太田宣賢編集発行の「鳥海山登山案内記」その3を載せるのを忘れていましたので追加しておきます。
この本の発行されたのは大正二年ですが中身は明治末の話。当時の蕨岡はまだ勢いがありました。蕨岡への交通の便についてもそれが表れています。この案内の「交通」の欄を見ると、
鳥海山に登らんと慾するものは其登山口の如何に依りて自交通線路を異にす而して今日登山口と認むべきものは云ふ迄もなく陽面南麓の蕨岡及西麓の吹浦大正二年ですが書かれたのは明治明治末年の話并背面の矢島乃至小瀧なり然れども元來鳥海山に登るものゝ最大多數は蕨岡口よりす
もっともこの編集者の太田宣賢という方は蕨岡の宿坊大泉坊の方ですからしょうがありません。又吹浦口よりの登山に就いては
吹浦より登山するには蕨岡に比し行程頗る遠く且つ山中冷泉淸流に乏しきを以て渴を醫するに苦む將來適地を相し淸流を引くか若くは冷泉を發見することあらば登山者の大に悅ぶ處ならん
吹浦口の水場のなさを挙げています。蕨岡口には弘法水、水呑等水場はいたるところに在りました。ブルーラインを想像しては駄目ですよ、あくまでも昔の登拝路です。だからこそ伝石坂の途中の二の宿も貴重な水場だったのです。
さて、吹浦口よりも蕨岡口の方が優位である、将来は鉄道も蕨岡付近に停車場が出来るものと太田宣賢は確信していたようです。続けて交通に関してこのように期待を以て書いています。
羽越線沿岸布設の曉は蕨岡附近に停車場を設けらるべければ竣工の後は各方面よりする人々の便宜甚だ多かるべし
ご存じのように羽越本線は鶴岡、余目、酒田、吹浦と北上します。吹浦駅は1920年(大正9年)に開業しています。吹浦の駅を降りれば大物忌神社吹浦口の宮はすぐです。どういう理由か蕨岡附近に駅ができることはありませんでした。吹浦の駅を降りれば駅前に銅像があります。もう一人の鉄道の父と呼ばれた佐藤政養、明治初期の人ですが彼が吹浦出身ということも吹浦に駅ができた要因の一つなのではないでしょうか。
これですぐに蕨岡が廃れたわけではありません、しかしその遠因となっているのは間違いないでしょう。
その昔、酒田に列車通学していたころこんな話を親から聞きました。
真偽のほどはわかりませんが。