日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

沼田城の巻 沼田万鬼斎が築城、上杉・北条・織田・真田が相次ぎ支配

2016-03-03 15:23:48 | 群馬


沼田駅外観。私は国道17号、120号と沼田市内は何度も何十回も通過していますが、駅を見るのは初めてです。

駅前ロータリーから三国山の方角


駅前から市街地へ伸びる道路。沼田市は河岸段丘の上に沼田城があって、市街地も段丘の上です。鉄道は片品川沿いに建設されたため駅は段丘の下にあります。

段丘の下と上を結ぶ滝坂


屋根付きの階段歩道

段丘の崖




段丘の上から下へ流れる水路


段丘面の市街地

沼田城跡の沼田公園入口、冠木門


三の丸土居跡


公園入口の付近は三の丸跡、侍屋敷がありました。


日本の歴史公園百選

沼田城址の新しい石碑

沼田市観光案内所

案内所内部。左から真田幸隆(信幸の祖父)、昌幸(信幸の父)、信幸、小松姫(信幸の妻、本多忠勝の娘)

公園内

沼田八景の鐘楼




西櫓台の石垣・石段

西櫓台からの眺望


西櫓台の外壁


公園内の小動物園


捨曲輪跡

平八石。真田昌幸が勇将・沼田平八郎景義を討ち取り、首実検のあとで首をのせた石。沼田城はもとは沼田万鬼斎顕泰が築いた城で、平八は万鬼斎の庶子。沼田氏は御家騒動を繰り広げ、平八は真田に討たれて沼田氏は滅亡したといわれるが史実は不明のようです。
万鬼斎・平八の物語は池波正太郎の「まぼろしの城」がおもしろい。

捨曲輪跡からの眺望。下は片品川です。


天狗堂。沼田の近くの迦葉山は天狗の霊峰として知られ、大天狗面が奉納されてます。毎年8月の沼田まつりでは女性だけがかつぐ大天狗みこしが町を練り歩きます。

公園北側の民家

英霊殿

沼田城絵図

昨年12月に完成したばかりの真田信之・小松姫の石像。なんと翌々日のニュースで、石像にスプレー塗料をかけられたという事件が報じられました。


本丸堀跡の発掘調査


公園内の旧生方家住宅。城下にあった薬種商の住宅を移設。工事で閉館でした。


最後の沼田藩主土岐氏が1924年(大正13年)に東京に建築した洋館を移設しました。

沼田小学校講堂記念体育館

武道場

再び観光案内所

沼田小学校。校門が冠木門です。校門付近に大手門がありました。

タラヨウの木。静岡以西の本州、四国、九州に分布、樹高5メートル、沼田の名木の一つです。

外堀跡

小学校の校舎

大手門跡

ノダフジの藤棚

箕輪城の巻 長野・武田・織田・北条の攻防戦を経て、徳川家臣・井伊直政が入城

2015-12-12 15:48:36 | 群馬
箕輪城は16世紀初期に長野氏が築城、その後、武田、織田、北条の攻防戦を経て、北条滅亡後は徳川四天王・井伊直政が箕輪城に入城しました。井伊直政はじきに高崎城へと移り、関ヶ原の戦いののちは彦根城城主となり、井伊家は幕末まで続きました。

城山入口バス停で下車

箕輪城の椿名口の入口

椿の路。昔はこのあたりに椿名沼という沼があり、椿の木が多かったそうです。






木俣付近


大堀切



大手虎韜(ことう)門

虎韜門の石垣

白川口埋門。脱出路です。

白川口の石垣

白川口下の畑


搦手口近くの梅林


搦手口付近

搦手口の駐車場

箕輪城は「日本100名城」です。



二の丸

本丸門馬出

箕輪城跡の石碑


石垣

本丸跡

本丸からの眺望



御前曲輪

御前曲輪の井戸



本丸と御前曲輪の間の空堀


御前曲輪西堀の石垣

御前曲輪西堀


稲荷曲輪




堀切

三の丸石垣

三の丸

大堀切の砂防ダム


二の丸・郭馬出は工事中です。

大手付近の発掘調査

大手門跡

箕郷公民館

公民館内の箕輪城模型

箕輪城を紹介する新聞記事



高崎城の巻 徳川四天王・井伊直政が築城、今は跡地に市役所等が建つ

2015-09-04 17:46:29 | 群馬
岩櫃城の帰りに高崎で下車、高崎城へ向かいました。

高崎駅の西口です。


徳川四天王の一人、井伊直政は、徳川家康が関東入封とともに箕輪城主となり、じきに高崎に移り、高崎城を築城しました。関ヶ原の戦いの後は石田三成の居城佐和山城へ移り、佐和山の近くに新たに彦根城を築城します。井伊家は幕末の井伊直弼まで彦根藩主として続きます。高崎城の城主は井伊家の後は度々城主が変わって幕末へ至っています。
現在高崎城跡には市役所、音楽センター、シンフォニーホール、図書館、保健センター、裁判所、検察庁、高崎総合医療センター、市立中学などの公的施設やNTT群馬支店、郵便局、私立高校などが建っています。



高崎城東御門付近の堀と石垣

二の丸跡に建つ高崎市役所




三の丸東側の土塁と堀




三の丸南側の土塁と堀


高崎公園

公園の藤棚

ハクモクレンの名木

国立病院機構高崎総合医療センター。高崎城跡に歩兵十五連隊が設置され、陸軍病院も開設されました。城跡に陸軍、県庁舎・市役所、病院、学校というのがお決まりのコースです。


高崎城は西側は烏川に面し、中山道が通る東側には堀を配しています。明治になると城と烏川の間に国道17号が造られました。私は17号線を通って三国峠、苗場・湯沢方面、18号線を経て碓氷峠、軽井沢方面へは何十回と行ってますが、17号と18号の分岐点の東側の高崎城は当時の私の関心の対象外でした。

シンフォニーホール


群馬音楽センター。群馬で音楽といえば群馬交響楽団(群響)です。私は札幌出身ですが、札幌には札幌交響楽団(札響)があります。群響、札響ともう一つ京都市交響楽団は、「日本の三大地方交響楽団」だと札幌の中学の音楽教師が言ってました。この建物の設計は建築家アントニ・レイモンドです。1961年に建設され、「日本の近代建築20選」に選定されています。築50年以上を経過しているのでさすがに古さを感じますが貴重な建築物です。


移築復元された乾櫓


移築復元された東門

土塁

歩兵第十五連隊記念碑






高崎城の遺構は乾櫓あたりの集中しています。
高崎城はなぜ印象が薄かったのか。高崎城も高崎藩も歴史物語に登場することもあまりなく、有名な藩主もいなかったからなのではと私は思います。明治になって鉄道の開通とともに高崎は鉄道の町、交通の要衝として知られるようになりました。高崎観音、だるま弁当も有名ですね。
先日、吉村昭の「天狗騒乱」を読んでいたら、高崎藩の軍勢が下仁田で天狗党と激戦を繰り広げたとありました。

岩櫃城の巻 武田勝頼が最後に頼ろうとした真田氏の山城

2015-09-03 17:45:28 | 群馬
秋の長雨が続いていますが、晴れ間の一日、上州・真田の岩櫃城を訪ねました。岩櫃城は甲斐の岩殿城、駿河の久能城とならび武田の三名城と言われた名城です。武田の末期、武田勝頼は織田・徳川軍に攻め入られ、新府城を脱出。真田昌幸は岩櫃城へ勝頼を迎え入れ武田の再起を図ろうとしましたが、勝頼は甲州の天目山で自刃し、岩櫃へ落ち延びることはできませんでした。勝頼を迎えるためにつくられた潜竜院の御殿の跡が残っています。


岩櫃城跡にいくには群馬原町駅で下車。駅から城山の駐車場までは徒歩で30分ほどです。


城郭風の岩櫃城温泉

城山の麓の善導寺

岩櫃城への番匠坂

番匠坂を進んだのですが夏草が茂っていて道がわかりません。途中で車道へ引き返しました。

車道をいくと2倍くらい遠回りです。

岩櫃山登山口の駐車場

登山口の休憩所


岩櫃山登山口。岩淵山の中腹に岩櫃城があります。



中城跡



二の丸跡


本丸跡が見えてきます。

本丸付近からの眺望。今はたくさん木が茂っていますが、往時は城山下の真田街道、吾妻川を見渡せたと思います。

堅堀

本丸の東屋



岩櫃城址の碑。登山口からは徒歩15~20分ほどです。

櫓台

北桝形虎口

山頂への道。山頂の標高802m

一の木戸跡

登山口へ戻りました。登山口の標高は511m

岩櫃神社・天狗丸への道


岩櫃神社


山をくだって岩櫃城温泉で一風呂浴びました。入浴料は400円、銭湯並みです。人口が少なく観光客も少ないので入浴客は一桁でした。


館林城の巻 徳川四天王・榊原康政が初代藩主、五代将軍・徳川綱吉を輩出

2015-07-12 15:01:33 | 群馬
徳川四天王の一人、榊原康政が初代藩主となった館林城を訪ねました。館林といえばツツジの名所として知られ、5月の連休には大変賑わいます。また現皇后の実家・正田家があり、日本初の女性宇宙飛行士・向井千秋の出身地でもあります。
私はツツジの時季に3、4回館林に来ていますが、電車で来るのは初めて、つつじが岡公園は町の中心からやや離れているので、城下町を歩くのも初めてです。

東武伊勢崎線の館林駅です。JRは通っていません。

館林駅の古い駅舎。新駅舎は旧駅のデザインを多少引き継いでいます。

駅前は城下町の西端になっていて、歴史の小径を歩き、城下町を散策します。


江戸時代には造り酒屋だった分福酒造の店舗。今は毛塚記念館となっています。

武鷹館。旧中級藩士の武家屋敷です。




武鷹館の長屋門

歴史の小径沿いの長屋門。武鷹館のものより大きいです。

旧二業見番組合事務所。いい建物です。昔はずいぶん賑やかだったのでしょうね。

田中正造記念館。田中正造は館林の雲龍寺を拠点として足尾銅山鉱毒裁判を闘いました。そのため館林市内に記念館が造られました。


館林城の主要部分は市役所、文化会館、図書館、科学館などが建っています。


再建された土塀




土橋門

城跡地に建つ館林市役所

向井千秋記念こども科学館

田山花袋記念館

旧上毛モスリン事務所


ぐんま絹遺産に指定されている歴史建築物です。

田山花袋像

田山花袋旧居

江戸末期、最後の館林藩主・秋元家の別邸



明治期の秋元家当主・秋元春朝の像。投網漁が好きだったようです。

八幡宮。このあたりは八幡郭といわれました。

本丸土塁

城の南側を流れ城沼に注ぐ鶴生田川のふれあい橋


鶴生田川

二の丸橋
館林藩は初代藩主・榊原康政のときは10万石です。
先日、綱淵謙錠著「徳川家臣団~組織を支えたブレーンたち」(講談社文庫)という古い文庫本を見つけました。計18人の徳川の家臣について書かれた短篇集ですが、その筆頭は榊原康政です。各武将についてコンパクトに書かれていて人物事典として使えそうです。2番手は酒井忠次、3番は本多忠勝、4番手は井伊直政、以上徳川四天王です。以下、大久保忠世、本多正信、大久保忠隣、本田正純、板倉勝重、鳥居元忠、林羅山、天海、土井利勝、石川数正、大久保彦左衛門、板倉重宗、酒井忠勝、松平信綱です。
この本には続編もあって「続徳川家臣団」には酒井忠清、堀田正俊、柳沢吉保、新井白石、大岡忠光、田沼意次、松平定信、水野忠邦、鳥居耀蔵、阿部正弘、安藤信正、松平容保、勝海舟など江戸幕府中期・後期の家臣団が書かれています。
館林城はあまり遺構を残してはいませんが、味わい深い城下町です。
高齢者の地方移住計画が話題になっていますが、私は東北や北海道はいやだが、館林あたりなら東京へも遠くはないし、選択肢の一つかなとは思いました。