渦巻き

どこかいった記録など

新城~設楽原~馬防柵

2023-02-16 19:20:28 | ハイキング-愛知県
11月5日

愛知県新城市


JR三河東郷駅



日本三大決戦の一つとされる長篠・設楽原の戦い  





三河東郷駅から 0.6km  

首洗い池







   






信玄塚


天正3年(1575年)の長篠の戦いの戦死者を埋葬した塚とされる。塚は2つ築かれ、その上には松を植えて、
武田軍を弔った方を大塚、徳川・連合軍側の死者を弔った方が小塚と呼ばれたとも伝承される





地元の方が 野菜を売っていたので 里芋 購入






設楽原歴史資料館

     岩瀬忠震顕彰碑(いわせただなり)
海防局の目付として活躍した岩瀬肥後守忠
しかし安政5~6年(1858年~1859年)にかけて井伊直弼 の断行した安政の大獄により免職させられ、
文久元年(1861年)44才で病死









        



   


甘利郷左衛門尉信康の碑
甘利一族は、甲斐源氏の流れをくむ家柄で、武田譜代の重臣です
長篠・設楽原の戦いでは、織田・徳川軍に攻め込み、一時は柵を破る勢いでしたが、
押し戻され天王山の麓で立ち腹を切りました




長篠・設楽原の戦いで、生き残った武田軍の各隊が合流して最後の突撃を行った場所です。










「馬防柵」は戦国時代に最強と恐れられていた武田の騎馬軍団に対抗するために
信長が考えだした作戦とされています
連合軍が築いた馬防柵の丸太は、信長が岐阜から設楽原へ兵士に
一本ずつ持ち運ばせたとされています


       


徳川家康本陣跡(八剱神社)

天正3年(1575)5月、武田軍に包囲された長篠城を救援するため、
徳川家康が本陣をおいて武田軍を迎え撃った場所です






岡崎信康本陣跡



        



八剱神社から  2.5km  

長篠設楽原PAの奥に

織田信長戦地本陣

天正3年(1575)5月、織田信長は設楽原の決戦に備え上平井の極楽寺から、
ここ茶臼山に本陣を移し指揮をとりました










設楽PAから 4.6km    

JR新城駅


最新の画像もっと見る