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迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

陰陽―カゲヒナタ―19

2012-05-20 08:39:37 | 戯作
ひとしきり泣いたら、何だか頭のなかがスッキリした。

ふーっ…。

実際、「泣く」と云う行為は医学的にも…、まぁそんな話しはどうでもいいや。


「腹へった…」

考えたら、この日は朝食以外に何も食べていなかった。

馬川朋美と会っている時はコーヒーだけだったし。

ちなみに近江章彦家の冷蔵庫は、万年カラっぽ。

「買い物行っちゃいますか…」

気分転換も兼ねてネ。


近所のスーパーに行くと、ちょうどお惣菜のタイムセールが始まったところだった。

なんて素晴らしい巡り会わせだろう。

ビンボー画家志望にとって、全品半額はとても有り難い!


こういうささやかな幸せを笑ってはいけないよ。

大きな幸福をも逃しますよ、ってね。


同じことを考えて手を伸ばす主婦たちの先手先手を打って(要するにタイミングなんだ。人と同じ動きをしちゃいけない)、狙ったお惣菜を悉くゲットすると、「ほな、さいなら」と涼しい顔でレジへ。

動きが鈍臭いレジ係のレーンは無視、テキパキとした人の所に入って、さぁお家へ帰りましょう。




アパートの前まで来た時、どこからか、

「章彦…」

と名前を呼ぶ声がして、僕は驚いて足を止めた。

条件反射で後ろを振り向くと、傍の電柱の蔭から、

「驚かして、ごめん…」

とかなり掠れた声で、誰かが姿を現した。

日没直後の薄暗いなかだったけれど、僕にはそれが誰か、すぐにわかった。

「翔!?」


宮嶋翔は、見るからに元気が無い…、どころではない、生気そのものが感じられなかった。

「家にいてもつまんないから、こっち来ちゃった…」

こんなに憔悴した親友の姿を見るのは、初めてだった。


直感で、これはヤバイと感じた。

「翔、うちにおいで」



蛍光灯の下で見ると、翔の顔色の悪さがよりハッキリとわかった。

右足首の包帯が、痛々しい。


「連絡無しでいきなり来て、ゴメンな…」

「ぜんぜん」

僕は、ごくごく明るく喋ることにした。「あんなトコに立っているんだもん、ビックリしたよ。それにしても声、だいぶ辛そうだな…」

「我ながらスゴイと思うよ。これじゃ舞台で歌なんか歌えやしない」

「無理するなよ。あんまり喋んなくていいから」

「ありがとう。原因はちゃんとわかってる」

「風邪か?」

「いや、精神的なもの」

「はあ…」

「だから、薬とかじゃ治らない。…また話すよ。この足といい、なんか俺ツイてないわ…」

親友の表情が暗く沈みそうなのを見て、僕は気を変えるつもりで敢えて明るく、
「なあ翔、とりあえずメシにしようか…?」



数日分のつもりで買い込んだ食料も、結局は翔と二人で、あっという間に食べ尽くしてしまった。


ちょっと一息ついてから、

「…なあ、章彦」

「ん?」

「しばらくさ、ここにいて、いい…?」

「ああ。全然構わないよ」

「ありがとう…」

親友はようやく笑顔を見せた。


翔は何日か休みになると、決まって『お世話にならせてください』とメールを送ってきて、僕のアパートに滞在するのが常だ。

僕が十九歳で親元を離れて、このアパートで生活を始めてから、ずっと。

どんなに親しい間柄でも、四六時中一緒にいると“プライバシー”の問題とかでだんだんしんどくなってくるものらしいけど、僕は翔に対して、不思議とそういうものを感じたことがない。


「足も治って落ち着くまで、いつまでもどうぞ」

「お言葉に甘えるね…」

翔はその場へ仰向けに寝ると、「なんかさ、すっごく疲れた…」

「働き詰めだったろ。それこそ子役の時から」

「そうだな。ありがたいことに…。でもさ、今度の舞台に関しては、章彦の前だから言うけど、初めから何だか気持ちが乗らなかったんだ。関係者たちには悪いけど」

「そんなことあるんだ」

「あるよ、なかには。だけど仕事だからさ、そういう時はもう、割り切ってこなしてきたんだけど、今回ばかりは何故かそれが効かなくてな…」

「へえ…」

「それで、初顔合わせで稽古場に入ったら、すでにイヤ~な空気なわけ。全体的に」

「なるほどね…。なんか解るな。そういうの」

バイトでもあるから。

「予感が的中した、って思った。そしたら急にだ、声がおかしくなったの…」

初めての経験だよ、と翔は深い溜め息をついた。

「精神的にも疲れていて、それで抵抗力が落ちていたのかもね」

「そうかもなあ。とにかく、このメンツと舞台やりたくないって気持ちが強くなって…。プロにあるまじき根性だよ、まったく」


僕は翔が生きている世界の現実を、この目で見たことがあるわけではないから、よくわからない部分の方が多い。

でも、声を失うほどの精神的圧迫(プレッシャー)を受けた、というところに、僕は翔がギョーカイで日々出くわしている現実を垣間見たような気がした。


「そこへ来て、この怪我だもん。なんか、イヤになってきたよ…」

「それにしても駅の階段で転ぶなんて、翔らしくないよな」

馬川朋美から聞かされた“情報”は、無視することにした。

「いや、厳密に言えば違うんだ。“転ばされた”」

「え?」

考え事をしながら階段を上っていたために、上からオッサンが転がり落ちて来て事にすぐ気が付かず、あっと思った時には避けるのに間に合わなくて、ドンと当たってそのまま下まで一緒に落ちた、親友は明かした。

「階段を上り始めたところだったから、五、六段落ちただけで済んだのが、不幸中の幸いかな…」

「なあ翔、それってどこの駅…?」

僕は嫌な予感がして、親友に訊ねた。






〈続〉
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