日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

江戸城北の丸の巻 近衛師団跡、重要文化財の清水門と田安門

2015-02-18 13:49:29 | 東京


九段下駅を出てすぐにある昭和館。戦没者遺族援護施策の一環として造られた国立の博物館です。戦没者遺族援護施策なので厚生労働省の所管です。

江戸城北の丸は現在は北の丸公園として公開されています。北の丸といえば日本武道館ですね。

長州出身の明治の政治家、品川弥二郎の像。幕末には薩長同盟の成立に貢献し、戊辰戦争では奥羽鎮撫軍の参謀となりました。明治政府では内務大臣などを努めたのちに下野し、獨協学園や京華学園を創立しました。

大山巌像。明治時代の陸軍大将、薩摩出身、西郷隆盛の従兄弟。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争で活躍しました。

田安門前の高燈籠、別名・常燈明台。明治期にはこの場所から江戸湾の海が見えたそうで、江戸湾の船のために灯台が造られたそうです。当初は靖国神社の側にありましたが、靖国通りの拡張で現在地に移転しました。

田安門の前から見た牛ヶ淵


いよいよ田安門から江戸城へ入城です。

田安門の高麗門

高麗門の内側


田安門の櫓門。田安門は枡形門の典型です。高麗門と櫓門は固有名詞ではなく一般名詞で、高麗門は4本の柱の上に屋根を載せた比較的小さな門のことです。櫓門からの見通しを確保するために規模は小さくしました。櫓門は高麗門に比べて大きな門で、門の上に櫓を造り、武器弾薬を保管しました。

田安門の枡形構造を弥生慰霊堂のある石垣の上から撮影しました。右手は高麗門、左手が櫓門です。高麗門を突破した敵を櫓門と2辺の石垣の上の3方から攻撃する構造になっています。

日本武道館

北の丸から千鳥ヶ淵を見下ろします。対岸には千鳥ヶ淵戦没者墓苑があり、千鳥ヶ淵は桜の名所として有名です。桜が満開の時季は大勢の花見客が訪れるので、千鳥ヶ淵の遊歩道は一方通行となり長い行列ができるほどです。

北の丸の遊歩道。今は厳冬期なので人はほとんどいません。桜が満開の時季もいいが、閑散とした今の時季もいいですね。

対岸のボートハウスは冬季は休業のようです。

旧怡和園(いわえん)の碑。明治期に近衛歩兵第一連隊の営舎が設けれられた時この辺りに庭園が造られ兵士の休息、慰安、訓練の場として使用されたそうです。

近衛歩兵第一連隊跡の碑

近衛歩兵第二連隊の碑。第一連隊の碑よりかなり立派です。旧隊員の連帯感が強いのでしょうか。

吉田茂像。戦前・戦中は親英派の政治家でした。近衛連隊の跡地にあるのはミスマッチでは。吉田茂の像は大磯と高知にあります。吉田茂は父親が高知出身、自身は東京生まれで、大磯育ち。首相時代も大磯に住んでいたので大磯と高知は納得できますが、北の丸はどんな関係があるのでしょうか。


昨年末に大手町の気象庁庁舎から移転してきた気象観測の露場。東京都心の気象観測地点です。雨量計、気温・湿度計、感雨計、積雪計が設置されています。大手町だとビル群のど真ん中で、コンクリートに囲まれているので気温は高めになるようですが、北の丸だと逆に低すぎになりませんかね。向こう百年、観測環境が変わらないだろうという見込みのもと、ここが選択されたそうです。

科学技術館。箱物展示施設の先駆け的存在です。

江戸築城450年の碑。1457年に太田道灌が江戸城を築城し、450年記念の1907年に石碑が立てられました。

江戸築城550年の2007年に木製の記念板が作られました。

和気清麻呂の像。前からこの像は誰なのか気になっていましたが、像の周囲にはとくに説明は書いていません。脇に説明の漢文がありましたが私には読めません。帰宅後ネットで調べてようやく和気清麻呂だということがわかりました。なぜこの地に和気清麻呂なのか不思議に思います。

東京国立近代美術館。近代美術館の建物は昭和44年に石橋正二郎氏が建築し寄贈しました。石橋正二郎とはブリヂストンの創業者、鳩山由紀夫元首相の母方の祖父です。自身でブリヂストン美術館をつくるだけでなく、国にも美術館をプレゼントしたんですね。さすが億万長者です。

国立公文書館

北白川宮能久親王像。北白川宮は伏見宮家に生まれ、幕末期に上野・寛永寺の貫主、輪王寺門跡となり「輪王寺宮」と名乗りました。戊辰戦争では奥羽列藩同盟の盟主となったが、降伏し、伏見宮家で謹慎蟄居ののちにドイツへ留学、北白川宮家を継承し、その後陸軍に入り、日清戦争に近衛師団長として出征し台湾で病死しました。現在の獨協大学、獨協学園の前身、独逸語協会の初代総裁でもあります。


東京国立近代美術館工芸館。歴史ある赤レンガ建築物です。

終戦までは近衛師団司令部庁舎でした。二・二六事件に出動した部隊です。

正面玄関



建物の内部。北区王子の旧陸軍造兵廠の建物とも似た洋館建築です。




田安門と比べて人通りの少ない清水門です。








田安門は何十回と通っていますが、清水門は初めて通りました。





清水門はいいですね。典型的な枡形門です。門の規模として水戸城の薬医門や小諸城の大手門を大きく上回っています。さすが天下の名城、江戸城ですね。
江戸城北の丸は江戸時代は御三卿の田安家、清水家の屋敷があったところです。明治になると近衛師団の営地となり、戦後1969年より一般公開されています。御三卿のうちの一橋家は一橋御門内、現在の毎日新聞、如水会館(一橋大学の同窓会館。如水会館といっても黒田如水とは無関係です)、学士会館などがある一ツ橋にありました。


清水門を出て牛ヶ淵に沿って九段下駅へと歩くと、九段会館があります。

九段会館は、西洋式の建物の上に日本式の屋根を載せた和洋折衷の帝冠様式の建築物として有名です。帝冠様式の建築物は他には愛知県庁、名古屋市役所、神奈川県庁などがあります。


九段会館は2011年3月の地震で天井が落下し2名が死亡する事故が起きました。実はこの建物は昭和9年に軍人会館として建設され、二二六事件では戒厳司令部となり、戦後はGHQに接収されましたが、返還後は日本遺族会が使用していました。建物の持ち主は日本国で、遺族会には無償貸与されていました。2011年の事故のために建物は解体され新しいビルが建設されることが決定しています。
事故では遺族が九段会館の管理者たる日本遺族会を告訴しましたが、不起訴が確定しています。九段会館の場合、所有者は国ですが、国が遺族会に無償貸与し、管理者は遺族会となっていました。また歴史的建造物であるために、保存していくのか、建て替えるのかという判断も先送りとなっていたようです。管理責任の所在にあいまいなところもあったと思われます。

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