鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

鳥海山の破方口

2022年08月18日 | 鳥海山

 佐藤要さんが大変いい写真をアップされましたので許可をいただき掲載させていただきます。

 タイトルは「夕照の七高山(7月中旬)」となっていますが七高山の手前の山にも注目してください。古絵図に書かれた破方口山、これが手前のピークであるのは間違いないと思います。此処には矢嶋の方々が御先祖の霊を祀るために麓から石を持ってあがってきたと聞きます。

 新山から外輪へのスノーブリッジを分水嶺として南が千蛇谷、北が破方口です。(このスノーブリッジを歩いていて雪が崩れて滑落したときはこれで終わりかと思いました。)

 初めて外輪山の尾根を七高山に向かった時は行者岳からかなり遠いなあ、と思ったものでした。この七高山、見る場所によって全く異なった姿を見せてくれます。矢島口舎利坂を登っているうちにそれまで見えていた山の形が全く違って見えてきます。康新道を登ってもまた違う形に見えます。行者岳から先に進めば岩が次第に赤茶けた様相を示してきます。虫穴を過ぎると別の山に来たような気がします。又麓から北面を遠望すれば新山と七高山の双耳峰に見える急峻な峯に見えます。しかし北のピーク破方口山について触れられることはありません。(七高山の名前の由来も調べてみると面白いですよ。)

 七高山というピークがあるのは誰もが知っていてもその北にもう一つピークがあり、それが古来から知られていた峯であるというのはなぜか今の人には伝わっていません。祓川ヒュッテの康新道を開鑿した佐藤康さんの「鳥海山日記」には高校生の遭難死の記録で、斎藤重一さんの「鳥海山」には鳥海山北面登攀の記録で破方口は出てくるのですが現在出版されているものにその記述はありません。ただ「山と高原地図 鳥海山 2022」には破方と記載がありますがルビも「やぶれかた」などと振られていてこの人いったい何を根拠にこんな出鱈目を書くのかと思ってしまいました。山ログには既に「破方に」などと書かれている始末。昭文社には根拠を明示して訂正の申し入れはしておきました。鳥海山も古来いくつかの呼び名もありますし、地名も虫穴を蛇石と呼んだ例などありますが、そんな名前、呼び名は無いというものを紙や電子媒体に記載するのは歴史に後足で砂をかける様なものです。


Bill Evans Live at Keystone Korner 1980

2022年08月16日 | Jazz

 手を変え品を変え、またまた登場。今回発売されたのは

 現在vol.1~vol.5まで発売中。これ実は

 このボックスセットのばら売りです。かつてうちにもありました。
 (itunes に取り込むとLive at Keystone Korner disk 1 として表示されます。すなわち正しくは三つ目のボックスセットのばら売りなのです。ということはvol.8まで発売されるということでしょう。consecration のボックスセットを買いそびれた方にはちょうど良いでしょう。)

 

 この画像はこのボックスセットのブックレットです。CONSECRATIONはその他にピックアップされたものが何種類か。デザインを変えて発売されたものもあったようです。

 これがアルファがCONCECRATION。二回目に出したCONSECRATION。

その次に発売されたのが、THE LAST WALTZという8枚組。Live at Keystone Korner 1980 というサブタイトルが付けられています。


 その後、CONSECRATION 、THE FINAL RECORDING PART2 Live at Keystone Korner 1980 とサブタイトルをつけて発売されました。こちらの方がアルファレコードのものよりずっと音が良いです。この画像のボックスセットCONSECRATION は版元が変わって発売されました。THE LAST WALTZはTHE FINAL RECORDING Live at Keystone Korner 1980とサブタイトルがありますので三枚目の画像のボックスセットの続編という意味でTHE FINAL RECORDING PART2 Live at Keystone Korner 1980 として発売されたのでしょう。

 この最後のLIVEは3ステージあったそうですが、通説ではCONSECRATIONが1stステージ、THE LAST WALTZが2ndステージとされています。

 ※最初、アルファレコードからLPとCDで発売されましたが当時の懐では高すぎて手が出せずにいました。懐事情は今もそんなに変ってはいませんが。最初の画像のCDは今もオークションサイト等で見かけますがLPは見かけません。そういえばLPのこれ、ボックスセットでうちにあったのですがこれも手放してしまいました。ところが後日LPラックを見るとその中の一枚が裸で置いてあります。中古店に手放した時、一枚不足で売ってしまったのです。それでもその中古屋さん、中身も確かめもせずに査定したようでした。

 Bill Evans マニアの方にとっては音質がどうのノイズがどうのなど様々あるのでしょうけれど、すべて購入する人もいるんでしょうね。最後のボックスセット我が家のCDラックにもありますけれど8枚通して聴くのは未だやったことがありません。Last Trio で何度も何度も聴くのはやはりこれです。このアルバムもデザイン違いで何種類か発売されていますが画像のものがcomplete盤です。


三ノ俣、北ノコマイ

2022年08月16日 | 鳥海山

 (8/16 陸地測量部地図の月光川の記載について見落としがありましたので本文訂正してあります。)

 三ノ俣、サンノマタではありません、ミツノマタです。沢の上流が三つのコマイ(川前)に分かれている、三つの俣、からきています。この三つの沢が東から「南ノコマイ」(南ノコメ)、「中ノコマイ」、「西ノコマイ」です。現在の「山と高原地図 鳥海山 月山」には従来の記載をあらためて記載してあります。これは執筆者にガイドのOさんが指摘したのだそうです。2.5万ちけいずには今のところ「西ノコマイ」が「南ノコマイ」と記載されているので事情を知らない一般の方は不思議に思うか「山と高原地図」の方が間違っていると思うでしょう。相手が国土地理院ですから。


昭文社「山と高原地図 鳥海山 月山 羽黒山 2022」より

 不思議なのは「南ノコマイ」の上流が月光川となっていることです。上の地図で「南ノコメ」と書いてあるところを遡ると月光川の文字があります。何本かの沢が合流して川という名称になっていますがこの一本だけが沢ではなくて川になっています。陸地測量部の大正三年発行5万図鳥海山には既にこの沢が月光川と記載されています。

 昭和51年の地理院2.5万図「湯ノ台」にも引き続いてこの沢に月光川の名前がこの場所に記載されます。池昭さんの「山と高原地図」もそれが基となっているのでしょう。南ノコマイと月光川を取り違えたのか、それとも月光川本流という意味で月光川と記載したのか、今となってはわかりません。しかしこれは月光川ではなくて「南ノコマイ」であり、三ノ俣で三本の沢が合流して初めて月光川となるのではないでしょうか。地元の方から見れば話しにもならない論だと思うかもしれませんけどね。


大正3年発行の陸地測量部「鳥海山」1:50000地形図より

 

 ここに一枚の絵図があります。萬助小舎二五周年記念誌にこの雑誌の編集委員斎藤豊さんが記事を書き紹介しているものですが、ここにコマイが何か所か登場します。「南ノコマイ」についても昔三俣部落の親分と杉沢とは山境を争う戦があり、三俣・南の川前が戦場となったとあります。この記述から見ればやはり南ノコマイは三本の沢のうち一番東の沢になります。東なのに南?と思われるでしょう。相対的に見れば「西ノコマイ」「南ノコマイ」の位置関係は納得できます。だけど昔の人はどこから見て「西ノコマイ」「南ノコマイ」と呼んだのでしょうか。

 絵図の話はここから出てきます。


萬助小舎二五周年記念誌より

 鳥海山エ参詣新近道開鑿模様繪圖 明治十六年十一月改校、とあります。この絵図を解説する中で斎藤さんは「蛇石流れと月山沢が合流して龍が瀧におちる。雲に隠された下は二の滝、一の滝と経て北の川前こまいとなりその後絵の中の月光川となって表れる。」

 西ノコマイというのは蛇石流れと月山沢が合流してから二の滝、一の滝までということになるのではないでしょうか。そして一の瀧から三ノ俣までが北の川前こまい、そこで合流して、現在の月光川ダムより下流が月光川となる、ということになるのではないでしょうか。位置関係から何で北なんでしょう、三ノ俣から見れば北ではありますけれど。

 素人があれこれ言っているだけですので遊佐町史に詳しい人から見れば他愛もない話だとは思いますけどネ。


三枚に分離する絵葉書

2022年08月15日 | 兎糞録

 先日吉田博の「酒田港」という絵葉書が三枚に分離するという話を書きましたが、その理由が判明しました。

 絵葉書資料館というところがありまして、そこに問い合わせたところ次のような回答をいただきました。

 「1900年(明治33年)から私製絵葉書が出てきます。当時から絵葉書は薄紙張り合わせの物がほとんどです。3枚が主で、4枚の物もたまにあります。湿気による剥離が起こります。絵柄を2枚目に入れた透かし絵葉書等も多く作成されました。
張り合わせ理由は、しなやかで固く、そりがないのに対して1枚ものは柔らかく、そりが出る(当時の技術)と推測します。」

 なるほどですね。あれは剥離してしまった結果なのでした。初めて目にした状態でしたので頭の中が???でいっぱいでした。

 


砂利とり船

2022年08月15日 | 兎糞録

 以前から不思議に思っていた帆掛け船、いったい何を運んで最上川を走行していたのだろうと思っていましたが「写真集 明治大正昭和 酒田」を見ていて判明しました。また、「蘇った帆掛け船」というタイトルで宇野港「連絡船の町」プロジェクト コンテストサイトに応募された作品がありましたのでなるほど、と思った次第です。このコンテスト応募作品の説明には「明治から昭和の初期まで、相模川の水運で帆かけ舟が活躍し、上流から薪や炭・砂利や玉石・を運び下流からは、干魚や日用雑化などを運んで」とありますので事情は同じでしょう。最上川では船形あたりから亜炭を運んでいたのではないでしょうか。亜炭というのは昔はよく聞いた言葉ですが、もっとも石炭化が進んでいない石炭で発熱量の最も低い褐炭というものですが行政上の言葉で亜炭と呼ばれるのだそうです。新庄あたりにはかつて亜炭で商売をしていたという燃料屋さんもあります。


写真集 明治大正昭和 酒田より

 手元にある帆掛け船の写っている絵葉書です。子供の頃港のすぐそばに住んで居ましたので此の帆掛け船の走行する風景は毎日見ていました。これで長年の謎が解明しました。