ひとしきり泣いたら、何だか頭のなかがスッキリした。
ふーっ…。
実際、「泣く」と云う行為は医学的にも…、まぁそんな話しはどうでもいいや。
「腹へった…」
考えたら、この日は朝食以外に何も食べていなかった。
馬川朋美と会っている時はコーヒーだけだったし。
ちなみに近江章彦家の冷蔵庫は、万年カラっぽ。
「買い物行っちゃいますか…」
気分転換も兼ねてネ。
近所のスーパーに行くと、ちょうどお惣菜のタイムセールが始まったところだった。
なんて素晴らしい巡り会わせだろう。
ビンボー画家志望にとって、全品半額はとても有り難い!
こういうささやかな幸せを笑ってはいけないよ。
大きな幸福をも逃しますよ、ってね。
同じことを考えて手を伸ばす主婦たちの先手先手を打って(要するにタイミングなんだ。人と同じ動きをしちゃいけない)、狙ったお惣菜を悉くゲットすると、「ほな、さいなら」と涼しい顔でレジへ。
動きが鈍臭いレジ係のレーンは無視、テキパキとした人の所に入って、さぁお家へ帰りましょう。
アパートの前まで来た時、どこからか、
「章彦…」
と名前を呼ぶ声がして、僕は驚いて足を止めた。
条件反射で後ろを振り向くと、傍の電柱の蔭から、
「驚かして、ごめん…」
とかなり掠れた声で、誰かが姿を現した。
日没直後の薄暗いなかだったけれど、僕にはそれが誰か、すぐにわかった。
「翔!?」
宮嶋翔は、見るからに元気が無い…、どころではない、生気そのものが感じられなかった。
「家にいてもつまんないから、こっち来ちゃった…」
こんなに憔悴した親友の姿を見るのは、初めてだった。
直感で、これはヤバイと感じた。
「翔、うちにおいで」
蛍光灯の下で見ると、翔の顔色の悪さがよりハッキリとわかった。
右足首の包帯が、痛々しい。
「連絡無しでいきなり来て、ゴメンな…」
「ぜんぜん」
僕は、ごくごく明るく喋ることにした。「あんなトコに立っているんだもん、ビックリしたよ。それにしても声、だいぶ辛そうだな…」
「我ながらスゴイと思うよ。これじゃ舞台で歌なんか歌えやしない」
「無理するなよ。あんまり喋んなくていいから」
「ありがとう。原因はちゃんとわかってる」
「風邪か?」
「いや、精神的なもの」
「はあ…」
「だから、薬とかじゃ治らない。…また話すよ。この足といい、なんか俺ツイてないわ…」
親友の表情が暗く沈みそうなのを見て、僕は気を変えるつもりで敢えて明るく、
「なあ翔、とりあえずメシにしようか…?」
数日分のつもりで買い込んだ食料も、結局は翔と二人で、あっという間に食べ尽くしてしまった。
ちょっと一息ついてから、
「…なあ、章彦」
「ん?」
「しばらくさ、ここにいて、いい…?」
「ああ。全然構わないよ」
「ありがとう…」
親友はようやく笑顔を見せた。
翔は何日か休みになると、決まって『お世話にならせてください』とメールを送ってきて、僕のアパートに滞在するのが常だ。
僕が十九歳で親元を離れて、このアパートで生活を始めてから、ずっと。
どんなに親しい間柄でも、四六時中一緒にいると“プライバシー”の問題とかでだんだんしんどくなってくるものらしいけど、僕は翔に対して、不思議とそういうものを感じたことがない。
「足も治って落ち着くまで、いつまでもどうぞ」
「お言葉に甘えるね…」
翔はその場へ仰向けに寝ると、「なんかさ、すっごく疲れた…」
「働き詰めだったろ。それこそ子役の時から」
「そうだな。ありがたいことに…。でもさ、今度の舞台に関しては、章彦の前だから言うけど、初めから何だか気持ちが乗らなかったんだ。関係者たちには悪いけど」
「そんなことあるんだ」
「あるよ、なかには。だけど仕事だからさ、そういう時はもう、割り切ってこなしてきたんだけど、今回ばかりは何故かそれが効かなくてな…」
「へえ…」
「それで、初顔合わせで稽古場に入ったら、すでにイヤ~な空気なわけ。全体的に」
「なるほどね…。なんか解るな。そういうの」
バイトでもあるから。
「予感が的中した、って思った。そしたら急にだ、声がおかしくなったの…」
初めての経験だよ、と翔は深い溜め息をついた。
「精神的にも疲れていて、それで抵抗力が落ちていたのかもね」
「そうかもなあ。とにかく、このメンツと舞台やりたくないって気持ちが強くなって…。プロにあるまじき根性だよ、まったく」
僕は翔が生きている世界の現実を、この目で見たことがあるわけではないから、よくわからない部分の方が多い。
でも、声を失うほどの精神的圧迫(プレッシャー)を受けた、というところに、僕は翔がギョーカイで日々出くわしている現実を垣間見たような気がした。
「そこへ来て、この怪我だもん。なんか、イヤになってきたよ…」
「それにしても駅の階段で転ぶなんて、翔らしくないよな」
馬川朋美から聞かされた“情報”は、無視することにした。
「いや、厳密に言えば違うんだ。“転ばされた”」
「え?」
考え事をしながら階段を上っていたために、上からオッサンが転がり落ちて来て事にすぐ気が付かず、あっと思った時には避けるのに間に合わなくて、ドンと当たってそのまま下まで一緒に落ちた、親友は明かした。
「階段を上り始めたところだったから、五、六段落ちただけで済んだのが、不幸中の幸いかな…」
「なあ翔、それってどこの駅…?」
僕は嫌な予感がして、親友に訊ねた。
〈続〉
ふーっ…。
実際、「泣く」と云う行為は医学的にも…、まぁそんな話しはどうでもいいや。
「腹へった…」
考えたら、この日は朝食以外に何も食べていなかった。
馬川朋美と会っている時はコーヒーだけだったし。
ちなみに近江章彦家の冷蔵庫は、万年カラっぽ。
「買い物行っちゃいますか…」
気分転換も兼ねてネ。
近所のスーパーに行くと、ちょうどお惣菜のタイムセールが始まったところだった。
なんて素晴らしい巡り会わせだろう。
ビンボー画家志望にとって、全品半額はとても有り難い!
こういうささやかな幸せを笑ってはいけないよ。
大きな幸福をも逃しますよ、ってね。
同じことを考えて手を伸ばす主婦たちの先手先手を打って(要するにタイミングなんだ。人と同じ動きをしちゃいけない)、狙ったお惣菜を悉くゲットすると、「ほな、さいなら」と涼しい顔でレジへ。
動きが鈍臭いレジ係のレーンは無視、テキパキとした人の所に入って、さぁお家へ帰りましょう。
アパートの前まで来た時、どこからか、
「章彦…」
と名前を呼ぶ声がして、僕は驚いて足を止めた。
条件反射で後ろを振り向くと、傍の電柱の蔭から、
「驚かして、ごめん…」
とかなり掠れた声で、誰かが姿を現した。
日没直後の薄暗いなかだったけれど、僕にはそれが誰か、すぐにわかった。
「翔!?」
宮嶋翔は、見るからに元気が無い…、どころではない、生気そのものが感じられなかった。
「家にいてもつまんないから、こっち来ちゃった…」
こんなに憔悴した親友の姿を見るのは、初めてだった。
直感で、これはヤバイと感じた。
「翔、うちにおいで」
蛍光灯の下で見ると、翔の顔色の悪さがよりハッキリとわかった。
右足首の包帯が、痛々しい。
「連絡無しでいきなり来て、ゴメンな…」
「ぜんぜん」
僕は、ごくごく明るく喋ることにした。「あんなトコに立っているんだもん、ビックリしたよ。それにしても声、だいぶ辛そうだな…」
「我ながらスゴイと思うよ。これじゃ舞台で歌なんか歌えやしない」
「無理するなよ。あんまり喋んなくていいから」
「ありがとう。原因はちゃんとわかってる」
「風邪か?」
「いや、精神的なもの」
「はあ…」
「だから、薬とかじゃ治らない。…また話すよ。この足といい、なんか俺ツイてないわ…」
親友の表情が暗く沈みそうなのを見て、僕は気を変えるつもりで敢えて明るく、
「なあ翔、とりあえずメシにしようか…?」
数日分のつもりで買い込んだ食料も、結局は翔と二人で、あっという間に食べ尽くしてしまった。
ちょっと一息ついてから、
「…なあ、章彦」
「ん?」
「しばらくさ、ここにいて、いい…?」
「ああ。全然構わないよ」
「ありがとう…」
親友はようやく笑顔を見せた。
翔は何日か休みになると、決まって『お世話にならせてください』とメールを送ってきて、僕のアパートに滞在するのが常だ。
僕が十九歳で親元を離れて、このアパートで生活を始めてから、ずっと。
どんなに親しい間柄でも、四六時中一緒にいると“プライバシー”の問題とかでだんだんしんどくなってくるものらしいけど、僕は翔に対して、不思議とそういうものを感じたことがない。
「足も治って落ち着くまで、いつまでもどうぞ」
「お言葉に甘えるね…」
翔はその場へ仰向けに寝ると、「なんかさ、すっごく疲れた…」
「働き詰めだったろ。それこそ子役の時から」
「そうだな。ありがたいことに…。でもさ、今度の舞台に関しては、章彦の前だから言うけど、初めから何だか気持ちが乗らなかったんだ。関係者たちには悪いけど」
「そんなことあるんだ」
「あるよ、なかには。だけど仕事だからさ、そういう時はもう、割り切ってこなしてきたんだけど、今回ばかりは何故かそれが効かなくてな…」
「へえ…」
「それで、初顔合わせで稽古場に入ったら、すでにイヤ~な空気なわけ。全体的に」
「なるほどね…。なんか解るな。そういうの」
バイトでもあるから。
「予感が的中した、って思った。そしたら急にだ、声がおかしくなったの…」
初めての経験だよ、と翔は深い溜め息をついた。
「精神的にも疲れていて、それで抵抗力が落ちていたのかもね」
「そうかもなあ。とにかく、このメンツと舞台やりたくないって気持ちが強くなって…。プロにあるまじき根性だよ、まったく」
僕は翔が生きている世界の現実を、この目で見たことがあるわけではないから、よくわからない部分の方が多い。
でも、声を失うほどの精神的圧迫(プレッシャー)を受けた、というところに、僕は翔がギョーカイで日々出くわしている現実を垣間見たような気がした。
「そこへ来て、この怪我だもん。なんか、イヤになってきたよ…」
「それにしても駅の階段で転ぶなんて、翔らしくないよな」
馬川朋美から聞かされた“情報”は、無視することにした。
「いや、厳密に言えば違うんだ。“転ばされた”」
「え?」
考え事をしながら階段を上っていたために、上からオッサンが転がり落ちて来て事にすぐ気が付かず、あっと思った時には避けるのに間に合わなくて、ドンと当たってそのまま下まで一緒に落ちた、親友は明かした。
「階段を上り始めたところだったから、五、六段落ちただけで済んだのが、不幸中の幸いかな…」
「なあ翔、それってどこの駅…?」
僕は嫌な予感がして、親友に訊ねた。
〈続〉