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迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

迷走未来のゆくへ。

2017-08-15 19:09:16 | 浮世見聞記
東京都公文書館で開催中の、「変わる東京 『文化スライド』が写した昭和30年代」展を見る。


七十二年前の今日、ようやく戦争が終結し、そして十年──

復興から発展へと、急加速に変貌を遂げていった東京の姿を、当時の行政が“文化スライド”に記録した写真で紹介した企画展。


焼け跡の上に密集するバラック街を立ち退かせ、道路とインフラを整備し、川の流れを直し、或るいは蓋をし、或るいは埋め、都市生活者が“文化的”に暮らせるやうに工事が進められていく様子は、まさに都市の『改造』と呼ぶのに相応しい。


生活文化の向上は、やがて環境汚染といふ宿命的問題を惹起する。

ヘドロと化した河川では伝統の花火大会が中止にまで追ひ込まれ、

暖房に石炭を用ゐてゐた丸の内のビル街からは火災と見紛ふばかりの煤煙が屋上より吐き出され、

一方で庶民は「蚊と蝿を無くすことが衛生的生活の基本」といふ行政指導のもと、その駆除に立ち上がる──

そして「東京オリンピック」に向けて、東京はさらに“改造”されていく──


何も無い時代だったからこそ、

だから自分たちで造り出さなければならなかった時代だったからこそ、

そこには“可能性”と云ふ名の夢があったことを、

膨大な文化スライドはいまの私たちに教へてゐる。


会場の一階には、昭和三十年代の東京と、平成二十九年現在の同地点とを対比した写真パネルが展示されてゐる。

ところがわたしは、平成二十九年現在の写真風景に、なにやら違和感を覚えた。

なぜだらう──とよく見て気が付いた。

画像が、鮮明すぎるのである。

人間の肉眼では見えにくいもの─小さく写る遠くの看板の文字など─までもがはっきり読み取れるその鮮明さが、違和感の原因だった。

これはデジタルカメラが見た東京であって、私たち人間が見た東京とは違ふ!──

わたしはむしろ、モノクロの、あるいは色褪せた写真に記録された東京の風景に、現実感を覚えた。


さう言ふわたしもデジタル画像の恩恵に与ってゐる一人ながら、もはや行き場を失った新技術が、

迷走を始めてゐる現実を見た気がした。


このやうに、あらゆるものを造り尽くし、出し尽くした現代に、もはや当時のやうな夢などは消え失せ、あるのはごく近い将来の利益のみ──

二度目の東京オリンピック決定後に露呈したあらゆるお粗末ぶりが、それを端的に示してゐると言えるだらう。
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