
吉野宿からJR中央本線「藤野駅」までの約2㎞は、途中藤野中学校付近に数百メートルだけ残っている旧道部分を除いて歩道が無く、しかもダンプカーが頻繁に脇スレスレに通って行くという、かなり危険な区間。
それだけ普段歩行者がいない、ということなのでしょう。
吉野宿より約20分後にJR中央本線「藤野駅」前を過ぎ、ようやく歩道が復活してホッとしていると、やがて道は右へカーブして中央本線の線路を越え、歩道は中央自動車道下の崖上に数百メートル敷設された専用道に(上段写真)。
スロープを下った先で歩道は終わり、まるで安全から突き放されたかのように再び車道のみの道になった藤野町小淵地区が、かつての関野宿。

江戸後期に西の大関にまで出世したと伝えられる力士“追手風喜太郎”の生誕地であるこの宿場も、明治21年とその後2度にわたる大火によって当時の面影を失い、現在では道端に残る庚申塔の側面に彫られた“關宿講中”の文字のみが、

ここがかつて甲州道中の宿場であったことを伝えています。
それだけ普段歩行者がいない、ということなのでしょう。
吉野宿より約20分後にJR中央本線「藤野駅」前を過ぎ、ようやく歩道が復活してホッとしていると、やがて道は右へカーブして中央本線の線路を越え、歩道は中央自動車道下の崖上に数百メートル敷設された専用道に(上段写真)。
スロープを下った先で歩道は終わり、まるで安全から突き放されたかのように再び車道のみの道になった藤野町小淵地区が、かつての関野宿。

江戸後期に西の大関にまで出世したと伝えられる力士“追手風喜太郎”の生誕地であるこの宿場も、明治21年とその後2度にわたる大火によって当時の面影を失い、現在では道端に残る庚申塔の側面に彫られた“關宿講中”の文字のみが、

ここがかつて甲州道中の宿場であったことを伝えています。