以前一部紹介したことがあるのですが原本入手しましたので絵葉書ともどもご覧ください。
私ハ昨日十二頃出発ノトコロ安治君ハユカレジソレデ私一人昨日五時ニシュッパツシタ
酒田ニツイタノハ九時デシタ
途中ハ非常ニアツクルシイノデ氷水ヤアイシクリームナンゾハナニヨリ御馳走デシタ
鳥海山ノ登口蕨岡ニ着イタノハ午後二時近クデアッタ
阿部源靜トカ云フ家ニ宿ヲトリマシタ
ソノ御馳走ト申シタラタマゲタモノデ仲チャンヤババ様ナンゾハタベタヿ(コトの合略仮名)ハアルマイシ又タベルコトモデキナイデシヨー、
又オ膳ヤオ椀ナンゾモ三四五百年モコノカタツタワッテキタヨーナ古ワン古オゼンカケダラケデアッタ
ネドコモソノトホリ実ニ閉口シタ
ソレデ今日午前一時ニ山登ヲシタ
山頂ニハ十時ニツキマシタ
参詣シテ帰リ途ニ向ッタノハ十二時半吹浦ニツイタノハ四時半
酒田ニツイタノハ八時五十分頃都合二十三里ヲ歩ンダ
面白イ話ハ山々アルケレドオアイ申シテかラ
太田宣賢「鳥海山登山案内記」大正二年にも阿部源靜が宿坊として紹介されていますが、明治の末で三四五百年も伝わってきたような古椀、古御前、しかも欠けだらけのものを使っていたとなると、この頃には蕨岡の宿坊はすでにかなり凋落していたとみてよいのではないでしょうか。
こういった生々しい記録はどんな研究論文にも表れることは無いでしょう。
船場町河岸の様子もよくわかります。先日別々の本に渡し船の同じ写真が、向きが違って掲載しており、どちらかが反転しているのですがどちらが正しいかと喧々諤々。船の艫の櫓の取り付け位置を見れば一目瞭然なのですが身近に見ていなければやはりわからないものなのでしょうね。