寂光院の猫(本編)

 寂光院へは、何年か前の雪の日に、友人と行きかけてやめたことがあった。三千院をまわって、牡丹雪の降る山里の風景の中を、寂光院へと続くゆるやかな上り坂を登っていったところ、寂光院はちょうど改修工事か何かの最中で、拝観はできるのだけれど、青いシートがかけられていたりして、寂光院の静かな風情が台無しであった。そこで、また別の日に来ようとその日は諦めたのだけれど、その後まもなく火災があって寂光院の本堂が焼け、あのとき見ておけばよかったと友人と返す返す後悔した。
焼け落ちた本堂は、今ではもうすっかり修復されている。あの雪の日から何年経ったか、今回は、まだ夏の名残ある太陽に照らされながら、だらだら坂を登った。歩くと汗が出るけれど、木陰に入って息をつけば、道の横を流れる清流の上を渡った風がひんやりと吹き通って、涼しい。
 やがて、道の右手に、こぢんまりとした寂光院の入り口が現れた。受付を通って、木々の葉が緑のトンネルをつくる石段を登って行った。
 山門をくぐると、静かな山寺である。それでいて重苦しい雰囲気はなく、境内は明るくて、ほっとするような場所であった。本堂の右手に、白い花が咲きこぼれるような百日紅が目を惹く。すぐ裏には山の木々がせまって、奥ゆかしい庭に荘厳な趣を添えている。
 秋海棠は、石清水を引いた小川のほとりにあった。ピンク色の可愛らしい花が水辺に向うように咲いて、周りには小さなシジミチョウが舞っている。
 本堂横の池に泳ぐ鯉を眺めていたら、池の向こうに一匹の猫が現れた。よく見ると紐でつながれていて、その紐の端っこは、猫の後ろに立っている紫色の作務衣を着たお寺のおばさんが握っている。
 猫が動きを止め、なにやら少し上の辺りをじっと注視しはじめた。何を狙っているのだろうと思って見ていると、狙いを定めた猫がひょっと跳び上がったのと同時に、木賊のてっぺんから、赤トンボがすいと飛んだ。紐を持つおばさんが笑った。
 そのあと、お寺のおばさんはしゃがんで庭の草取りを始め、猫は紐につながれたまま、木陰で長々と寝そべった。
 家に帰って寂光院のホームページを見たら、猫を抱いて笑っている住職さんの写真が載っていた。猫の名前は、「福ちゃん」というそうである。


参考URL:http://www.jakkoin.jp/injyu.html(福ちゃんの写真があります)
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