
日野宿には↑写真左手の看板からも分かるように、本陣であった“下佐藤家宅”が残されていますが、

正式な本陣はその右隣りにあった“上佐藤家”で、下佐藤家は脇本陣に定められていたのが、幕末より同じく本陣を称したとのこと。
現存の建物はその幕末最末期のもので、嘉永2年(1849年)に焼失したのち、元治元年(1864年)に再建されたもの。
その僅か3年後に明治維新、そして宿駅制度が廃止されて本陣や脇本陣はその機能を失ったわけですから、時期がちょっとズレていたら再建する意義も無く、もしかしたら現在、ここにこの建物は存在していなかったかもしれません。
沿道の所々に昔の写真がパネル展示されているなかを通り、現道を右手へそれた先に残る枡形からJR中央線「日野駅」東口前をかすめて宿場を抜けると、日野本町4-5あたりから旧道は大坂と云う長い上り坂に差し掛かります。
しかし、間もなく右手に坂下地蔵尊がある先で中央線の線路に分断されているため、

日野駅まで戻ってガード下を迂回し、坂の続きから次の八王子宿を目指します

正式な本陣はその右隣りにあった“上佐藤家”で、下佐藤家は脇本陣に定められていたのが、幕末より同じく本陣を称したとのこと。
現存の建物はその幕末最末期のもので、嘉永2年(1849年)に焼失したのち、元治元年(1864年)に再建されたもの。
その僅か3年後に明治維新、そして宿駅制度が廃止されて本陣や脇本陣はその機能を失ったわけですから、時期がちょっとズレていたら再建する意義も無く、もしかしたら現在、ここにこの建物は存在していなかったかもしれません。
沿道の所々に昔の写真がパネル展示されているなかを通り、現道を右手へそれた先に残る枡形からJR中央線「日野駅」東口前をかすめて宿場を抜けると、日野本町4-5あたりから旧道は大坂と云う長い上り坂に差し掛かります。
しかし、間もなく右手に坂下地蔵尊がある先で中央線の線路に分断されているため、

日野駅まで戻ってガード下を迂回し、坂の続きから次の八王子宿を目指します