
加納宿(岐阜)まで歩いた旧中山道、久しぶりにその先を歩いてみます。
江戸より106番目の「三里一里塚」跡を左手の住宅地のなかに見て過ぎ、その先でJR線の高架下を桝形(上段写真)に通って、宿場を抜けます。
そして本荘町、鏡島(かがしま)と、現在は両側に住宅が続くなかを、蛇行しながらしばらく進みます。
そして論田川にかかる船橋を渡って岐阜道との追分を過ぎ、さらに二十分ほど行くと、鵜飼いで有名な長良川に行き当たります。

ここにはかつて、「小紅(おべに)の渡し」がありましたが、現在はここから少し下流にかかる河渡橋から、対岸へと渡ります。
川に沿ってしばらく下流方向へ進み、やがて右に折れたところに一里塚跡があり、「河渡(ごうど)宿」に到着。

かつてこのあたりは沼地で、しかも芦の生えるような低地でもあったため、文化11年に盛り土の工事を行って土地かさをあげ、建物も改築するなど宿場として体裁を整えましたが、第二次大戦の空襲被害により、その面影は現在ではほとんど喪われてしまいました。
緩い桝形の先にかかる慶応橋を渡り宿場を抜けると、田んぼと住宅と倉庫が建ち並ぶ生津(なまず)地区をまっすぐに通り、一里七町(約5㌔)先の、美江寺宿をめざします。
江戸より106番目の「三里一里塚」跡を左手の住宅地のなかに見て過ぎ、その先でJR線の高架下を桝形(上段写真)に通って、宿場を抜けます。
そして本荘町、鏡島(かがしま)と、現在は両側に住宅が続くなかを、蛇行しながらしばらく進みます。
そして論田川にかかる船橋を渡って岐阜道との追分を過ぎ、さらに二十分ほど行くと、鵜飼いで有名な長良川に行き当たります。

ここにはかつて、「小紅(おべに)の渡し」がありましたが、現在はここから少し下流にかかる河渡橋から、対岸へと渡ります。
川に沿ってしばらく下流方向へ進み、やがて右に折れたところに一里塚跡があり、「河渡(ごうど)宿」に到着。

かつてこのあたりは沼地で、しかも芦の生えるような低地でもあったため、文化11年に盛り土の工事を行って土地かさをあげ、建物も改築するなど宿場として体裁を整えましたが、第二次大戦の空襲被害により、その面影は現在ではほとんど喪われてしまいました。
緩い桝形の先にかかる慶応橋を渡り宿場を抜けると、田んぼと住宅と倉庫が建ち並ぶ生津(なまず)地区をまっすぐに通り、一里七町(約5㌔)先の、美江寺宿をめざします。