鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

地形図の改訂

2022年12月16日 | 鳥海山

 地形図の改訂はどのようにして行うものかと思い、その方法を国土地理院に問い合わせてみました。

 両方とも国土地理院の地形図ですが左は従来の数値地図(オンライン)25000、右はオンデマンド形式で注文できる電子地形図25000です。現在オンライン地形図はオンデマンド形式で注文する電子地形図25000オンラインに変更となり、従来の柾版書式の紙型と同じ区域固定から自分で必要な個所をA4~A0サイズで切り取って購入できるようになりました。

 先月投稿したように、今まであった建物の印が最新のオンライン地形図では消えています。これは私が国土地理院に、現在ここには石の祠以外何もありませんよ、といったことからこのように改訂したということですが、果たしてその方法は、その前に。

 この地点には「山と高原地図」ではなぜか何年も前から見当違いな場所に「大沢神社」と記載されています。現在も記載されています。そのせいかGoogle Earth Pro でも大沢神社と記載されています。


 画像はGoogle Earth Pro より。Google Earth 使うならProの方が使いやすいです、無料です。

 左上の赤で囲んだ部分に大沢神社と記載されています。このルートを登った人々は最近でも大沢神社に何時何分と記録しています。不思議に思ったことでしょう、何もないのですから。実際の大沢神社は青く囲ったところ、赤い地肌が見えています。ソブ鉱石が露出した赤い滝が何本もあります。これが鳥海山奥の院と呼ばれた御神体、その中の一番左にある滝が御神体そのものの大沢神社です。拝殿は設けず、と書いてあるものもありますが、参拝時期だけ仮設の何かを置いていたとは蕨岡山本坊で伺いました。昭和三十年代頃までは横堂から鎖を伝って降りて綱を奉納する綱講が行われていましたが現在では行われていないようです。

 鳳来山の三角点が遊佐と酒田の境界になっているようですので西ノコマイへの名称記載変更と同様に、建物の印が遊佐町に含まれているようなので遊佐町が調査し、国土地理院へ回答したのか、あるいは地域にそういったことを調べる人がいるのかと思いましたが違いました。

 国土地理院にこの更新について問い合わせたところ、「数十cm程度の解像度の空中写真を使用しておりますが、ご指摘をいただいた鳳来山の北の建物は、空中写真の判読からは確認できなかったため、削除させていただきました。」とのことでした。

 実際我々が目にすることが出来るのは地理院地図の「全国最新写真(シームレス)」で公開しているものです。
<https://maps.gsi.go.jp/#16/39.044110/140.033057/&base=std&ls=std%7Cseamlessphoto&blend=0&disp=11&lcd=seamlessphoto&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0&d=m >

 表示は、低解像度での公開となっており、詳細な画像は他機関の空中写真となるため、提供はできませんとのことです。実際の写真は「数十cm程度の解像度の空中写真」ということですからかなり詳細がわかるものなのでしょう。

 我々が目にすることの出来る空中写真は裸地に近くなった登山道は判別できますが、木々に覆われた登山道はなかなか判別できません。ついでにもう一か所地図に記載ある河川、これは実際に見ればわかるのですが常時水は流れていません。溜池が増水したときのためのオーバーフロー用の流路なのです。それはジオパークガイドのOさんから教えていただきました。実際の水流は違う方向へ流れています。それは用水ですので地形図に現れることはありません。(用水はその保護、安全のため一般の地図に記載されることはありません。)


 国土地理院電子地形図25000より

中央の池沼は水呑の池と呼ばれるものです。鳥海山蕨岡口旧登拝道の拝所水呑の下方に用水池として戦後作られたものです。庄内熊野川と書かれた河川に流れ込むように書き込まれていますがこれは、1973年(昭和48年)10月に撮影した空中写真からの判読結果をもとに作成したものだそうです。ということはその当時は流れていたということなのでしょう。現在は先に書いたように流れていません。「河川については常時流水があるもの」ということですので次回更新時に参考とするということです。

 疑問に思ったことはどんどん直接所管の機関、部署へ問い合わせてみましょう。遊佐町、山形県は肩書も何もない個人からの問合せには一切回答する気がないようで問合せを出しても全く回答ありません。

 

 さて、地形図で「南ノコマイ」が「にしのこまい」になったことで大きな問題が出てきます。現在呼ばれている「南ノコマイ熔岩」「南ノコマイ」水系がその呼称として、公的な地形図から「南ノコマイ」が消滅してしまった現在「にしのこまい」にある「南ノコマイ熔岩」「南ノコマイ」になってしまうのですから。国土地理院はこの名称を決定、変更するわけではないので別の機関になります。この件に関しては国立研究開発法人産業技術総合研究所に問合せしてありますが、果たして一個人の問合せに対して回答が来るでしょうか。


Bill Evans At The Montreux Jazz Festival

2022年12月13日 | Jazz

 Mesdames mesdemoiselles messieurs on drums Jack DeJohnette,à la contrabass,on bass (仏語にも堪能ではないので正確に聞き取れていないとは思いますが、なので以下略),のIntroductionで始まるこのアルバム、高校時代、日本発売時に聴いたのでその印象たるや。後年聴いた人の中には鬱陶しいIntroductionと思う人もいるでしょうけれど、Miles in Tokyo のイソノテルオのアナウンスより遥かにいいでしょう。このIntroduction の後のBill Evans 、Eddie GomezのBass、それまで聴いていたジャズとは全く異なるリズムとメロディ、それでも確かにジャズ100%。あの時覚えた感覚と感動は今も変わりません。

 アルバムジャケットの色合いはかなり違うものがあるようです。LPは既に手放してしまい、今はCDしかありません。

 左の色合いの方が好きだったのですが間違って左の方を手放してしまったようです。

Introduction / One For Helen


南ノコマイ

2022年12月12日 | 鳥海山

 「西河前」は遊佐町が修正申告しないと是正されませんが読み方については国土地理院に要望した所回答が来まして「『西河前』のふりがなにつきましては追加する方向で作業を進めさせていただきます。」とのことです。ただし、現時点でふりがな追加が反映された地図については反映公開時期は未定だそうです。遊佐町には三回問い合わせのメールを送っているのですが何の回答もありません。不誠実な自治体です。

 

  それまでの陸地測量部の1/50000地形図は昭和50年頃には戦後陸地測量部の後身、国土地理院によって1/25000地形図を主体とするように変わってきました。25000地形図鳥海山、湯ノ台も1975(昭50) 測量、1976(昭51)発行となっていますがこの時点で「西ノコマイ」を「南ノコマイ」と誤って記載したものが地形図上に現れた最初であろうと思われます。取り違えたのは昭和49年、国土地理院の問合せに遊佐町が(「西ノコマイ」であるところを)「南ノコマイ」という名称で申請したことは国土地理院の記録に残っています。

 我が家にある一番古い「山と高原地図 鳥海山」は1976年(昭和51年)版、この時点で「西ノコマイ」は「南ノコマイ」と誤記載されています。「山と高原地図」を作成するにあたって国土地理院のこのときの地形図をもとにすればそうなるでしょうが、執筆者の池田昭二さんほどの登山家が南ノコマイと西ノコマイを取り違えていたということでしょうか。

 鳥海山南麓の八幡地区に暮らす住民主体のボランティア組織で運営している「鳥海やわたインタープリター協会」という会がありますが、そこのパンフレットに次の一文があります。


  二ノ滝は南ノコマイ?それとも西ノコマイ? 
 新しい国土地理院の地図には、二ノ滝がある南ノコマイと、滝の小屋 付近が源流の月光川が月光川ダムで合流し、月光川として流れ下るように書かれています。しかし古い地図には、月光川ダムに3本の支流が流れ込み、西からニノ滝がある西ノコマイ、中ノコマイ、南ノコマイと書かれています。つまり、西と 南が逆なのです。これは、地図をつくるときに、国土地理院の人が地元 住民からの情報を間違えて記載したためと考えられています。


 実は「南ノコマイ」と申請したのは遊佐町だったと国土地理院の昭和49年の記録にあるそうです。国土地理院は名称については地元の申請によるという取り決めがあるとのことですから。

 ジオパークガイドのOさんも「江戸時代の絵地図などには正しく西ノコマイは西ノコマイ、南ノコマイは南ノコマイと記されているのですが、」と書いています。ちなみに西ノコマイは一の滝より下流、現在の月光川ダムまでの間を呼ぶのが正解のようです。

 また、萬助小舎二五周年記念誌に寄せた編集委員斎藤豊さんが万助さんについて書いた文に「コマイ」が何度か登場します。活字に置き換えるよりも該当部分を見ていただいた方が良いでしょう。一般には入手し難い雑誌だと思いますので載せてみました。

 「月光川本流南ノコマイの奥」とあります。一の滝、二ノ滝ではない方が南ノコマイということがわかります。又下段では「三俣、南ノコマイが(杉沢との)戦場となり」とあります。杉沢に隣接するのは国土地理院地図の南ノコマイ(実は西ノコマイ)ではないのは一目瞭然です。

 絵図を解説している部分ですが、北の川前というのは西の川前の誤植かと思われます。一の滝の下流、(三本の川が合流してからが)月光川となって現れる、と書いてあるのです。

 下の地図で南ノコマイを西ノコマイ「と置き換えるとよくわかります。

 1976年版の「山と高原地図 鳥海山」より該当箇所です。「南ノコマイ」とあるところが「西ノコマイ」、「中ノ沢」とありますが「中ノコマイ」です。「月光川」とあるのが本当の「南ノコマイ」です。この三本の川が合流するところが三ノ俣、そこから先が月光川です。この地図の時点ではダムはまだできていません。

 

 それにしても誤表記といわれながら半世紀近く、今まで誰も国土地理院に物申した人がいないというのは不思議なことではあります。国土地理院は私のメールで遊佐町に問合せし、その結果今回のように(不完全ではありますが)「西河前」に変更しました。

 ところがこれで終わったわけではありません。これも国土地理院に関係するのですが、現在の「南ノコマイ熔岩」「南ノコマイ水系」の名称は変わっていくのでしょうか。西ノコマイにある南ノコマイ熔岩、一段と混乱しそうです。この点についても問合せ中です。

 

 それにしても遊佐町、風車立てるのに一所懸命でどこの馬の骨ともわからぬ奴は相手にしないということか。山形県のみどりの自然課も手紙出しても返事ないんですよね。


猿倉・猿穴

2022年12月11日 | 鳥海山

 猿の付く地名は全国にあります。鳥海山の猿倉の語源について書かれたものもありました。メモはしていたのですがどのサイトだったかマークするのを忘れて再度探すことが出来ませんでした。中身はテキストにメモしておいたのですが次のような内容でした。

猿倉 sar-e-ku-rar-i 湿原 に 置弓を 仕掛ける 所 サレクラリ

 アイヌ起源説のようです。アイヌ語が残っているのはこの辺りでは最上川以北と図解しているものがありました。コマイ(川前)もアイヌ語起源かもしれない、北海道の苫小牧を引き合いに出してコマイを推察するものもありました。

 でもなんでもアイヌ語起源にしてこじつけるのもどうなんでしょうね。猿倉は全国にあります。

 倉、平、杖は崖や崩壊地を指す言葉でした。杖は弘法大使が杖を立てた所などとよく言われますが、いまにも崩れそうな崖が「つえ」。そして急な傾斜でまさに崩れそうな土地が、「切り立ったつえ」「つえたて」だったそうです。飯豊の湯平だったでしょうか、学者先生が平は平地だから「たいら」と読むと強弁して改めさせたことがあったのは。それを元に戻すのには大変な労力を要したと。確かそんな内容を山岳会の方からきいた覚えがあります。

 猿倉は猿でなければ登れない崖か、猿穴は猿でもないと下れない穴?と考えてしまいます。ところがこの「猿」はお猿さんの事ではなく崩壊地をあらわす「ざる」「ざれ」の語に「猿」の字をあてられたものが多いのだそうです。そうすると猿倉、猿穴のイメージが湧いてきますね。


 地形図は昭文社「山と高原地図 鳥海山 2000年版」より

 猿穴は石鉢澤とも呼ばれていたそうですが明治以降は猿穴が定着したようです。地名の文字が置き換えられることはよくあることです。鳥海山では江戸時代は千歳ヶ谷、仙者谷と呼ばれていたものが千蛇谷、弦巻池が鶴間池に置き換えられています。

 とはいっても西ノコマイが西河前に書き換えられてしまうのは地元の人も知らないことです。西ノコマイについてはもう少し継続して書いてみます。

 鳥海山の呼び名については様々な所で論じられていますが、各所の名前について書かれたものはそんなには無いと思われます。地名はそこに暮らす人々の思いが込められた物、行政がやたらいじくりまわした結果そんなことのかけらもないものになってしまったものが多いようです。鳥海山の地名について大した内容はありませんが一口話として以降少しばかり調べて書いていきます。


※1 倉、杖については武光 誠「地名の由来を知る事典」H9年 東京堂出版によります。

※2 文中半角スペースが挿入してありますが、かな入力を半角英数に切り替えなくても shift+space で半角スペースになります。