Daily Bubble

映画や歌舞伎、音楽などのアブクを残すアクアの日記。のんびりモードで更新中。

『悪人』吉田修一

2008-02-24 23:55:19 | book
私たちの人生は、縦軸と横軸で出来ているみたいです。
果てしなく続く時間と、遥かなる空間。
私が今ここに居るってことは、多くの偶然が重なっていることなんだなぁと空や海や山を見て感じます。
そして、偶然の産物である私に与えられたたった一つの奇跡的な種を、魂って言うのかしらね。

吉田修一さんは大好きな小説家の一人で、彼の書くちょっと斜めにずらした感覚が最大の魅力かな、と思ってました。斜め18度の職人技。
その斜めのバランスが絶妙で、真実に真っ直ぐぶつかることが苦手選手権があったとしたら間違いなくベスト3に入る自信のある私にとって、するすると心の隙間に入ってくるとても心地よい小説家です。

その吉田修一の最新作『悪人』は、その斜め職人としての技を封印した直球小説でした。
これまでの小説だったら絶対に踏み込まない部分にずぶずぶと踏み込み、全てを吐き出して痛い痛いリアルを突きつける。
間違いなく、吉田修一の大きな転換となる重要な小説です。

携帯電話の出会い系サイトで佳乃と知り合った祐一は肉体関係を何度か重ねた末、福岡と佐賀の県境の三瀬峠で彼女を絞殺する。
はたから見たらこんなふうにまとめられてしまうけれど、主人公・祐一の抱える重く悲しい魂は、いくつもの悲劇と一握りの幸せを生みます。
彼のたった一人の親友が、こんなふうに評します。
「祐一は、最初と最後しかない。起承転結のうち、承と転を飛ばして起と結しか持たない」
それ故、祐一の行動はひどく歪で不可解だけど、彼は彼なりに悩み、考えて答えを出しているんですね。ただ、不器用で無口すぎるから理解されない。
そして祐一はたった一つだけ掴んだ幸せも、彼自信の出した結論によって、ケリをつけてしまう。とても悲しくてとびきり優しい彼なりの結論。

「悪人」というタイトルは、祐一を犯罪者という悪人にしてしまった社会を作る人たちを指しているのかな、と思います。
小説には祐一をとりまく様々な人たちが登場して、彼らは自分の理で生きています。悪意なく悪を生み出す人、悪意の中でひたすら耐える人。
でも、全て私たちが生きるこの社会が生み出すものなんです。私たちが作っているものに他ならないんです。
それでも、私は私の理で生きていかなくてはならないんです。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
理ですか・・・ (Mylo COM-2)
2008-02-27 00:12:38
こんばんわ アクアさん
またお邪魔します。

所詮、ヒトは生を受けた時から悪人だって言ってた哲学者か中国人かいましたよね。「性悪説」とかってやつですか。

誰でも「悪」大小は別として、悪いことはしてますよね。

大きいのだと、昨今のイージス艦。
あれだって、自動車で喩えれば、信号なしの十字路で優先道路を走ってた親子に、自衛隊の戦車が突っ込んだようなもので、普通なら道交法違反で交通刑務所行きですよね。

石波も幕僚長も内信のキャリアも責任転嫁と「わかりません」で有耶無耶に時間を浪費してますけどね。

あれだって、相手が自衛艦でなく民間の船だったら、即、船舶航行法で書類送検されますよ。
初犯でも、懲役執行猶予数年と民事で保障費ん千万の支払いです。

ちっこい「悪」だと、恋人同士のDVとかかな。
主に男性が女性を束縛したいがために、携帯で女性の動向を監視して、今何をしてるか写メで送れとか、暴力振るったりとか。異常ですよね。
気持ちというか器がちっこいのかな。
私には考えられません。
今の若い世代の象徴なのかもしれませんけどね。

でも、それを社会が悪いと言ってしまうと、ヒトの理ってそれに追従してしまって、へ理屈になってしまうんじゃないのかな?

今、選挙権を18歳からとか国会で論議していますが、現在の18歳の精神年齢は、ヒトそれぞれでしょうが10歳位かもしれませんし、30歳位の人生を悟ったようなヒトもいるかもしれませんが。

「理」を自覚するのは精神的に大人になって、自分で自分の行動に責任を取れる範囲で生きていくことなのでしょうか?

学生生活・部活・アルバイト・仕事・交際・SEX・趣味・遊び・etc・・・

他人にさほど迷惑をかけず生きていくのが「理」?
ヒトを殺めても、それもやはり「理」?
理性を持って行動することが「理」?
しつこい勧誘をはっきりと「断り」?

ん~頭が哲学っぽくなってきて、長々と書いていることに「理」が持てなくなりました。すいません。








返信する
返信が遅れてすみません。 (アクア)
2008-02-28 22:06:43
Mylo COM-2さん、こんばんは。
安易に書いてしまった感想に、ご意見をありがとうございました。

イージス艦の事故はとても残念でした。もっと残念なのは、防衛省の対応ですね。
「組織」の中に入ってしまうと、組織の理を最優先させてしまうのでしょう。その理が正しい・正しくないの判断をすることなしに。
では、その組織の理を作り出したのは一体誰なのか?その理により守られ、益を受けるのは誰なのか?
そしてまた、なぜ個人は易々と己の理を捨てることができるのか?
様々な疑問が浮かび上がりますね。

>でも、それを社会が悪いと言ってしまうと、ヒトの理ってそれに追従してしまって、へ理屈になってしまうんじゃないのかな?

この例として、DVを挙げられていますね。
DVという言葉自体は新しいものですが、行為自体はもっと以前から存在したものだと思います。携帯電話の普及により、それを悪用した犯罪も増えています。
理を持たず、流されるがままに罪を犯す人もまた多いんでしょう。罪を犯すとき、人は理をどこかに追いやっているのかもしれません。
しかし、犯罪者を生み出したのは、当事者だけじゃなくてそれを防げなかった私たちの社会にも責任があるのじゃないかしら、と思うのです。

この小説で、祐一は殺人という決して許されない罪を犯します。それはまったく肯定できませんが、犯罪後、彼は彼なりの理を持って行動します。
彼の理は、「愛する人を傷つけない」ことです。不器用な祐一ですから、彼の行為は新たな苦しみを生みだしてしまいますが、それも彼なりの理によってなんですね。
そういう主人公を、私は憎むことができませんでした。

お返事になってないようなコメントで申しわけありません。
返信する