下の写真は昭和の初期、またはそれ以前のものでしょうか。
鳥海山一の鳥居と書いてありますが、これは蕨岡大物忌神社旧拝殿の登り口に一の鳥居があったのです。現在は写真の石段を上って左に三の鳥居があり、その奥にこの先の山の上から昭和28年に移設した本殿があります。
上の写真は山頂の御本社と参籠所ですが、配置は現在も変わらないようです。正面奥にあるのがご本殿です。山肌も何となく現在よりも荒々しいように見えます。ここで注目するのは写真の下に「鳥海山蕨岡口 山上御本殿」と書いてあることです。山頂の本殿は蕨岡の大物忌神社のものであると主張しているのですね。また発行所が蕨岡共栄社となっています。これは蕨岡の宗徒が明治期に作った組織です。このころはまだ蕨岡の大物忌神社にもまだ力があったのでしょうか。現在では蕨岡の大物忌神社は吹浦大物忌神社の管理するところとなっています。
神社というのは不思議なもので、神様の子孫であるはずの天皇が仏教に帰依したてまつったために神仏習合となり、かつては隆盛を誇ってきました。大物忌神社もその例外ではありません。
明治政府の神道を優遇しようとした神仏分離令が逆に神社の衰退を招いてしまった第一の原因ではないかと思います。基本神道は現世の御利益、仏教は来世の安堵、神仏が習合していれば参拝者にとってこれ以上のことはありません。でも現世御利益の神社に比べて来世安堵の寺院の方が広く生活に密着しているのは徳川時代の影響が今なお残っているからでしょうか。神社よりお寺の方が営業力ありますからね。でも、新築や事務所の開設で神棚を買う人はいても仏壇を買う人はいません。これももちろん現世の利益、家内安全、商売繁盛を求めてですね。
この写真は以前も載せましたが、横堂にあった頃の箸王子神社です。この間を通って山頂へ向かいます。昭和50年ころにはまだ建物は残っていました。もちろんすでに廃墟でしたが。
あれだけ隆盛を誇った蕨岡大物忌神社は訪れる人も少なく、登拝道も今では登る人もありません。