
2㎞程行くと道は笹子小学校の脇で左折して旧笹子川橋を渡り、またすぐに右折。
ここから中央本線「笹子駅」までの数百メートル区間が、かつての阿弥陀海道(あみだかいどう)宿↑。
現在は酒造メーカーの工場と直売店、また笹子餅の売店があるだけの小集落で、本陣跡はおろか、宿場そのものの面影がありません。
阿弥陀海道宿から1㎞ほどのところにあるのが、黒野田(黒埜)宿。

↑写真左手の建物が、旧本陣。
その傍には、“笠懸地蔵”と呼ばれる、頭に大きな笠を載せた特異な地蔵が↓。

飢饉に苦しむ百姓が、その救済を祈願して建てたものと伝えられています。
以上の白野、阿弥陀海道、黒野田の三宿は、かつては一宿の扱いで、「上初狩」とされていました。
しかし、範囲があまりにも広かったためでしょうか、寛文年間(1661年~1673年)に、三村に分割されました。
初狩宿に“下”と“中”があって“上”がないのは、そのためです。
笹子川を渡った宿場の外れにある「普明禅院」の門前には、日本橋から二十五里目の一里塚跡を示す石碑が。
ここを過ぎ、笹子峠越えへと入って行きます。
ここから中央本線「笹子駅」までの数百メートル区間が、かつての阿弥陀海道(あみだかいどう)宿↑。
現在は酒造メーカーの工場と直売店、また笹子餅の売店があるだけの小集落で、本陣跡はおろか、宿場そのものの面影がありません。
阿弥陀海道宿から1㎞ほどのところにあるのが、黒野田(黒埜)宿。

↑写真左手の建物が、旧本陣。
その傍には、“笠懸地蔵”と呼ばれる、頭に大きな笠を載せた特異な地蔵が↓。

飢饉に苦しむ百姓が、その救済を祈願して建てたものと伝えられています。
以上の白野、阿弥陀海道、黒野田の三宿は、かつては一宿の扱いで、「上初狩」とされていました。
しかし、範囲があまりにも広かったためでしょうか、寛文年間(1661年~1673年)に、三村に分割されました。
初狩宿に“下”と“中”があって“上”がないのは、そのためです。
笹子川を渡った宿場の外れにある「普明禅院」の門前には、日本橋から二十五里目の一里塚跡を示す石碑が。
ここを過ぎ、笹子峠越えへと入って行きます。