「絵葉書で見る蕨岡口登拝道」の下書きの一部として練習で書いてみます。
今回もいつもの太田宣賢「鳥海山登山案内記」から
〇行者嶽の岩頭は役の小角が道路を通したる紀念として自其像を刻したるものなりと傳ふ風雨蝕して古香高し此より左折鐵梯に緣り千歲が谷に下れば陰崖幽暗人をして悚然として毛髮を竪立せしむ仰見る一帶の新山雄大豪宕として巨嚴聳えて萬丈の絕壁を作り大石陷りて千仭の壑を爲し異樣殊態形容端睨すべからず
上の絵葉書は大正七年以降昭和二十年までの間に発行されたものです。白装束の道者も昭和三十年以降は見られなくなったようです。なお千蛇谷は古来千歳が谷と呼ばれており、それが大正期には千者谷、その後千蛇谷と変わっていきました。
画像にもある鉄梯子、いったいいつごろからあったのでしょう。大正二年発行の「鳥海山登山案内記」にも鉄梯子が載っています。いつかけたのか、その後かけなおされたのか、その辺の記録は未見です。それにしても錆びてボロボロにもなっていないしこれだけ長持ちしているのは不思議なものです。
まだ行者嶽から新山へ行くことが出来たころ。行者嶽からはわずか500m、10分で山頂小屋に着いたのでした。
鉄梯子、鉄の手摺を使って子供らも歩きます。
※子供たち、と現在は言いますが本来は達は 高貴な人にしか用いず、正しい用法としては「ら」なのだそうです。
行者嶽から新山への道の崩壊はまた聞きするところによればそれはすさまじいものだったそうです。七高山の方も崩落するのはそれほど遠い将来ではないでしょう。
これは写真家の佐藤要さんから送っていただいた行者嶽の鉄梯子の画像です。この鉄梯子はそれほど古くなさそうですね。
こちらは小さな鉄梯子。湯ノ台から沢追分を登り横堂へ行く途中にあります。
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