか。

 兵器軍曹が「命令」したとされる上記の証言では、命令される側は15~16歳程度の少年たちです。いわゆる一般市民でもありますから、軍の命令系統に入っていたことにもなりますが、そもそも軍と住民の関係はどのようなものだったのでしょう。

 

 それを考察する前に、例え話をしたいと思います。

 Aさんは十数人規模の会社に転職しました。仕事自体は特に問題ないのですが、この会社の社長はゴルフが大好きで、月に一度ほどのゴルフ大会を会社の休業日に開催します。

 さて、Aさんはこのゴルフ大会に出るのでしょうか、出ないのでしょうか。

 これは休日を利用したゴルフ大会なので、当然ながら会社の業務とは全く関係がありません。従って業務命令ではありませんので、大会出場を拒否しても何の問題もありません。

 しかしAさんは拒否できるのでしょうか。「業務とは関係ないから出ませんよ」とハッキリ言えることができるのでしょうか。

 みなさんもゴルフ大会ではないにしろ、業務命令とは言えないようなことなのに、従わなければいけないような経験をお持ちだと思われます。中小企業の方はもちろんのこと、数百人や数千人規模の会社に勤めておられる方ならば社長ではなく上司で、会社全体ではなく部課の組織内で同じような経験があると思われます。

  本来なら拒むことができるのに、Aさんはほぼ間違いなくゴルフ大会に出ることでしょう。

 社長とAさんは雇用関係でありますが、同時に主従関係でもあります。日本人の思考、あるいは行動原理からすれば雇用関係というよりも主従関係のほうが前面に出てくるのではないでしょうか。そしてもう一つ、Aさんが出るか出ないかを決めるものに「場の空気」や「その場の雰囲気」といったものが、少なからず左右してくるのではないでしょうか。

 だから拒否はできないのです。この点については、特にこういった経験がある方には説明するまでもありませんが、明確な規定がないにもかかわらず、それぞれの主従関係や雰囲気といったような「見えない拘束力・束縛力」によって、Aさんは拒否できないということになります。

 

 軍と住民の関係も上記の例え話と同じような状況にあったのではないでしょうか。いやむしろ戦争という非常事態であったならば、戦争行為、あるいは戦闘行為がメインであるならば、軍と住民の主従関係といったものは、より強い拘束力や束縛力があったのではないかと思われます。

 

 ただし、実際のところ軍と住民の関係、この場合は海上挺身第三戦隊と渡嘉敷村には明確な規定がありませんでした。別の言い方をすれば、渡嘉敷村は戦闘序列の枠外にあったということでもあります。もっと具体的なことをいえば、あくまで理論上ではありますが、戒厳令が布告されない限り、渡嘉敷村は自治体として海上挺身第三戦隊の「命令」を拒否することが可能だったのです。当時の渡嘉敷村村長からも「軍から直接命令されることはなかった」という証言があります。ちなみにその当時沖縄県全体でも戒厳令は布告されていません。

 個人的にはこの明確な規定がなかったということが、集団自決の実像解明を困難にしている遠因だと考えていますが、ここではこれ以上追究しません。

 

 そうとはいえ、軍と住民の関係というのは集団自決の実像解明において、非常に重要な要素が含まれていることは確実であり、現に様々な視点から考察されているものでもあります。

 特に集団自決が軍の「命令」や「強制」によって行われたという主張の文献では、その関係が隷属的なもの、支配的なものという観点で考察されております。つまり、たとえ軍からの指示や要請であったとしても、住民側にとっては逆らうことができない絶対的な命令であり、その命令によって集団自決が強制されたということになります。

 また、もう一つの特徴として渡嘉敷村民をスパイとして処刑した事件も取り上げられており、集団自決とスパイ処刑事件がワンセットのようなかたちで考察されているのがほとんどです。ここでは集団自決の一点にのみに絞っておりますので、スパイ処刑事件について知りたい方はご自分でお調べになってください。

 

 そういったなかでも典型的なのが「合囲地境」説です。ご存知の方もあるかと思われますが、ご存じない方のために、安仁屋政昭氏の論文「沖縄戦の集団自決(強制集団死)」を以下に引用いたします。少し長いとは思いますが、非常にわかりやすい文章です。


 

 「合囲地境(ごういちきょう)における集団死

 沖縄戦のとき、南西諸島全域は、空も海も米軍によって制圧され、九州や台湾との往来は遮断され、包囲されていました。

 沖縄守備軍は、県や市町村の所管事項に対しても、指示・命令を出し「軍官民共生共死の一体化」を強制しました。県民の行動は、すべて駐屯部隊の指揮官によって規制され、ここには民政がなかったのです。このような戦場を軍事用語では合囲地境と言いました。合囲地境は敵の合囲(包囲)または攻撃があったとき、警戒すべき区域として「戒厳令」によって区画したところです。

 合囲地境においては駐屯部隊の上級者が全権を握って憲法を停止し、立法・行政・司法の全部または一部を軍の統制下に置くことになっていました。沖縄戦の時、戒厳令は宣告されなかったものの、南西諸島全域は事実上の合囲地境でした。県知事や市町村長の行政権限が無視され、現地部隊の意のままに処理されたのは、このような事情によるものでした。地域住民の指示・命令は、たとえ市町村役場の職員や地域の指導者たちが伝えたとしても、すべて「軍命」と受け取られました。

 慶良間諸島の渡嘉敷島では赤松嘉次大尉が全権限を握り、座間味島では梅沢裕少佐が全権限を握っており、村行政は軍の統制下に置かれて、民政はなかったのです。このような軍政下で、軍命を伝える重要な役目を果たしたのが村役場の兵事主任(兵事係)でした。

 兵事主任は、兵籍簿の調整・兵役年齢者の所在確認・←徴兵猶予願い等の処理・召集令状の伝達・戦没軍人遺家族や傷病軍人の援護など、軍事に関する地域の指導者でした。沖縄戦のときの兵事主任の主な任務は、現地部隊の要求する兵員を徴集して駐屯部隊に引き継ぐこと、軍命(労働力供出・避難・集結・退去等)を住民に伝えることでした。渡嘉敷村の兵事主任であった富山真順氏は、次のように証言しています。

 

 ①一九四五年三月二十日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山真順に対し、渡嘉敷の住民を役場に集めるように命令した。軍の指示に従って「十七歳未満の少年と役場職員」を役場の前庭に集めた。
 ②その時、兵器軍曹と坪ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜となる恐れのあるときには、残りの一発で自決せよ」と訓示した。
 ③米軍が渡嘉敷島に上陸した三月二十七日、兵事主任の富山氏に軍の命令が伝えられた。その内容は「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。
 ④三月二十八日、恩納河原の上流フィジガーで住民の「集団死」事件が起きた。このとき防衛隊員が手榴弾を持ち込み、住民の「自殺」を促した。


 兵事主任の証言は、住民の「集団死」の実態を如実に伝えています。合囲地境における軍命を伝える兵事主任は重大な責務をになっていたことがわかります。日本国民は、軍の命令は「天皇の命令」と教えられてきました。捕虜になるよりも、「死を選ぶこと」が、「臣民の道」と信じていた一面もあります。天皇の軍隊と地域の指導者たちの教導に従って「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」という「戦陣訓」を実践させられたのです。」


 

 特に解説しなければならないほど難しい文章ではありませんし、軍と住民の関係がどういうもであったかの説明が、いわば凝縮されている形になっていることが窺われます。ちなみに朝日新聞から引用した兵事主任と安仁屋氏の引用文に出てくる兵事主任は同一人物であり、同じ証言であることがわかります。

 そしてこの「合囲地境」説が「命令」や「強制」されたという主張の場において支持され、あるいはこの説をもとにしたさらなる主張が展開されているというのが現状で見受けられます。

 

 「合囲地境」説を支持するかどうか、という問いに答えなければならないとすれば、基本的には支持します。前述しましたがこの当時は紛れもない戦争状態でしたし、戦争あるいは戦闘行為が継続中であるならば、当然軍が主導権を握らなければ支障が出てしまうことは、戦争を体験したことのない人でも十分に理解できることでしょう。事実上の合囲地境状態であったことは、必ずしも間違いではないと思います。

 

 しかし、この「合囲地境」説を支持する、あるいは正しいと判断したという前提に立てば、二つの引用文に出てくる兵事主任の証言に、ある一つの疑問が生じてしまいます。

 「命令」「強制」という観点からすれば兵事主任の証言の後半部分、具体的には「いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ」の部分に焦点が集中しているかと思われます。

 

 ここではその部分ではなく、「合囲地境」説に焦点を集中させてみると今度は前半部分、具体的には「「青年たちをすぐ集めろ、と、近くの国民学校にいた軍から命令が来た」。自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。」という部分に矛盾が生じてしまうからです。

 

 「青年たちをすぐ集めろ」という「命令」を兵事主任が受け、渡嘉敷地区には呼集をかけました。ただし、阿波連地区には上記の理由によって呼集をかけていません。つまり渡嘉敷地区だけの青年が集められたということです。

 少なくとも該当証言の文脈を常識的に考えれば、そういった結果になると思います。

 

 通信手段がなかったとはいえ、なぜ阿波連地区には呼集しなかったのかという疑問もあります。

 ただ疑問点はそこではありません。「自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない」という文脈を常識的に考えれば、本来なら阿波連にも連絡しなければならない、いや、軍からの「命令」なのでありますからそれを必ず実行しなければならないはずです。それをしなかった兵事主任の行動そのものが腑に落ちないのです。

 

 「合囲地境」説を支持する、あるいは正しいと判断するという前提で考えた場合、端的にいえば兵事主任は軍の「命令」を無視したことになりませんか。別の言い方をすれば軍の「命令」に逆らった行動をしている、と言えるのではないでしょうか。軍の絶対的な支配下の状況において、兵事主任の行動は命令の不履行になり反逆ともとれる行動なのですが、軍はそれを許したのでしょうか。

 

 再三指摘している通り、この証言には相互参照や相互補完が可能な資料が存在しません。従って兵事主任と兵器軍曹の具体的な、あるいは詳細なやり取りを検証することができませんので、なぜ阿波連地区を無視したのか、その後はどうなったのかは一切不明です。しかしながら、上記の証言が事実だという前提であれば、阿波連地区に呼集をかけなかったのは、兵事主任の独自判断であり、すなわち軍の「命令」を無視していることになります。「合囲地境における軍命を伝える兵事主任は重大な責務をになっていた」のであるならば、阿波連地区を呼集しなかったのは軍の命令を無視するどころか、重大な責務自体を放棄するようなものです。

 

 もちろん、「自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない」という、実行不可能というか、不可抗力的なものがあります。しかしながら、「すぐ集めろ」というのが軍の「命令」であり、「阿波連には伝えようがない」という証言がある以上、兵器軍曹の「命令」は渡嘉敷地区と阿波連地区の両方でなければならず、他の手段を用いて「命令」を遂行しなければなりません。それにもかかわらず、兵事主任は渡嘉敷地区のみの呼集にとどめました。その結果渡嘉敷地区だけの少年たちの前で手榴弾が配布され、兵器軍曹の「自決せよ」との「命令」が発せられるのです。

 

 くどいようですが、兵事主任は両方に呼集をかけなければその「命令」を無視、あるいは独自の判断をしたことになるのです。住民は是が非でも服従しなければならない命令のはずなのに、無視あるいは独自の判断ができるということは、それだけ許容範囲があるということにもなり、従来は主従関係だった軍と住民という状況にも微妙な変化が現れるのではないでしょうか。

 つまり「命令」だったのが「指示」や「訓示」だった可能性も否定できないのです。現在風にいえば「死ぬ気で頑張れ」という励ましの声が、本当に死ぬことは望んでいないということと同じように、必ずしも「死ね」とは命令していないのではないか、ということも推測できるのです。

 

 これを常識的に解釈すれば「事実上の合囲地境」状態だった渡嘉敷村、いや沖縄県全体からすれば、絶対にあってはならない行為があった事実もあるわけですから、これは「合囲地境」説に矛盾することになるのではないでしょうか。

 ただしこの証言一つだけで「事実上の合囲地境」を全て否定することはしませんし、そもそもこの資料だけではあまりにも情報が少なすぎて、これ以上の考察は不可能だと思います。

 

 つまりは、それと同時に「事実上の合囲地境」ではなかったのではないかという仮説も、一方で成立することが可能になる状況でもあるわけです。

 

 しかも「合囲地境」説を主張する根拠の一つとして採用された兵事主任の証言が、その「合囲地境」説を否定できるような事実をも掲示しているといった、ちょっとややこしい状況も生まれているということにもなります。

 また、資料の恣意的な取捨選択こそが弊害だということを指摘いたしましたが、今回も証言の後半部は選択され、前半部が無視・排除されてしまっているということにもなっています。

 

 再びAさんの例え話に戻ります。

 Aさんはゴルフ大会に出ると決めたとき、積極的に出ようと思ったのでしょうか、それとも消極的なものだったのでしょうか。具体的には「社長のため、会社のために頑張るぞ」というようなものか、それとも「行きたくないけど社長の命令みたいなもんだからな…」というものなのかです。

 積極的ならともかく、消極的だった場合は会社内の「見えない拘束力・束縛力」によって、その消極性の度合いが変化すると思います。やりたくもないのにやらされるのありますから、「社長」や「会社」に強制させられたと思うかもしれません。

 皆さんはどちらの経験が多いでしょうか。

 

 しかし会社の全従業員という観点からすれば、業務命令ではない休日のゴルフ大会の参加は、画一的に強制させられたとなるのでしょうか。社長や会社のためにと思って積極的に参加した人にまで、社長や上司あるいは会社によって強制させられたとなるのでしょうか。

 もっとわかりやすい例を挙げるなら、過去何回となく行われてきて、今後も起こりうる可能性がある沖縄の「県民大会」の参加者は、積極的な参加なのでしょうか、それとも参加を「強制」されたのでしょうか。実際に参加した方はどう思われているのでしょうか。

 

 「事実上の合囲地境」状態であるから、画一的にすべてを強制されたというのには疑問が残ります。現に絶対的なものであるはずの軍命令を、当時の兵事主任は無視した行動をとっているのです。そういった点を恣意的に排除してしまうと、集団自決の実像を解明することが困難になっていくのではないかと危惧します。

 

 そして、あくまでも兵事主任の証言が事実であるならば、という前提条件があることも付言します。

 

 以上の状況を踏まえて「合囲地境」説を考察するならば決して間違いではないが、かといって断定するには非常に早計であるというのが個人的な見解です。

 

 というわけで、二つ目の気になる点を説明してみました。皆さんはどう思われるでしょうか。

 

 次回以降に続きます。

 

追記

「細かいことはどうでもいいんだ!」「揚げ足をとるな!」と思った方もいるかもしれません。しかし歴史学のような学術研究というのは「重箱の隅をつつく」行為の繰り返しだと思っていますし、それは歴史学にとどまらず全ての学問に当てはまると確信しておりますので、「細かいこと」にこだわり、反論といった「揚げ足をとる」行為をこれからも平然と繰り返すつもりです。

そういったわけなので悪しからず…

 


参考文献

 

安仁屋政昭編『裁かれた沖縄戦』(晩聲社 1989年)

The Asia-Pacific journal:Japan Focus

コメント

渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」④

2019年02月27日 00時12分27秒 | 渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」

 

 個人的に気になる点 その1


 前回は「赤松大尉の自決命令」から「軍の命令」へとシフトした「瞬間」について書きました。

 

 今回は先述した兵事主任の証言について個人的に気になる点、具体的には腑に落ちない点について説明したいと思います。まずはわかりやすいように再び引用します。 

 

 「「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と、近くの国民学校にいた軍から命令が来た」。自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだっただろうか、と富山さんは回想する。「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」

 すでにない旧役場の見取り図を描きながら、富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅二㍍ほどの道へ並んだ少年たちへ、一人一個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。「いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ」。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに…。富山さんは証言をそうしめくくった」1988年6月16日付『朝日新聞』(夕刊)より引用。

 

 個人的に気になる点は二つあります。

  1. どうして米軍が上陸するのを予知できたのか?
  2. それは「命令」なのか「訓示」なのか「指示」なのか?
 
 どうして米軍が上陸するのを予知できたのか?についてですが、他の文献にも指摘されていることでもあり、基本的にその文献等を支持します。わかりやすく説明すれば、その当時は想定外だった地上戦なのに、なぜ地上戦の準備をしていたのか、というのが骨子であります。
 
 そもそも慶良間諸島に海上挺身戦隊が配備された理由というのは、沖縄本島へ上陸する米軍に対しての攻撃であります。もっとも上陸した地上部隊を攻撃するのではなく、上陸部隊を支援する艦船への攻撃になります。従って米軍が沖縄本島に上陸する、あるいはしようとしているのが前提でありますから、慶良間諸島はその次になるわけです。
 
 渡嘉敷島を含む慶良間諸島からすれば、まず本島への攻撃が始まって、いつかはわからないが、その次に慶良間諸島を攻めるのではないか、という認識が少なくとも現地軍である第三十二軍にはあったのです。むしろあったがゆえの結果として、各海上挺身戦隊は慶良間諸島に配備されたということです。
 
 日本軍の具体的な配備・作戦等は省略いたしますので、ご興味のある方は参考文献等でお調べください。
 
 しかし現実にはそうなりませんでした。米軍は沖縄本島よりも先に慶良間諸島を攻撃します。ちなみに兵事主任の証言では3月20日ごろということですが、24日に米軍の空襲が始まり、27日に上陸作戦が展開されます。
 
 結果的に予想外の展開になった渡嘉敷島ですが、大小さまざまな敵の艦船が集結した後に決行される作戦の性質上、実際に出撃する現地部隊のほうが、その認識度は高かった可能性があります。
 
 従って地上戦闘は二次的なもの、あるいは地上戦の準備は優先順位が低かったともいえる状況でした。それにもかかわらず、なぜ米軍の攻撃を「予知」したような、手榴弾を配布するような行為がなされたか、そしてその後に起こる集団自決を「予知」していたような「自決せよ」という「命令」がなされたのか、という疑問がわくのも当然だと思います。
 
  そういう高い認識度があったならば、この証言には信ぴょう性がないかといえば、必ずしも断定することができないと思います。
 
 例えばあくまでも仮定ではありますが、この集合が「訓練」あるいは「軍事教練」の一環だったらどうなるでしょう。
 
 勿論、兵事主任の証言には訓練や軍事教練といたものが、特に明記されているわけではありません。
 しかしながら、地上戦は想定外、あるいは優先順位が低いといった認識度が高く、かつ兵事主任の証言に間違いがないのであれば、この役場前の集合というものが来るべき地上戦に備えた、軍事教練といった訓練だったのではないかという推測もできるのです。上記の証言時ではありませんが、そういった訓練をしたという証言もあり、渡嘉敷島のみならず沖縄県全体、いや日本全体で行われていたことも考え合わせれば、特に違和感はないと思われます。
 
 そうであるならば、少年たちに手榴弾を配っていることに説得力も追加されるのです。そういう経緯で兵器軍曹が「自決せよ」と言っても整合性がないとは言い切れないという推測も成立するのです。
 
 くどいようですが、兵事主任の証言には訓練だということは一切明記されていません。それでも「地上戦はない」といった認識度が高かったという事象、もっとわかりやすく言えば、高い認識度があるにもかかわらず、ということと、手榴弾を配布したという二つの事実に辻褄を合わせようとした場合、上記の仮説も成立するのではないかということです。
 
 ただし、訓練ではないかという「発見」を自慢する気はまったくございません。二つの事象を検証してみると、別の仮説や推測が成立するということを強調します、ということを是非ご理解頂きたいだけです。
 
 
 推測の文字ばかり並んでしまった感もありますが、再三指摘したとおり兵事主任の証言を相互参照・相互補完できる資料が一切ありませんので、これ以上の考察は無理と判断いたしました。
 
 
 どっちつかずの状態だという疑問、あるいは腑に落ちない点を掲示しましたが、皆さんはどう思われるでしょうか。
 
 
 
次回以降に続きます。
 

参考文献
 
防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社 1968年) 
 
八原博通『沖縄決戦』(読売新聞社 1972年)
 
秦郁彦『現代史の虚実』(文藝春秋 2008年)
コメント (2)

渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」③

2019年02月24日 00時07分41秒 | 渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」

「自決命令」から「軍の命令」へシフトした瞬間

 

 前回まで「自決命令」→「軍の命令」→「軍の強制」というシフトがなされてきたということを延々と書きました。それが集団自決の実像解明の弊害あるいは阻害しているのではないか、ということも指摘しました。詳しくは当ブログ「言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」」①と②をお読みいただければありがたいです。

 

 では一体どのような感じでシフトしていったのかということを、具体的な例を挙げて考えてみたいと思います。今回は「赤松大尉の自決命令」から「軍の命令」へとシフトしたといえる「瞬間」です。

 

 この場合、シフトしたということは変わったということにもなりますから、それを示すエポック的なものや象徴的なものが必ず存在するはずです。自分なりにいろいろ探してみた結果、とある有名な証言がそれに該当することと判断いたしました。

 有名とはいいましても、渡嘉敷島の集団自決を研究する人や、集団自決に興味がある方なら誰もが知っている証言という意味です。また、この証言がその後の渡嘉敷島集団自決における、「軍の命令説」に対する決定的な証拠として数々の文献に取り上げられていますので、そういった意味での有名ということでもあります。

 

 その証言とは「兵事主任の証言」です。ご存知の方もおられるでしょうが、ご存知ない方のために引用いたします。

 

 それでは1988年6月16日付の『朝日新聞』(夕刊)から。

 「「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と、近くの国民学校にいた軍から命令が来た」。自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだっただろうか、と富山さんは回想する。「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」

 すでにない旧役場の見取り図を描きながら、富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅二㍍ほどの道へ並んだ少年たちへ、一人一個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。「いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ」。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに…。富山さんは証言をそうしめくくった」

 

  一般的常識で考えれば、この記事を読んだら「軍の自決命令」があったのではないか、と考えるのではないかと思われます。「兵器軍曹」が部下に命じて手榴弾を用意し、役場職員と少年たちを集めて「自決せよ」と「命令」しているのですから、軍からの命令はあってもおかしくはない、というような印象を持つことができるのではないでしょうか。

 

 では早速、シフトしたという観点から考察してみます。

 一読していただければわかると思いますが、この証言には兵器軍曹が命令したということだけで、「鉄の暴風」に掲載された「赤松大尉の自決命令」については言及されていません。

 

 軍隊というのはご存知の通り「上意下達」が基本中の基本ですし、特に日本陸軍の場合は敵の米軍よりもシビアな上意下達、究極的なものといっても過言ではないほど厳しかったです。「上官の命令はすなわち天皇の命令」なんて典型的な例だと思います。これは厳密にいうと必ずしも正しいとは言えない例なのですが、その雰囲気を感じ取ってくれるだけでよろしいかと思います。

 上意下達を順々と辿っていけば、当然のごとく赤松大尉に到達することは明白であります。そういうことであるならば、この兵事主任の証言に出てくる自決命令は、赤松大尉が発したものと断定することが可能です。

 

 「渡嘉敷島の隊長さん」は赤松大尉なのですが、ある時期までは隊長が二人いました。海上挺身第三戦隊の赤松大尉と、海上挺身基地第三大隊の隊長です。一見すると似たような名称ですが全くの別部隊で、戦闘序列は同列でした。わかりやすく言うと二人の上司は同じなのですが、組織としては主従関係でも上下関係でもないということです。現在の会社組織と同じです。

 ちなみに海上挺身基地第三大隊の任務は、海上挺身第三戦隊用の基地設営・構築・船舶の整備で、海上挺身第三戦隊が出撃等により渡嘉敷島から出てった後は、渡嘉敷島を防衛をすることになっていました。現実にはそうならないで、海上挺身第三戦隊が渡嘉敷島に残ったということになります。

 

 隊長が二人いた場合、兵器軍曹の所属先によっては、赤松大尉の部下ではないということになります。しかし「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか」という証言に誤認がないのであるならば、二月中旬に海上挺身基地第三大隊は海上挺身第三戦隊に編入された事実がありますので、この兵器軍曹は赤松大尉の部下ということになります。

 

 しかし、あくまでも理論上という領域の枠から抜け出すことができません。特に説明するまでもありませんが、上意下達というものは複数の人が介在しておりますゆえに、「独断専行」等といった何らかの理由により、いくら厳しい上意下達といっても、赤松大尉以外の人物が自決命令を出したという可能性が存在するからです。つまり少なくとも上記の証言だけでは、「赤松大尉が発した自決命令とは断言できない」ということです。極言すれば兵器軍曹が勝手に出した命令という可能性も、この証言からは否定できないのです。

 

 そうなると、次は兵器軍曹の存在が重要になってくるのは当然の帰結になるでしょう。特定することができるのであれば、この証言を補完できるものであることは言うまでもなく、自決命令がどのようなものだったかという実像の解明が、全てではないにしろできるということになります。

 

 そもそも兵器軍曹とは何か、ということになりますけど、上記の証言だけでは特定できません。それでもある程度の推測は可能だと思います。

 「兵器軍曹」という、いわゆる役職といったものはありませんが、中隊レベルの組織になると「兵器掛」というものが存在し、通常は軍曹といった下士官レベルが担当します。「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」という証言と突き合わせてみると「兵器掛」だった可能性があります。また手榴弾が入った木箱を二つ、部下に運ばせている場面もあります。これは船舶と爆雷がメイン兵器の海上挺身第三戦隊より、のちに編入された歩兵部隊でもある海上挺身基地第三大隊のほうが、常識的に考えれば大量の手榴弾を所有している可能性が高いので、元は第三大隊所属だったのではないかという推測も可能です。

 ただし、あくまでも推測の域を出ないことを付言します。

 

 次にくるのが「兵器軍曹は誰なのか」ということになります。

 軍曹というからには元軍人の証言といった資料や「陣中日誌」「戦闘概要」「戦闘詳報」等、といったもので特定することが可能になるかもしれません。しかしながら元軍人の証言でさえありませんでした。ちなみに海上挺身第三戦隊の陣中日誌は戦後になって加筆・訂正されたそうです。要はオリジナルではないということです。

 

  従って、どこの所属だか2019年の時点でも不明なのです。誰も誰だか知らないということです。他に補完するような資料、具体的には証言というものがないんです。要はこの兵事主任の証言だけなのです。それゆえ資料を突き合わせて考察すること自体が、2019年現在でも不可能になっているということです。 

  

 それどころか、上記の資料自体を相互参照・相互補完できる資料自体がないのです。インターネットでの検索も同様です。

 個人的な見解ではございますが、このブログを書くにおいて土台にした自らの卒業論文(放送大学に提出)を製作中だった2007年頃から、不思議だなと思い続けていました。しかもインターネット上では、同じような考えをお持ちになられた方もおられるようですが、ここでは参考程度で受け止めていただきたいです。

 

 証言の内容を一読していただければ、登場人物が多いことに気付くはずです。役場職員たち、少年たち、そして軍人たち合わせて数十人程度ですね。それなのに資料が出てこないのです。しかもこの集合に参加した人たちはもちろんのこと、集合している光景を見たという証言もないし、聞いたという証言もなく、軍人も同様な状況なのです。 似たようなもの、関連性がありそうなものでさえ見当たりません。

 参加した人や見た人聞いた人が、戦争中や戦後に亡くなられてしまった可能性も十分ありますし、結局残ったのは元兵事主任だけということかもしれませんが、とにかく不明であることだけは確かです。

 

 ないものを延々と説明することは脇に置いといて、「自決命令」→「軍の命令」へシフトしたという瞬間に戻ります。

 

 そういった観点に立ち戻れば、この証言によって「軍の命令」があった可能性が高いということもできるのです。別の言い方をすれば「赤松大尉の自決命令はなかったかもしれないが、軍の命令はあったはずだ」ということになります。

 

 ここが「赤松大尉の自決命令」→「軍の命令」、すなわち具体的なものから抽象的なものへシフトした「瞬間」だということが言えるのです。そして同時に適用範囲の拡大も行われた結果「鉄の暴風」に描写された「赤松大尉の自決命令」は、自動的ともいえるような形で無視または排除されたわけです。

 

 さらにいえば「赤松大尉の自決命令」がなくても「軍の命令」として、軍や日本に対する集団自決の責任追及を難なく継続できることが可能になったのです。

 なぜ継続できるのか、継続させるのか、ということについては当ブログの①と②を読んでいただければありがたいです。

 

 ここではシフトしたことに中心に書きましたが、皆さんはどう思われるでしょうか。

 

 

次回以降に続きます。

 

追伸 

「兵事主任の証言」を参照・補完できる資料がないと書きましたが、もし何かあることをご存知な方は、遠慮なさらずコメント欄でご教授をお願いします。自分は完璧な人間ではございませんので、どこかに見落としがあるかもしれません。

コメント

渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」②

2019年02月21日 00時13分23秒 | 渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」

「日本軍は悪いことをした」という「信念」の弊害

 

 日本の戦争責任を追及する人たち、あるいは組織団体が「具体的なものから抽象的なものへシフト」させ、その「適用範囲を拡大」させているということを説明しました。そしてそれが弊害を生んでいるということも指摘しました。

 では一体、どのような弊害を生んでいるのでしょうか。

 戦争責任追及の根本にあるものをわかりやすくいえば、「日本軍は悪いことをした」ということになると思います。悪いことをしたからその責任を追及するんですよね。そういった「信念」を持っているのは間違いないと思います。

 日本の反戦団体や平和団体で活動している人たちとお話になったことはありませんか。仮に日本軍についての質問やその人たちの考えを聞いたら、必ず日本と日本軍の批判や非難を繰り返しますし、自分もそういう経験をしてきたことがあります。

  これは「信念」ですから絶対に揺るがないことでしょう。ただし、信念を貫くこと自体を批判する気はございませんので、そこは誤解をなさらないようにお願いします。

 しかしながら、その揺るがない信念を貫き通すはずが、何らかの作用によってその信念とは真逆の、あるいはその信念を否定するような事態がおこった場合、その人たちはどういった行動をとるのでしょうか。つまり「日本軍は悪いことをした」という信念あるいは考え方を、真っ向から否定されるようなことです。

  渡嘉敷島の集団自決において「赤松大尉の自決命令」→「軍の命令」→「軍の強制」とシフトしていったことを前述しました。仮に赤松大尉の自決命令が、誰もが納得できるようなゆるぎない事実であったなら、「軍の命令」→「軍の強制」という流れは絶対になかったでしょう。「日本軍は悪いことをした」という信念を完全に完璧に肯定し補完するものですから、そこで流れが止まるのです。

  しかし現実には当事者の発言を否定する証言と、当事者の「誰も聞いていない」といった証言や事実しかありません。「赤松大尉の自決命令」がなかったと主張されても、常識的に考えれば間違いであることを否定できません。つまり「日本軍は悪いことをした」という自らの信念が否定されてしまうわけです。

  そこで次に出てくるのが「軍の命令」です。赤松大尉の発した自決命令はないかもしれないが、複数の証言には軍からの命令があったのは事実だから、集団自決も「軍の命令」だった。つまり「日本軍は悪いことをした」という信念を肯定することができます。

  しかし、複数ある証言のなかに軍の命令があったのですが、「移動しろ」「集合しろ」というものばかり。肝心の自決命令を聞いた人の証言には、それが自決しろという命令かどうかもわからず、命令がどこから来たのかさえ当事者には不明だったという事実もあります。これについては当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」②」に詳しく書きましたので、興味がおありになったのなら読んでいただくとありがたいです。

 これも「赤松大尉の自決命令」と同様、誰が言って誰が聞いたのか特定できない「軍の命令」なのですから、それがあったとは言い切れない状況です。命令はなかったと主張されても、それを覆すことができません。すなわち「日本軍は悪いことをした」という信念が崩されてしまうのです。

 そして最後に出てくるのが「軍の強制」になるわけです。誰かから誰かへという明確なラインがある命令と違って、強制であったならばそんな明確なものは必要ありません。軍が集団自決を強制させるような行為、あるいは彷彿とさせるような行為、またはそれを匂わせるような行為であれば、その全てが「強制」の範疇内になるわけですから、そういった行為をどんどん出していけばいいわけです。箱が大きければ大きいほど、物がいっぱい入ると同じ論理です。そう考えれば「強制」なんていくらでもありますよね。

 また「強制」というのは、つまり「自らの意思に反する」ということでもあります。裏を返せば「自らの意思に反する」行為なら、全てが「強制」にすることが可能となるわけです。
 例えば「徴兵制」というものがありますが、これも人によっては「自らの意思に反する」ものでしょう。そうでありますから、徴兵も「強制」であるといえることが可能になるわけであります。
 日常生活の中でもそれが「自らの意思に反する」ものであれば、たとえ「出勤」や「勉強」といった当たり前のようなことまでも、何の違和感もなく「強制」と位置付けることが可能となっていくのです。「やりたくないこと」を「やらされれば」、それは全て「強制」されたといえるのです。
 要は何でも「強制と言い換えられる」ことが、それこそ無限に現出してくるというわけです。

 これで「日本軍は悪いことをした」という自らのゆるぎない信念は、誰からも否定されなくなるわけではありませんが、されにくくなるということになります。もし否定されそうになったら、数ある「強制」という証拠を逐次投入すればいいだけです。

 「強制」を基準点にするならば個人的には同意できませんが、彼らの「日本軍は悪いことをした」という主張(信念)は決して間違いではないのです。

  これで具体的なものから抽象的なものにシフトさせ適用範囲を拡大する行為が、どういった内容なのかがお分かりいただけたでしょうか。

  次は上記の行為がもたらす影響はどういうものなのでしょうか。

  原因には必ず結果があります。厳密にいえば原因と結果の間には過程(プロセス)もあり、これに関していえば特に議論の余地はないと思います。

 原因→過程・プロセス→結果といった一連の流れを「集団自決の考察」に当てはめてみますと、集団自決の発生(原因)→実像解明(過程)→結果となります。当然、実像解明という過程によって結果は変わってくるものでありますから、解明されていない場合は結果を決定することができません。

  しかし仮に結果が最初に固定された場合、言い換えれば、結果が先に決まっていたらどうなるでしょうか。原因があって過程があって初めて結果へと到達できるのに、最初から結果が決まっていたらどうなるでしょうか。本来ならありえないことなのですが、実は集団自決の考察において、残念ながら起きていることなのです。

  その結果とは戦争責任の追及、つまり「日本軍は悪いことをした」ということです。この場合、結果というより前述した信念と言い換えたほうがわかりやすいかもしれません。あるいは「日本軍は悪いことをした」という前提条件がある、ともいえるのではないでしょうか。

  集団自決の発生(原因)→実像解明(過程)→「日本軍は悪いことをした」(結果)ということになります。

 結果が最初から決まっているのであれば、当然のごとく過程も決まっていなければなりません。そうしないと結果へ到達できませんから。この場合は「日本軍が悪いことをした」という結果に合致するような過程、つまり悪いことをしたという証拠を提示することです。

 そういうことであるならば、一番都合のいい証拠というのは「赤松大尉の自決命令」なのですが、再三指摘しているように自決命令は疑わしい証拠ですし、なかったという可能性が限りなく高いです。従って自らが決定した結果を否定するものですから、「過程」に組み込むことができないのです。

  「赤松大尉の自決命令」では結果(日本軍は悪いことをした)に合致する過程(自決命令があった)がないので、「個人」という具体的なものから、「軍」という抽象的なものへとシフトさせました。個人がダメなら軍ならどうだ、みたいな感じですね。

  「軍の命令」も「赤松大尉の自決命令」とほぼ同じ理由で組み込めみそうにありません。 

 「軍の命令」でも結果(日本軍は悪いことをした)に合致する過程(軍の命令があった)がないので、先ほどと同じように「命令」という具体的なものから、「強制」という抽象的なものへとシフトさせていきます。命令がダメなら強制ならどうだ、みたいな感じですね。

 そして最後に組み込んだのが「軍の強制」ということになります。これならば「日本軍は悪いことをした」という結果へ、何の違和感もなくつなげることができるのです。

  また、この一連の作業をよくよくみてみますと、ある一定の法則が見え隠れします。

 それは最初から決まっている結果のために、恣意的に証拠を取捨選択しているということです。もっと具体的にいうならば、自らが決めた結果のため、都合のいい証拠だけを集めて採用しているということです。

 あるいは「日本軍は悪いことをした」のだから、「悪いことをしていなければならない」とでもいいましょうか。

 その「悪いことをしていなければならない」証拠を見つけるための手段が、具体的なものから抽象的なものへシフトさせ、適用範囲の拡大という行為をおこなうということです。そこまでしなければ主張の正当性を維持できない、ともいえますね。

  自らの主張・考え方を正当化するための具体的な行為・手法がシフトと適用範囲の拡大というわけですが、その作業をした結果、同時進行で恣意的に証拠の取捨選択を行っているのです。

 つまり赤松大尉の自決命令という資料は捨てられ、「強制」を補完するような資料を選ぶ、ということです。その根底には「自決命令はないが、日本軍は悪いことをしたのだから、何か他の証拠が絶対にあるはずだ」というものもあるのではないでしょうか。

  赤松大尉の自決命令は無視されいると先述しましたが、これは彼らにとって都合の悪い証拠だと理解していただけたかと思います。それゆえに自らが決めた結果にそぐわないから現在も無視され、そして排除され続けているのです。 

 

 したがって、資料の恣意的な取捨選択こそが弊害だと指摘いたします。

 

 自らの主張(信念)する結果に合致するような証拠がないから、恣意的に具体的なものから抽象的なものへとシフトさせ、適用範囲を拡大させて合致させるように導いておいてから、自ら設定した「日本軍は悪いことをした」という結果を正当化しているとしか思えないのです。

 「日本軍は悪いことをした」という信念があると前述しました。こうしてみると、その信念を貫きたいがために、意図的だったらもちろんのこと、信念がゆえに無意識で資料の恣意的な選択をしているのではないかと、そう思えてならないのです。

  ただし、信念を貫くことを批判しているのではありません。その頑な思いが、時には弊害になってしまうということを強調したいのです。

 理由はどうあれ自らの考えの正当性を主張したいがために、その主張に都合のいいような資料ばかり集めている行為は、誰が考えても不適切だとは思いませんか。

 無益な論争に終始するのではないでしょうか。本来なら固定されるべき的を好き勝手に、時にはずらし時には大きくしているようなものですから。

  自分の個人的な意見を長々と書きましたが、皆さんはどうお考えになるでしょうか?

  

追伸

 「日本軍は悪いことをした」ということを批判の対象にしましたが、かといって「日本軍は素晴らしかった」などという、安直な訴えをするアホみたいな考えはございません。戦争のない平和な現在においても普通に人殺しがいるのに、人殺しが合法的に行われている戦争で悪い奴がいなかったなんて絶対にありえませんから…という個人的見解を付記しておきます。

 

 

次回以降へ続きます。

コメント