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流れに任せて

最後の会津武士、町野主水

2022-02-11 06:17:52 | 歴史、民俗

戊辰戦争における会津若松城下での戦闘が苛烈を極めたことは、以前のブログで何度か取り上げました。

戦争終了後、新政府側が会津側の戦死者の遺体埋葬を許さず、半年間も放置させた、という逸話も紹介しました。その時は大きな憤りを感じていたものです。

しかし近年、新たな資料が発見され、実は埋葬は許可されていたということが判明しました。その資料には埋葬が行われた期間や場所、人員から費用まで事細かに記載され、およそ600人近い数の遺体を埋葬したことが記載されているそうです。

この時、すべての遺体が埋葬されたのかどうか、その点ははっきりしません。当時の会津の方がが残した日記には、野辺に転がる遺体の中から、家族を探して歩いたという記述や、崩れかけた遺体から遺品を拾い上げたという記述があるそうで、これらすべてが嘘だとは到底思えず、あくまで憶測ですが、すべての遺体が収拾されたわけではなかったのではないかと思われるのです。

会津戦争が終結したのは新暦の11月はじめ頃、遺体収拾はその10日後からおよそ2週間かけて行われたようです。会津は雪深い地と聞いています。そろそろ雪も降り始める時節。収拾されきれなかった遺体は雪を被り、春の雪解けまで手をつけることもできず、そのまま放置され続けたのではないでしょうか。

 

会津戦争終結から約半年経って、あちこちバラバラに埋葬されていた遺体を、改めて1か所に会葬することが決まります。しかしその際、ちょっとした悶着があったようです。

新政府側は会津側の遺体を、罪人塚に葬るよう指示、その遺体処理に当たるのを被差別民にやらせるとしたのだそうです。

これに納得いかない会津藩士たち。自分たちは罪人ではない、武士として立派に戦って死んだのだから、それ相応の扱いを受けてしかるべきと、新政府の軍務局に掛け合います。その中心人物となったのが、

会津藩士・町野主水です。

 

町野主水は武辺者として有名だったようです。会津藩主・松平容保公が京都守護職に任ぜられ上洛した際、桑名藩士を斬り殺して入牢し、禁門の変の時に脱獄して戦闘に参加したとか、かなりの剛の者だったようです。

会津開城後、新政府から「若松取締」に任ぜられ、遺体処理に奔走することになります。

町野は軍務局に再三、死者たちを罪人扱いせず、武士として埋葬させてくれと嘆願しますが、軍務局は冷たい態度を取り続けたようです。彼ら新政府側の言い分としては、会津は朝敵、賊軍である。賊はつまりは罪人、だから罪人塚に葬るべしということだったようだし、罪人の遺体処理にあたるのは被差別民いわゆる「非人」の職掌とされていましたから、藩士は手を出してはならないということだったようです。

会津側からすれば冗談ではない、我々は朝敵などでは断じてない。孝明天皇の覚え目出度き松平容保公の臣下である。朝敵などといわれなきこと。断じて受け入れ難し、となるわけです。

町野らは粘り強く交渉を続け、ようやく軍務局も折れて、野辺にさらされたままの遺体も含め、すべての遺体が阿弥陀寺に会葬されました。

遺体の数が膨大であったため、棺桶を用意することができず、遺体は大きな穴を掘った中に並べられ筵をかけられただけで埋められます。これら遺体が埋められた塚は、およそ1.2メートルの高さがあり、この高さまで遺体が積み上げられたのだと伝えられています。

ちなみにこの塚の手前には、元新撰組隊士・斎藤一の墓が建てられています。会津戦争の際には会津藩士たちとともに新政府軍と戦った斎藤一は、臨終の際「会津の阿弥陀寺に葬って欲しい」と遺言したそうです。ともに戦った会津藩士たちの傍で眠りたかったのでしょう。

 

「最後の会津武士」と言われた町野主水には、様々な逸話が残されています。

ある日町野家の玄関に大男の暴漢がなにやらわめきながら入ってきたので、主水は刀を帯びて対応。暴漢が暴れたので主水は刀の柄で暴漢を打ち据えたところ、その暴漢が死んでしまった。警察が来て大騒ぎになったが、この暴漢は家族でさえ持て余していた嫌われ者で、一方主水は皆に慕われていた戊辰の英雄ということで、結局心臓麻痺ということにして、警察も事件をもみ消してくれた。今なら許されないことですが、良くも悪くもこれが当時の空気だったのでしょう。町野主水本人も、「近頃では殺人事件とかいって大事になるそうだな」とほがらかに笑っていたそうな。

数多の死線を潜り抜けてきた武辺者らしい逸話です。

 

大正6年(1917)8月、戊辰受難者50年祭典の際、にわかに雨が降ってきた。町野を気遣った市長が天幕の方を指して「お下がりください」と言ったところ

「武士に向かって下がれとはなにごとか!」

と一喝。これに天幕に避難していた参加者もあわてて外へ出て、雨の中式典は何事もなく挙行されたとか。

 

大正12年(1923)、町野主水の葬儀では、子の武馬が父の遺言に従い、主水の遺体には筵を掛けただけで運び出そうとしますが、警察がこれを許可せず、やむなく棺桶に筵をかけた状態で運び出したそうです。

主水は常々、

「自分の死後は城下に放置されていた旧藩の人々と同じように葬って欲しい。立派な埋葬では泉下の仲間に申し訳が立たない」

と子らに言い聞かせていたのだそうです。

 

死んでいった仲間たちへの強い思い。最後の最後まで会津武士であり続けようとした町野主水。この武骨で愚直な武辺者に、なにか惹かれるものを感じるのは私だけでしょうか、かつてこのような人が、この国にはいたのだ。

 

それにしても、この「埋葬不許可」説を広めた者は誰なのでしょう?少なくとも1960年代以前は、このような話は伝えられていなかったといいます。60年代以降、この話は急速に日本中に拡散されていった。

おそらくは地元の記者や作家などの人たちが、反中央思想に基づいて広めていったのではないでしょうか。明治維新の欺瞞を糺すという名目で。

確かに明治維新には様々な問題点もあり、非道な行いも確かにあった。これは厳重な検証を受けなければならないとは思う。しかしそれにしても、ほぼ捏造に近いような話を広めるのは、決して褒められたことではありませんね。

この話を、明治政府の残虐さの象徴として取り上げ、なぜか現政権批判、具体的には安倍政権批判に結び付けて論を展開していた輩もいました。まったくいい加減にしてくれ!

かく言う私も、この説に乗っかって批判的なことを書いた時期もあった。今から思えば冷や汗ものです。

人は条件さえ揃えば、どんな残虐なことも非道なことも出来てしまうもの。私のこの確信は基本的には変わらないし、そうしたことは伝えていかねばならないという信念も変わらない。

しかしね、いい加減なこと、確証のないことには慎重になるべきだね。自重をを込めて、この記事を書きました。

 

それにしても町野主水です。この武辺者に今はただ、思いを馳せたい。

 

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (チャメ子)
2022-02-12 00:31:36
会津藩士町野主水さんに、心より哀悼の意を表します。
返信する
Unknown (薫兄者)
2022-02-12 04:01:24
チャメさん、どんなに時代が変わっても、変わってはいけないものって、あると思うんです。表面的な変化はある程度仕方がないでしょう。和装から洋装への変化とか、そういうのはいいんです。でも精神性の根幹の部分は、変わってはいけないんです。
町野主水という人は、大正の御代になっても会津武士の誇りを忘れなかった。立派です。たぶん若いころだったら、こんな「頑固爺」嫌いだったと思う。でも今は妙に愛おしく思えるんです。たぶん私自身が、「頑固爺」と呼ばれても仕方がない年齢になってきたということなんでしょう。いいさ、頑固爺、なってやろうじゃん(笑)なめんなよ(笑)
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