鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

康さんの続鳥海山日記、再々再読

2019年11月08日 | 鳥海山

康さんの続鳥海山日記、その中の祓川余話の一節。
ちょっと長いけど紹介させていただきます。(上の写真は大分前のものです。)

祓川余話「大学教授のこと」より

 酒もまわってきて、山話に花を咲かせはじめたころ、外からだれかが、
 「ごめんください、ごめんください」
と、呼ぶ声がする。
 ろうそくの明かりで見るその人は、かなり年配の男の人。普通の作業服に作業ズボン、登山帽に地下たびといういでたちだ。
 「まあ、一杯どうですか?」
と酒をさし出したら、
 「あっ、ありがとう」
と飲みはじめた。
 「いま、風呂から上がったところです。よかったら、露天風呂ですが、入りませんか」
 「それはありがたい。お願いします。」
 その人は、裏のくぐり戸から外に出ていった。しばらくして、こちらのの味方も終わりとなり、私も外に出てみる。
 月は真上に照っている。鳥海山も青白く浮き出してみえる。そして、空一面の星。
 居候たちもみな寝ている。私もいつのまにかねむってしまたらしい。
 翌朝。
 すっかり夜が明けている。なにげなく枕もとに目をやったら、ちり紙を四つ折りにしたものが置いてある。名刺もそろえてある。裏を見たら鉛筆の走り書きがあった。
 「ゆうべはありがとうございました。月に照らしだされた鳥海山を眺めながら露天風呂にいれてもらった事は、一生忘れることがないでしょう。」
 ちり紙の中を見たら五円札が一枚入っていた。そのころ私の一日の手間賃は四円だった。名刺には、もう名前は覚えていないが、なになに大学教授と書いてある。
 私は外に出て山を眺めた。あの人は、どこまで登っただろう。象潟口に行くのだろうか、吹浦口に行くのだろうか。登山杖をたよりに一歩一歩登っているのだろう。
 こちらからも、お礼の一言もしたかったのに、寝ている私を起こすまいと、静かに小屋をたって行ったのだろう。今となっても心残りなことである。
 ほんとうに山をすきになって登山する人というのは、こういう人たちを言うのかもしれない。静かに山に入っていくのだ。今も健在でおられるだろうか、そうだとしたら、いつか、もういちどお会いしたいものだ。


康さんは文章もいいですし、この鳥海山が好きという感覚が最高ですね。
この最後の一節のために、この文書はあります。

鳥海山張抜模型

2019年11月07日 | 鳥海山
酒田市の資料館に行くと見ることが出来ます。
大物忌神社にも同じものがありますが、そちらは見るのが難しいので、観たい方はこちらで。入館料はわずか110円です。
享和元年の噴火以前、現在の新山ができる以前の貴重な姿です。
そのころの神社(神仏習合の時代ですのでわかりやすく神社としておきましょう)は現在もある、荒神岳にありました。写真中央左。長床(ナガトコ)を社前に持つ造りだったようです。荒神岳鳥海山と書いてあります、その左には瑠璃の壺という水源らしきものが描かれています。瑠璃の壺と荒神岳のほとんどを埋め尽くしたのが現在の新山ですね。二百年近くたった今も、山肌の色が違うので噴火してできたところははっきりわかります。
ちなみに、伏拝(フシオガミ)岳は、そこから山頂を拝むための拝所でした。そのころは小屋もあったと記録に残っています。

なぜこんな模型がつくられたかといえば、元禄十六年から宝永元年にかけての庄内と矢島との鳥海山の山頂に関する境界論争のためなのですね。
いろいろ文献はありますので、興味のある方は調べてください。
そのうち自分なりにわかりやすくまとめたものも紹介してみましょう。

当時の登山道、というより修験のための参道は、矢島、蕨岡、それに吹浦が主でした。この模型にも矢島と蕨岡の参道が朱線で書き込まれています。
この時の幕府の裁定以来今なお、山頂は庄内に属することになったのでした。
現在の地図を見ると山頂はおろか、七高山下まで、氷の薬師、そして七ツ釜避難小屋の上部、百宅口では唐獅子平避難小屋の上部までが山形県となっています。

先日、蕨岡の鳳凰来山手前の修験道を一部再生する試みがニュースにありました。いいですね。観光や町おこしなどではなく、先人の大切にしてきたものを残すという意味なら素晴らしいことです。
観光はいりません。

釣りキチ三平と鳥海山

2019年11月05日 | 鳥海山
この季節の鳥海山も絵になりますね。

矢口高雄さんの描く人物は、みんな体の線が変に湾曲しているように思えるのですが。三平とお爺さん、同じ曲線です。
他の漫画でも、魚神さん、お爺さんも若い娘さんもみんな同じ湾曲です。。
文字で読む方言もなんだか不自然。方言はやはり、表記不可能なのでしょうか?
でも絵は好きです。だからこのポスター部屋に飾っています。自分の撮影した鳥海山以外は飾らないことにしているのですが、例外です。

釣りキチ、なんていうと今では差別発言になるのかなあ。「釣り基地三平」だとか「釣り頭の不自由な三平」とタイトルを変えなければいけないのかもしれません。
昔、義兄が学校で、授業中に「馬鹿」という言葉を発言したところ、早速校長室に呼ばれ、厳重注意されたそうです。

それにしても、下界も頭の不自由な人があちこちで見受けられるようになりましたね。




康さんの鳥海山日記、再々再読

2019年11月03日 | 鳥海山

写真は今の祓川ヒュッテ、昔の祓川ヒュッテは木造で、太い丸太が建物を三方から斜めに支えていました。

日記の中の一日、すべてが伝わってきます。

九月十二日(曇り、のち雨)
 あいかわらず雨風だ。せっかく集めた枯れ柴も、風に吹き飛ばされてみるかげもない。
 風がピタリとやむと、赤滝の音がごうごうと耳にはいる。
 風が雨戸を叩きつけてガタガタと響く。
 きょうも、だれひとりきてくれぬ。あすはきてくれるだろうか。あすも相変わらず雨風だかもしれない。それにしても、あすは、なにを食ったらよかろう。あるのは、ただ鯨と塩ホッケだけだ。汁は、野菜がないので食えない。酒があるわけでなし……。
 ああ、これも我慢のしどころとあきらめて床にはいる。雨は遠慮もせず、ザアザア降りつける。そのたび、ガラス戸がガタガタともの淋しく鳴り響く。カレンダーは、すきま風に吹かれ、一枚一枚、音を立てて落ちる。九月とはいえ、時がくれば夜になる。外は真暗だ。ランプは、ただまわりだけがうすぼんやり照らして影を流している。
 まっくらな風呂場あたりで、ネズミがジイジイ叫びながら走り去る。