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迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

偲姿―おもかげ―11

2012-06-15 23:13:06 | 戯作
「……!」

わたしはゾッとして、慌てて柵の内側に身を引きました。


そして、声を掛けてくれた人を振り返りました。


それは、わたしと同い年くらいの女性でした。


もしこの女性が声を掛けてくれなかったら、わたしは既にこの世にいないはずの人に誘われるまま、眼下の高速道路へと、転落していたことでしょう。


「あの…、どうなされたんですか?」

その女性は、わたしが何をしようとしていたのかを承知の上で、少し戸惑い気味に訊ねました。

「ああ…」

わたしも自分がしようとしていた行為に戸惑いつつ、

「アクセサリーを、落としてしまいまして…」

と、いかにも見え透いた返事をしました。

と言うか、そうとしか言えませんでした。

「そうなんですか…」

女性は柵に両手を置いて、下を覗き込みながら、

「下は首都高ですから、取りに行くのはかなり難しいですよね…」

と、わたしに調子を合わせる様子を見せました。


そこにわたしは、何となくこの女性の心優しさを感じました。


「ですよね、諦めます」

わたしは笑顔をつくって言いました。

「はい、残念ですけど…」

女性もこちらに向き直って、そしてお互いに目が合って、流れでなんとなく、「ははは…」と笑いました。


それを潮に、わたしは間一髪のところを救ってくれたこの女性に頭を下げて、そこを立ち去ろうとしました。


すると女性は、あの…、と再びわたしを呼び止めて、

「実は私、スタイリスト…、美容師の勉強をしているんですが、もしよろしければ、カットモデルになっていただけませんか…?」

「……」

わたしは振り返ると、改めて彼女を見ました。


その職業いかにも似合いそうな、都会的な美人でした。


「すみません、急にこんなことを言って。実はそれで、あなたに声を掛けたわけでして…」

「はあ…」


カットモデル。


本当に?


これまで、人から声を掛けられてロクな目に遭っていないわたしに、疑念が生じたのは無理のないことでした。


なにかの怪しげな勧誘ではないのか―?


でも、彼女のわたしを見る瞳(め)には、真摯な様子が窺えました。


わたしが東京へやって来て、初めて逢ったような瞳(め)でした。


「…ええ。いいですよ」


しかしそれは、危ないところを助けてくれた彼女への信頼から出た言葉、というわけではありませんでした。

わたしは既に、そこまでお人好しではありませんでした。

ええい、もうどうにでもなってしまえ!―そんな捨て鉢な気持ちから出た言葉でした。


わたしは今日、大事なものを失ってしまったのだ。

もうわたしには、何も無い。

何も無いのだから、戸惑うことも、何も無い―


「本当によろしいんですか?」

わたしの思いとは反対に、彼女は唇の前で両手を合わせて、嬉しそうな表情をみせました。

「ええ」

「ありがとうございます」

そして口のなかで「よかった、うれしい…」 と呟く彼女の姿には、どうしてもウソが見えなくて、それがかえって、わたしを戸惑わせました。

しかし、それでわたしの心が動いたわけではありません。


「美容室はこの近くなんです…」

そう言って前を行く彼女のうしろを付いて行きながら、わたしは自分自身を、嘲笑いました。





その美容室は、表通りに面したビルの二階に入っていいて、シンプルでこじんまりとしたつくりでした。


「さ、こちらへどうぞ」

彼女は愛想よくわたしを鏡の前に座らせると、

「今日は定休日でしてね。その日はいつもここに一人籠って、いろいろ研究しているんです…」

と話しながら、さっそく支度に掛かりました。


わたしは、ずっと黙っているのも変なので、

「ここはあなたのお店なんですか?」

と一応訊いてみると、

「いえ、先輩のお店なんです。前に修業していた美容室でとてもお世話になった方なんですけど。三年前に先輩が独立してここにお店を開いた時に、あなたもおいでよ、って声を掛けてくれて…」

「ああ…」

「でも、まだまだ見習い、アシスタントですけどね」

彼女はそう言ってわたしの斜め後ろに立つと、鏡越しにわたしを見て、ニコッとしました。

そして、

「では早速、始めたいと思います」

と鋏を構えた時、わたしは

「現在(いま)のわたしとは、全く違うわたしにしてもらえますか?」

と言いました。


わざと変わったことを言って、インターンである彼女を困らせてやろうとか、そんな汚い根性で言ったわけではありません。


それがこの時の、わたしの正直な気持ちであり、希望でした。


彼女にもそれが伝わったのか、或いはそういう事を言う客には慣れっこなのか、彼女は、

「かしこまりました」

と、鏡越しにわたしの目をまっすぐに見て、頷きました。





〈続〉
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