東急線の大岡山驛で下車する用事があったつひでに、江戸以来の湧水池を訪ねる。
池の小島に祀られてゐるのは辨財天、江戸初期に當時の地主が、この場所にこもる靈氣を感じたゆゑ祀った云々。
驛前から伸びる商店街を抜け、途中を右に折れて住宅が煩く續ひた先、木立に覆はれたなかに、「清水窪湧水」はある。
池の小島に祀られてゐるのは辨財天、江戸初期に當時の地主が、この場所にこもる靈氣を感じたゆゑ祀った云々。
また辺りを覆ふ木立は、江戸時代には昼間でも日が差さぬほど鬱蒼とした森であった名残りと云ふ。
私が一昔前まで住んでゐた町にも、大きな池の名残りと云ふごく小さな池に、辨財天が祀られてゐた。
生活環境が大きく変化し、先の見通しの全く立たぬ日々にあった當時の私は、毎日小池に架かる橋を渡り、辨財天に手を合はせてゐた。
生活環境が大きく変化し、先の見通しの全く立たぬ日々にあった當時の私は、毎日小池に架かる橋を渡り、辨財天に手を合はせてゐた。
私が町を去るその日まで、續けた。
清水窪湧水を訪ねたことで、私はそのことを思ひ出した。
あの日々と現在とは、いまも確かにつながってゐるらしい。