迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

望郷藝術の勝利。

2024-03-31 17:10:00 | 浮世見聞記


新宿住友ビル三十三階の平和祈念展示資料館にて、企画展「極限下のエンターテイメント シベリア抑留者の娯楽と文化活動」を觀る。


(※一部を除き展示室内撮影可)

昭和二十年(1945年)八月の大日本帝國の敗戰直後、旧満州に駐留してゐた“関東軍”などの軍人たちは旧ソ連軍によって極寒のシベリアへ送られ、長らく抑留されてゐたと云ふ事實を私が初めて知ったのは、成人後に讀んだ露國人ジャーナリストによる渾身のノンフィクション「プリンス近衞殺人事件」(新潮社刊)によってであり、



これほどまでに過酷で苛烈な歴史があったことを、私は恥ずかしながらそれまで全く知らなかった。

捕らえられた日本兵たちが「トウキョウ、ダモイ(東京に帰す)」と云ふ露國兵に騙されて連れて行かれた先はシベリア大陸の強制収容所であり、極寒、強制勞働、飢餓と云ふ過酷な環境下、「必ず日本に帰ってみせる……!」との強い信念を支へ續け、そして潤したのは、彼らが知恵を絞って生み出した藝能や藝術、文藝などの娯樂文化活動であった──

紙が手に入らないゆゑ、新聞紙の耳(余白)を切り取って集め、それを貼り繋げて一枚の紙に仕立てて冩生や文章をしたためたその知恵、


(※案内冊子より、以下同)

あり合はせの木材から職人並みの精巧さで将棋の駒や麻雀牌をつくったその技術力、




極限下における人間の、生還への強い希望(おもい)が感性を研ぎ澄ましたさうした實際は、深く頭が下がるばかりだ。

ここまでニッポン人たちを過酷な環境下におきながら、露國兵からは樂器を貸與されるなど、娯樂や文化の活動については認めてゐた背景には、當時の露國は藝術に對して寛大な國柄だったゆゑ云々、



そのことは抑留日本人たちには唯一の救いだったに違ひない。



しかしそこに、權力者の狡猾な“アメとムチ”を、抑留者たちが遺した明るい藝術の向かふに見たやうな氣がして、やはり暗然たる思ひは拭へなかった。










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