せまい道幅のわりに車の通行量の多い旧市場村を過ぎると、八丁畷という文字通りの直線道となり、

途中で京浜急行線の線路で分断されていますが、

その向こうにつづく縄手を日進町、小川町と経て、かつて小土呂橋が架かっていた新川通りとの交差点を過ぎると、神奈川宿から二里半(9.8Km)の川崎宿に到着。

明治時代以降、工業都市として大発展と大変貌を遂げた川崎ですが、江戸時代に宿場がおかれた当初は貧窮した寂しい宿場町だったようです。

しかし、宝永年間に本陣の主となった田中丘隅(たなか きゅうぐ)は六郷の渡しを川崎宿の請負とするなど宿場の復興に尽力、

その本陣跡が本町一丁目にあります。
ただ、この田中本陣も江戸末期には衰退し、そのために賓客は六郷の渡しそばで繁盛していた万年屋という茶屋に宿泊する有様だったようです。
その万年屋も明治半ばには廃業、現在は国道15号線の六郷橋そばに史跡案内板があるのみです。

途中で京浜急行線の線路で分断されていますが、

その向こうにつづく縄手を日進町、小川町と経て、かつて小土呂橋が架かっていた新川通りとの交差点を過ぎると、神奈川宿から二里半(9.8Km)の川崎宿に到着。

明治時代以降、工業都市として大発展と大変貌を遂げた川崎ですが、江戸時代に宿場がおかれた当初は貧窮した寂しい宿場町だったようです。

しかし、宝永年間に本陣の主となった田中丘隅(たなか きゅうぐ)は六郷の渡しを川崎宿の請負とするなど宿場の復興に尽力、

その本陣跡が本町一丁目にあります。
ただ、この田中本陣も江戸末期には衰退し、そのために賓客は六郷の渡しそばで繁盛していた万年屋という茶屋に宿泊する有様だったようです。
その万年屋も明治半ばには廃業、現在は国道15号線の六郷橋そばに史跡案内板があるのみです。

この六郷川のほとりは川崎大師平間寺に通じる大師道との追分であり、また“京浜急行線発祥の地”とも云うべき場所で、そのホームの遺構を眼下に確認しつつ、

かつての舟渡しを六郷橋で渡って、

東海道最後の宿場である品川宿をめざします。