「……!」
わたしはゾッとして、慌てて柵の内側に身を引きました。
そして、声を掛けてくれた人を振り返りました。
それは、わたしと同い年くらいの女性でした。
もしこの女性が声を掛けてくれなかったら、わたしは既にこの世にいないはずの人に誘われるまま、眼下の高速道路へと、転落していたことでしょう。
「あの…、どうなされたんですか?」
その女性は、わたしが何をしようとしていたのかを承知の上で、少し戸惑い気味に訊ねました。
「ああ…」
わたしも自分がしようとしていた行為に戸惑いつつ、
「アクセサリーを、落としてしまいまして…」
と、いかにも見え透いた返事をしました。
と言うか、そうとしか言えませんでした。
「そうなんですか…」
女性は柵に両手を置いて、下を覗き込みながら、
「下は首都高ですから、取りに行くのはかなり難しいですよね…」
と、わたしに調子を合わせる様子を見せました。
そこにわたしは、何となくこの女性の心優しさを感じました。
「ですよね、諦めます」
わたしは笑顔をつくって言いました。
「はい、残念ですけど…」
女性もこちらに向き直って、そしてお互いに目が合って、流れでなんとなく、「ははは…」と笑いました。
それを潮に、わたしは間一髪のところを救ってくれたこの女性に頭を下げて、そこを立ち去ろうとしました。
すると女性は、あの…、と再びわたしを呼び止めて、
「実は私、スタイリスト…、美容師の勉強をしているんですが、もしよろしければ、カットモデルになっていただけませんか…?」
「……」
わたしは振り返ると、改めて彼女を見ました。
その職業いかにも似合いそうな、都会的な美人でした。
「すみません、急にこんなことを言って。実はそれで、あなたに声を掛けたわけでして…」
「はあ…」
カットモデル。
本当に?
これまで、人から声を掛けられてロクな目に遭っていないわたしに、疑念が生じたのは無理のないことでした。
なにかの怪しげな勧誘ではないのか―?
でも、彼女のわたしを見る瞳(め)には、真摯な様子が窺えました。
わたしが東京へやって来て、初めて逢ったような瞳(め)でした。
「…ええ。いいですよ」
しかしそれは、危ないところを助けてくれた彼女への信頼から出た言葉、というわけではありませんでした。
わたしは既に、そこまでお人好しではありませんでした。
ええい、もうどうにでもなってしまえ!―そんな捨て鉢な気持ちから出た言葉でした。
わたしは今日、大事なものを失ってしまったのだ。
もうわたしには、何も無い。
何も無いのだから、戸惑うことも、何も無い―
「本当によろしいんですか?」
わたしの思いとは反対に、彼女は唇の前で両手を合わせて、嬉しそうな表情をみせました。
「ええ」
「ありがとうございます」
そして口のなかで「よかった、うれしい…」 と呟く彼女の姿には、どうしてもウソが見えなくて、それがかえって、わたしを戸惑わせました。
しかし、それでわたしの心が動いたわけではありません。
「美容室はこの近くなんです…」
そう言って前を行く彼女のうしろを付いて行きながら、わたしは自分自身を、嘲笑いました。
その美容室は、表通りに面したビルの二階に入っていいて、シンプルでこじんまりとしたつくりでした。
「さ、こちらへどうぞ」
彼女は愛想よくわたしを鏡の前に座らせると、
「今日は定休日でしてね。その日はいつもここに一人籠って、いろいろ研究しているんです…」
と話しながら、さっそく支度に掛かりました。
わたしは、ずっと黙っているのも変なので、
「ここはあなたのお店なんですか?」
と一応訊いてみると、
「いえ、先輩のお店なんです。前に修業していた美容室でとてもお世話になった方なんですけど。三年前に先輩が独立してここにお店を開いた時に、あなたもおいでよ、って声を掛けてくれて…」
「ああ…」
「でも、まだまだ見習い、アシスタントですけどね」
彼女はそう言ってわたしの斜め後ろに立つと、鏡越しにわたしを見て、ニコッとしました。
そして、
「では早速、始めたいと思います」
と鋏を構えた時、わたしは
「現在(いま)のわたしとは、全く違うわたしにしてもらえますか?」
と言いました。
わざと変わったことを言って、インターンである彼女を困らせてやろうとか、そんな汚い根性で言ったわけではありません。
それがこの時の、わたしの正直な気持ちであり、希望でした。
彼女にもそれが伝わったのか、或いはそういう事を言う客には慣れっこなのか、彼女は、
「かしこまりました」
と、鏡越しにわたしの目をまっすぐに見て、頷きました。
〈続〉
わたしはゾッとして、慌てて柵の内側に身を引きました。
そして、声を掛けてくれた人を振り返りました。
それは、わたしと同い年くらいの女性でした。
もしこの女性が声を掛けてくれなかったら、わたしは既にこの世にいないはずの人に誘われるまま、眼下の高速道路へと、転落していたことでしょう。
「あの…、どうなされたんですか?」
その女性は、わたしが何をしようとしていたのかを承知の上で、少し戸惑い気味に訊ねました。
「ああ…」
わたしも自分がしようとしていた行為に戸惑いつつ、
「アクセサリーを、落としてしまいまして…」
と、いかにも見え透いた返事をしました。
と言うか、そうとしか言えませんでした。
「そうなんですか…」
女性は柵に両手を置いて、下を覗き込みながら、
「下は首都高ですから、取りに行くのはかなり難しいですよね…」
と、わたしに調子を合わせる様子を見せました。
そこにわたしは、何となくこの女性の心優しさを感じました。
「ですよね、諦めます」
わたしは笑顔をつくって言いました。
「はい、残念ですけど…」
女性もこちらに向き直って、そしてお互いに目が合って、流れでなんとなく、「ははは…」と笑いました。
それを潮に、わたしは間一髪のところを救ってくれたこの女性に頭を下げて、そこを立ち去ろうとしました。
すると女性は、あの…、と再びわたしを呼び止めて、
「実は私、スタイリスト…、美容師の勉強をしているんですが、もしよろしければ、カットモデルになっていただけませんか…?」
「……」
わたしは振り返ると、改めて彼女を見ました。
その職業いかにも似合いそうな、都会的な美人でした。
「すみません、急にこんなことを言って。実はそれで、あなたに声を掛けたわけでして…」
「はあ…」
カットモデル。
本当に?
これまで、人から声を掛けられてロクな目に遭っていないわたしに、疑念が生じたのは無理のないことでした。
なにかの怪しげな勧誘ではないのか―?
でも、彼女のわたしを見る瞳(め)には、真摯な様子が窺えました。
わたしが東京へやって来て、初めて逢ったような瞳(め)でした。
「…ええ。いいですよ」
しかしそれは、危ないところを助けてくれた彼女への信頼から出た言葉、というわけではありませんでした。
わたしは既に、そこまでお人好しではありませんでした。
ええい、もうどうにでもなってしまえ!―そんな捨て鉢な気持ちから出た言葉でした。
わたしは今日、大事なものを失ってしまったのだ。
もうわたしには、何も無い。
何も無いのだから、戸惑うことも、何も無い―
「本当によろしいんですか?」
わたしの思いとは反対に、彼女は唇の前で両手を合わせて、嬉しそうな表情をみせました。
「ええ」
「ありがとうございます」
そして口のなかで「よかった、うれしい…」 と呟く彼女の姿には、どうしてもウソが見えなくて、それがかえって、わたしを戸惑わせました。
しかし、それでわたしの心が動いたわけではありません。
「美容室はこの近くなんです…」
そう言って前を行く彼女のうしろを付いて行きながら、わたしは自分自身を、嘲笑いました。
その美容室は、表通りに面したビルの二階に入っていいて、シンプルでこじんまりとしたつくりでした。
「さ、こちらへどうぞ」
彼女は愛想よくわたしを鏡の前に座らせると、
「今日は定休日でしてね。その日はいつもここに一人籠って、いろいろ研究しているんです…」
と話しながら、さっそく支度に掛かりました。
わたしは、ずっと黙っているのも変なので、
「ここはあなたのお店なんですか?」
と一応訊いてみると、
「いえ、先輩のお店なんです。前に修業していた美容室でとてもお世話になった方なんですけど。三年前に先輩が独立してここにお店を開いた時に、あなたもおいでよ、って声を掛けてくれて…」
「ああ…」
「でも、まだまだ見習い、アシスタントですけどね」
彼女はそう言ってわたしの斜め後ろに立つと、鏡越しにわたしを見て、ニコッとしました。
そして、
「では早速、始めたいと思います」
と鋏を構えた時、わたしは
「現在(いま)のわたしとは、全く違うわたしにしてもらえますか?」
と言いました。
わざと変わったことを言って、インターンである彼女を困らせてやろうとか、そんな汚い根性で言ったわけではありません。
それがこの時の、わたしの正直な気持ちであり、希望でした。
彼女にもそれが伝わったのか、或いはそういう事を言う客には慣れっこなのか、彼女は、
「かしこまりました」
と、鏡越しにわたしの目をまっすぐに見て、頷きました。
〈続〉