日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

上山城の巻 「羽州の名城」1982年に再建、「赤羽刀」展を開催中

2015-10-19 16:32:05 | 宮城・福島・山形

かみのやま温泉駅

上山城では「赤羽刀」の特別展をやっていました。赤羽刀は戦後、占領軍が民間から没収した大量の日本刀の一部です。米軍は東京・北区赤羽の旧陸軍補給廠内に没収した大量の刀剣を保管をしました。その後没収した刀剣を返還することになったのですが、没収時の混乱で返還先不明の刀剣が多く発生。刀剣は国の財産となり、価値の高い物は各地の公立博物館に譲渡されました。それらは保管倉庫の地名から「赤羽刀」と言われるようになったそうです。

七重塔



上山城は別名月岡城、戦国時代は最上領の最南端の城として最上・伊達・上杉の攻防の地でした。1982年(昭和57年)に郷土歴史資料館として再建されました。






天守最上階からの眺望

一番高い建物は上山市唯一の高層マンション

赤羽刀の特別展示室。

地元出身の出羽ヶ嶽。大正末期から昭和初期に活躍した身長200cm、体重200kgの巨人巨漢力士。出羽ヶ嶽文治郎の名前から「ブンちゃん」と呼ばれ人気を集めました。得意技は強烈な鯖折り。






かかし茶屋


帰りは多少時間があったので駅まで歩きました。羽州街道からの入口です。


上山城の堀の役割を果たす前川

駅近くから見る上山城

駅の跨線橋から見る上山城

山形城の巻 戦国・奥州のもう一人の雄・最上義光の居城

2015-10-17 16:31:30 | 宮城・福島・山形
山形城址は今は霞城公園となっています。


霞城公園の前に最上義光の歴史館があります。最上義光は伊達政宗と相並ぶ奥州の雄ですが、戦国武将の個人歴史館は最上義光が唯一ではないでしょうか。伊達政宗はもちろん、武田信玄も上杉謙信も織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も、一人だけの歴史館はないですからね。

せっかくの最上義光歴史館ですが、電車の都合で入館せずに入口付近だけを見学しました。

山形美術館


霞城公園


霞城公園の東大手門。1991年に復元。手前の橋はコンクリート製ですが、門の前の橋は木製です。

コンクリート橋の下は奥羽線の線路です。

鉄道が城跡を分断していますが、堀を通したので被害は小さいように感じます。

木製の橋の下は堀です。


東大手門の内側

東大手門の枡形




多門櫓の上は展示スペースとなっています。


多門櫓


最上義光騎馬像。関ヶ原の戦いの際、奥州では上杉対最上・伊達の戦いとなり、最上領に侵入した直江兼続率いる上杉軍を迎え撃つために出陣する最上義光の姿です。1977年建立。伊達政宗への対抗心がありあり。仙台城の政宗像は1935年建立です。

山形県立博物館



本丸一文字門と大手橋。平成に復元されたものです。

本丸の堀

一文字門の内側



本丸御殿広場




本丸御殿広場は発掘調査中です。





本丸工事の見学台



仙台城の巻 独眼竜・伊達政宗が築いた難攻不落の仙台青葉城

2015-10-15 16:29:40 | 宮城・福島・山形


広瀬川に架かる大橋を渡って仙台城へと登城します。



片倉小十郎屋敷跡

仙台国際センター。学会、音楽会など各種イベントが開催されます。



三の丸堀跡の長沼

同じく五色沼


大手門北側の土塀。石垣は切込接ぎです。


大手門脇櫓(再建)

大手門と脇櫓は仙台空襲で焼失しましたが、1967年に復元。焼失した大手門と脇櫓は国宝でした。

支倉常長像。仙台藩といえば伊達政宗の次に有名なのは支倉常長ですが、常長は下級武士というより、半農半士に近い身分で、ローマからの帰国後はキリスト教禁令のために、幽閉されて失意のまま死亡しました。常長が注目されるようになったのは明治以降、教科書に載ったことからのようです。



仙台市博物館。三の丸跡です。

博物館近くの野面積み石垣

残月亭


魯迅の胸像と記念碑。魯迅は仙台医学専門学校で医学を学びましたが中退をしています。たしか孫文も医者ですね(香港大学医学部卒)。

巽門跡

造酒屋敷跡。仙台藩御用達の造酒所だそうです。

清水門跡


野面積み石垣

沢門跡


本丸北壁石垣。荒々しい野面積みから一転し、美しい切込接ぎの石垣です。

宮城県護国神社の鳥居


本丸石垣



大広間跡


野面積みの説明。政宗の時代は野面積みでした。


切込接ぎの説明。江戸中期に補修された石垣です。

本丸から仙台市街の眺望

仙台城見聞館

明治元年の仙台城下の絵図


伊達政宗騎馬像

土井晩翠像

昭忠塔


宮城県護国神社

英霊顕彰館

巽櫓跡

巽櫓跡から見た広瀬川
仙台城の前に訪ねた伊達藩主三代の霊所・瑞鳳殿を紹介します。


仙台藩2代藩主が造営した瑞鳳寺


瑞鳳殿の入口


境内の石垣

涅槃門



伊達政宗の墓所・瑞鳳殿

資料館

涅槃門と瑞鳳殿


感仙殿と善応殿への石段


2代藩主伊達忠宗の霊屋・感仙殿

3代藩主伊達綱宗の霊屋・善応殿。瑞鳳殿、感仙殿、善応殿は1945年の仙台空襲で焼失し、瑞鳳殿は1979年に感仙殿と善応殿は1985年に再建されました。
仙台城から大崎八幡宮へ行きました。

大石段

三の鳥居

長床(重要文化財)

本殿(国宝)
仙台をあとに松島海岸へと向かいました。松島は震災の年の5月の連休に訪れましたが、その時はまだ震災、津波の爪痕があちこちに残っていて、瑞巌寺も公開中止になっていました。


瑞巌寺入口


瑞巌寺の本堂、中門、御成門は補修工事のために公開中止、庫裡と陽徳院霊屋は特別公開です。




国宝の庫裡。屋根の上に望楼のような物があります。瑞巌寺は仙台城の出城という説もあるので、やはり望楼なんでしょうか。

工事中の本堂

大書院内部

養徳院霊屋・宝華殿。養徳院は伊達政宗の正室愛姫です。

円通院山門


庭園

三慧殿。2代藩主忠宗の嫡子光宗の霊屋。光宗は英明の世子として期待されたが19歳で早世。英明であるがために毒殺されたという説もあります。

支倉常長がローマから持ち帰ったというバラを育成したバラ園。

本堂大悲堂










白石城の巻 伊達家筆頭の重臣・片倉小十郎が城主

2015-10-13 16:28:03 | 宮城・福島・山形

白石駅に到着。白石城は伊達家の重臣・片倉小十郎の居城ですが、なぜそこに真田幸村なのか。真田幸村は大坂夏の陣で戦死します。幸村は夏の陣で激闘をした相手の片倉小十郎重長に大助の妹・弟の阿梅と大八を託します。重長は幕府に隠れて2人を育て、阿梅はのちに重長の正室となり、大八は真田守信と名乗って真田家を再興、現在まで仙台真田家として続きます。そういった秘話があります。


白石は「しろいし」と読みます。念のため。

「俺が行かずば誰が行く」片倉小十郎は仙台伊達家筆頭の重臣で、代々城持ちの大名格として処遇されました。徳川幕府は一国一城が基本政策ですが、伊達藩には例外として2城が認められました。

白石駅

駅前通り

「城来路」と書いて「シロクロード」と読みます。


白石城は平山城で、なだらかな上り坂です。

東口門跡


本丸跡外郭石垣。左が初期の野面積み、右が江戸中期の切込接ぎです。

夏の陣400年の旗

歴史探訪ミュージアム




大手一ノ門

大手二ノ門

一ノ門と二ノ門の間の枡形

1995年に再建された天守。今年再建20年目です。

本丸御殿跡。白石城では戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟の各藩代表による会議が行われました。また新政府軍の参謀世良修蔵は福島城下で暗殺されて白石城の近くの陣場山に埋葬されました。世羅暗殺事件を機に奥州での戊辰戦争の火蓋は切られましたが、同盟は成立しても各藩の足並みはそろっていたわけではなく、仙台藩や米沢藩は戦意が低く迷走、会津藩だけが孤立し会津戦争へと至ります。

本丸御殿の絵図

鐘楼

本丸井戸

本丸跡の広場





天守内部

天守から見た大手門

本丸跡広場

白石の町並み


天守内の展示


片倉小十郎の甲冑

真田幸村の甲冑

片倉小十郎の馬印

本丸の土塀

片倉小十郎景綱頌徳碑。景綱は伊達政宗の近侍となり、政宗とともに小田原に参陣、関ヶ原の戦いの際には東軍として西軍上杉と戦いました。小十郎というのは片倉家代々当主の通り名で、大坂の陣に出陣したのは景綱の子の小十郎重長です。


大手二ノ門と天守




天守台の野面積み石垣


本丸裏側から見る天守


白石出身の18代横綱・大砲(おおづつ)萬右衛門。明治34年に横綱昇進、身長198cmの巨人力士です。

萬右衛門橋

横綱谷風梶之助と大砲の碑。横綱谷風は2人います。この谷風は2代谷風で、第4代横綱、白石の隣の蔵王の出身、「仙台の谷風」と呼ばれました。初代谷風は讃岐出身で初代横綱、「讃岐の谷風」と呼ばれ、怪力大関の雷電の師匠です。
蛇足ですが巨砲(おおづつ)という力士もいました。横綱大鵬の弟子で、こちらは三重県の出身です。

本丸裏の二ノ丸跡

あまり観光客が通らない場所に白石城の新しい碑がありました。


本丸北の神明社


本丸下の舘堀川



武家屋敷

武家屋敷の内部

武家屋敷の庭

阿梅と大八の墓のある当信寺の門。白石城の東口門を移設したものです。

本堂

写真左が阿梅の墓、右が大八の墓です。

白石市は初めて訪れましたが札幌出身の私は以前から親しく感じていた町です。
札幌には白石区という区があります。昔の白石村で、旧白石藩士が開拓した村です。白石以外にも北海道には亘理伊達藩家臣が入植し開拓した伊達市など伊達藩ゆかりの市町村があり、伊達市の隣の登別市には「伊達時代村」という日光江戸村系列のテーマパークがあります。
福島県にも伊達市があり、福島県の伊達市のほうが本家本元ですが、先に市となったのは北海道の伊達市です。全国2番目の同一名称の市です。






白河小峰城の巻 東日本大震災で石垣が崩落し修復工事が進行中

2015-08-24 14:36:10 | 宮城・福島・山形

白河駅のホームから小峰城が見えます。西日本では駅から城が見えることはよくあります。東日本では少ないと思います。

白河駅。この駅は昨年30分ほど途中下車したことがありますが、探索するのは初めてです。


白河駅の駅舎は線路の南側、小峰城は線路の北側にあり、線路の南北を結ぶ地下通路「こみね ふれあい通り」



ふれあい通りの観光案内パネル

城山公園

青色の部分は現在も工事中で、立入禁止です。小峰城の石垣は東日本大震災で大きな被害を受けました。







石垣は基本的には水平を意識して積まれていますが、所々に半円状に積まれた部分があります。




桜之門の石垣


本丸跡

復元された前御門

三重櫓と前御門




三重櫓。戊辰戦争で焼失し、前御門とともに平成になって復元されました。三重櫓は天守といわないのだろうか。櫓の大きいのが天守なのですが、三重だとやはり天守とはいわないようです。弘前城の三重櫓も同様です。天守は城の象徴であるため、大きな天守を造るかどうかは藩の実力、財政との相談ですが、藩の序列、さらに幕府の目にどう映るかなどの諸事情であえて天守をつくらなかった藩もあるようです。




三重櫓入口

戊辰戦争時の弾痕。といってもこの櫓は戊辰戦争時のものではありません。櫓復元のために白河口の戦場付近の杉の木を切ってきたら、その木に当時の鉄砲玉の跡があったということです。




三重櫓の内部


市街地。白河口の方向です。


忠魂碑











二の丸の集古館。「寛政の改革」で知られる老中松平定信は白河藩の藩主でした。「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌が歴史の教科書に出ていました。


展示品のアームストロング砲。この砲はNHK大河ドラマ「八重の桜」で使用されたレプリカです。けっこうリアルに作られています。





会津門付近の堀


会津門



太鼓門跡
白河の支配は鎌倉・室町時代には結城家、秀吉の時代には蒲生家、上杉家、徳川の時代になって再び蒲生、その後丹羽、榊原、本多(忠勝の子孫)、松平、阿部と続きました。
戊辰戦争では旧幕府軍は宇都宮城、白河小峰城、二本松城での戦いに敗れて会津の籠城戦に至りました。白河口の戦いは駅の南側、奥州街道や谷津田川の辺りで激戦が繰り返されたようです。