日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

設楽原の巻 織田鉄砲隊と武田騎馬隊、決戦の舞台

2017-07-25 12:45:59 | 愛知・岐阜
三河東郷駅
駅舎内に設楽原歴史資料館への案内図がありました。

三河東郷駅の駅舎。無人駅です。私は2014年秋に長篠城へ行きました。その際に設楽原へも寄りたかったのですが、電車の都合で断念しました。今回は設楽原決戦場を探索します。

駅前の勝楽寺。設楽原戦没者霊場の石碑があります。
駅前の案内図

山縣塚の入口
山縣(山形)という地名が残っています。
山縣塚

左は設楽原で戦死した武田の武将、山縣昌景の碑
左は山縣昌次、従士名取道忠、右は高坂助宣の碑徳川軍の陣、弾正山
小幡塚
井伊家の赤備えは有名ですが、もとは武田の戦装束です。小幡氏は上州国峰城の城主。国峰城は富岡製糸場の近くです。小幡信貞の碑。小幡信貞が設楽原で戦死したかどうか史実は不明のようです。



鉄砲隊

火おんどり

設楽原歴史資料館入口
幕末の外国奉行、岩瀬忠震の銅像
資料館内部
資料館内は設楽原の戦い、火縄銃・鉄砲の歴史、岩瀬忠震の足跡を展示しています。

日本最古の火縄銃、信玄砲
近くの野田城の模型。飯田線の途中に野田城という駅があります。
風林火山
信玄台地の上に資料館があります。
山岡荘八書の「長篠役設楽原決戦場」。我々の世代の教科書では「長篠の戦い」となっていましたが、最近は織田・武田の決戦は「設楽原の戦い」といわれるようになりました。山岡荘八の書は「長篠城を争奪する戦い全体が長篠役、両軍が決戦を行ったのは設楽原」という意味ですね。納得です。山岡荘八は「徳川家康」で有名ですが、武田信玄・勝頼を主人公とした小説は手がけていないと思います。
設楽原の戦いで死んだ武田軍武将の碑。左上から真田信綱・昌輝兄弟(昌幸の兄)、馬場信房(信春)、内藤昌豊、左下から山縣昌景、原昌胤、土屋昌次。真田昌輝以外は「武田二十四将」(昌輝も二十四将という説もあるようです)。大筒
馬上筒

岩瀬忠震のコーナー。忠震は設楽家に生まれ、岩瀬家の養子となり、幕末期に外国奉行として活躍しました。設楽家、岩瀬家はともに設楽原周辺を領地としていましたが、忠震はこの地に住んだことはないようです。
岩瀬忠震の陶像
黒澤明監督の映画「影武者」のコーナー
資料館の屋上は展望台になっています。織田軍が布陣した茶臼山、激戦地・丸山の方角
徳川軍が布陣した弾正山の方角大鉄砲名古屋城の模型資料館内のポスター
地元で発掘された土器
資料館の外観


信玄塚。武田軍の将兵を弔った塚です。信玄の塚ではなく、武田軍の塚です。武田=信玄という見方なのでしょう。
えんま堂いろはかるた
「火おんどり」は武田軍の将兵を弔う祭りです。首洗池
竹広激戦地
両軍が対峙した連吾川。武田の騎馬隊が川を渡り突撃しました。
「長篠役設楽原決戦場」の石碑。山岡荘八の書です。

連吾川の対岸、武田軍が布陣した信玄台地



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