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あみたろう徒然小箱

お気に入りのモノに囲まれ、
顔のつぶれたキジ猫と暮らせば、あぁ、極楽、極楽♪

クレジットカードの「くわばら、くわばら」体験

2021-11-03 | できごと


近くのスーパーマーケットでクレジットカードで支払いを済ませようとすると、
いつも私がカードで支払うのを知っているレジ係さんが、
何度カードでレジを通そうとしても通りません。
数回試した後で、
「このカード、何度やっても受け付けないんですよ」
”え~っ? そんなバカな・・・・”
私は半信半疑で現金払いしました。
10000円弱を現金払いするのはつらい。
だって、そんなことをしていたら、
あっという間にお財布は空になってしまうから、
いつも現金をたくさん持ち歩かなければならなくなります。

しかたなく現金で支払った後、今度はいつも通っている鍼灸院に行きました。
こちらは健康保険が利かないため高い金額になり、必ずカード払いにしています。
ところがそちらでも、「あれっ? このカード使えません」
と、何度も何度もレジを通しています。
「じゃ、次のときに一緒に支払ってくださいね」
そのときは支払いナシ(保留順延)にしてくれました。
「カード会社に電話してみたらいかがですか?」

帰宅早々、カードの裏に書いてある電話番号に電話してみると
私のクレジットカードは一時ストップになっていて、現在使えないのだとか。
どうしてそんなことに?
「お客様のカードは、出会い系サイトなどに使われていますので、
こちらの判断で一時ストップをかけました。」
確かに個人情報を見れば、
こんないい歳のオバサンがそんなものに使うなんておかしい。
まぁ、なんというありがたい判断。
というわけで、私のクレジットカードはいま使えません。
カード払いになれていた私には、
現金払いばかりするのはとても不便です。

たまたま私が気づくのが早かったので、
カード会社からの連絡が後になってしまいましたが、
後日カード会社から
『カードご利用内容について、ご連絡のお願い』というのが来ました。
「このたび、弊社『不正使用検知システム』によるモニタリングにてお客様のご利用でない可能性がある取引を検知したため、現在お客様のクレジットカードのご利用を制限させていただいております。・・・・下記ご照会先、までお電話くださいますよう・・・・云々」なる文書が届きました。

それにしてもカード会社の『不正使用検知システム』ってありがたいですね。
誰かに使われてしまったそれら不穏な支出は、
もちろんカード会社が補償してくれました。

みなさま、『不正使用検知システム』がうまく作動しなかったときのことも考えて、
カードの支払い内容はよく確認してくださいね。

曲がった顔はどうなった?

2021-08-06 | できごと


さてさて、その後の私の顔面神経麻痺はどうなったのでしょう?
途方に暮れたものの、そうしていてもどうしようもありません。
せっせと鍼灸院に通っています。
麻痺している側の顔に30本近くの鍼を打ってもらい、ときには顔に近い毛髪の中にまで打ちます。
鍼灸院はこの辺りではかなり評判の良いところで、信頼が置ける治療院だと思っています。
「これはいま、大変よくある疾患なんです。
治るまでには時間がかかりますから、けっこうお金もかかってしまいます。
完治に3年間かかった人がいますし・・・・」と、鍼灸院の先生。
確かに確かに、保健が利きませんから、一回の治療にかなりの金額を要します。
変な言い方ですが、困窮している人には無理ではないでしょうか?
顔面神経麻痺で最初にかかった総合病院の医師が、
「鍼灸院に通っているって? 保健が利かないからかなりお金がかかるでしょう?
えっ、一回○○○○円? 
そりゃ、高い! 高いなぁ~」
と、治療とは関係ないところで妙に感心していましたっけ。

東京女子医大は東洋医学系に強い大学病院なのびで、治療はすべて鍼灸でやるそうですが、
鍼灸を使わなければ、普通は血流が良くなるビタミン剤などを服用する以外ないのです。

で、私の顔面神経麻痺は、
せっせと鍼灸院に通ううち、そこそこ改善されてきました。
最初の頃の大きくずれた眉と目は大分バランス良くなってきて、
唇のゆがみもあまり目立たなくなりました。
でも右目は一重まぶたのまま二重に直りませんから、
左右の目の大きさが違います。

でもでも、最初の頃のハチャメチャに破壊された(と私は思いました)顔から見れば、いまは可愛いこと!!
などと慰めつつ、いまは週一回の鍼灸院通いに励む私です。


鳩が困っている

2021-06-13 | できごと

鳩の巣を下から見ると

2、3日前のこと、
マンションの周りの生け垣や樹木を園芸業者さんがカットしに来ました。
ツツジの木は電動ノコギリでみるみる間に短くされ、
伸びきった木々の枝は業者さんが木に登ってパツンパツンと伐り、みごとにすっきり。
大量に茂っていた葉はすっかり落とされて、
見えなかった枝が姿を現して、
木全体の枝葉の様子があらわになりました。

うちの小窓からは一番近いところにヤマボウシの木があって、
春になると十字型の白い花が咲いていました。
ヤマボウシは山に生える木で、
ふつうは庭木にしないことが多いのですが、
私はヤマボウシが大好きなので、
ふつうはこんな間近にしみじみと見ることができないヤマボウシを
小窓からすぐ見下ろすことができて喜んでいました。
しかしここ数年、園芸業者さんが刈り込みに来るうち、
あんなに咲いていた十字型の白い花が
全く咲かなくなってしまいました。
ヤマボウシをどんどんカットすると花芽を摘んでしまうのでしょうか、
そのうち咲けなくなってしまうのではないのではないかと思います。
やはり山に生えているときのように
大らかに伸ばしきってあげるのがいいようです。

今年はことのほか枝の伸びが良くてワサワサ茂っています。
だからか、よりによって今回は思いがけないほどの大幅なカットでした。

卵を温める親鳩にはカンカンに陽が当たっている

すると、どうでしょう。
そのスカスカになった枝の中で鳩が卵を温めていたのです。
思うに鳩は木陰に隠れて卵を孵化させようと安心していたのに、
直射日光はカンカンに当たるわ、
道路からは丸見えだわ、
それに近くの小窓からは興味津々のオバサンが双眼鏡で覗くわ、
落ち着かないったらありません。

“どうしてこんなに環境が変わっちゃったんだろう”
鳩はすっかり戸惑って困っています。

こんなに丸見えになっちゃって、困っちゃう

そのうち、卵を抱えていた鳩の下がモゾモゾと動いたと思ったら、
親鳥はサッと飛び立っていき、
残りの巣には小さな2羽のヒナ鳥がいるのが見えました。
そのうち親鳥は帰ってきて、ヒナの口に餌を与えています。
めったに出かけず、あとはずっとヒナを温めています。
毎日食卓の席から、それを眺めるのが日課になりました。
鳩のヒナが巣立ってしまったら、
ぽっかりと心に穴が開いたようになってしまうんじゃないでしょうか。


いつまでいてくれるの?

三分の一の確立(顔面神経麻痺 2)

2021-06-08 | できごと






「先生、これ治るんでしょうか」という私の問いに、
「三分の一の人は治る、三分の一の人はタケシのようになる、
残り三分の一は治りません」と。
“タケシのようになる”とはどういうこと?
訊ねることも忘れ、私はその答えを呆然と聞いていました。
私のバカ、なぜそこで突っ込んで訊かなかったの?
“私、どうなるんだろう”そればかりが頭を巡りました。
タケシのあの顔は確かに歪んでいるけれど、
チック症によるものではないの?
あぁそんなことどうでもいい・・・・
いまの私、人様のそんなこと言ってられない。

「先生、私、なぜこんな病気になったんでしょう?」と言うと、
「原因は判らないんですよ。
ヘルペスなどの何らかのウイルスが入ったという説がありますが、
あなたはそうではないし、
MRIもCTもまったく問題ありませんから、
脳からのものではありません」
「誰も“なぜ自分がこんな病気に?”と思うんです」
そりゃあ、誰だってそういう疑問が湧くのは当たり前です。
特にこれといった答えはなく、
「じゃあ、2ヶ月後にまた来てください」
そう言って出してくれた薬は、血流をよくするビタミン剤でした。
顔面神経麻痺って原因は判らないだけに、特段治す方法もない。
なんてやっかいなんでしょう。
このやり場のない気持ち、どう収めればいいんだろう。
この曲がった顔の不自由な生活、あと何か月続くのかなぁ。
それにしてもめったにならない病気なのに、なぜ私が???

ビタミン剤を飲むだけというのも心細くて、
インターネットで「顔面神経麻痺」と検索すると、どうも鍼灸が良いらしい。
何もやらずに手をこまねいているよりは、
やれるものはやってみよう。
だって三分の一の治らないに入ってしまうかもしれないもの。

というわけで、近くにある評判の高い鍼灸院に通うことにしました。
顔に鍼を打つなんてすごく恐ろしいけれど、がまんがまん。
曲がった顔を戻すには仕方ないじゃありませんか。
鍼灸院の受付嬢は「顔面神経麻痺の人は毎日来る方が多いですよ」と。
たしかに顔面神経麻痺の場合、最初の1週間が大事みたいです。
私の場合はもう2週間経ってしまったけれど、
毎日顔に鍼を刺すのなんて耐えられない。
というわけで、一日おきに通うことにしました。

なんて不自由な生活(顔面神経麻痺 1)

2021-06-05 | できごと






翌日は救急外来に行き、その病院になんと5時間も滞在、
診察、MRI、CTを撮り、大量の血液検査、そしてまた診察。
その次の日は2時間半いて診察、追加の血液検査、聴覚検査など。
個人病院では考えられないほどの詳しい検査の連続でした。
さすがこの辺りでは一番大きな優秀な病院。
多摩地方の基幹病院でコロナの患者さんも引き受けているので、
この時期なるべく近づかないようにしていましたが、
こんな奇妙奇天烈な病気になってしまっては、そんなこと言っていられません。

病名は堂々の?「顔面神経麻痺」。
40年ほど前、まだ現役で猛烈に忙しかった頃に一度罹ったことがあります。
でもそのときはちゃんと仕事に出かけていたのですから、今回ほどひどくはなかった。
歪んだ顔を気にしながら、仕事に励んでいたのです。
ま、言ってみればその程度でもあったのか?
もともとあまり気にしない性格だから、
あるとき、「ギャハハ~」と大笑いました。
そのとき私の顔を見た相手が、
「ワッ・・・○○さん、笑い顔が怖い!」とつぶやいたので、
私は自分の顔が相当ひどいのだと悟ったのです。
でもそれでも仕事はできていた。

今回はこうしてブログを書いているぐらいだから、
もちろん仕事をやろうと思えばできる状態なんですが、
ただ今回のこの面相、人前にはとても行けないぐらいひどい。
ほ~んとにひどいのです。
我ながら鏡を見るとあまりの顔のゆがみにギョッ。

担当医の先生も、
「かなり悪いほうだから、時間がかかるかもしれないなぁ」
さすがの私もこの夜は寝付きが悪かった。
シュン。
やっぱ私、そんなに悪いんだ・・・。


それにそれに、この状態になってからの不自由なことったらありません。
なにしろ右半分の顔が動きませんから、
左半分が笑っていても、右は無表情のまま。
左の顔はいつもの顔なのに右の眉は大きく下がり、
目は細くなり、口端も下がったまま微動だにしません。
だから飲み物を飲むときは左半分からストローで飲み、
飲み込むときは左側に落ちるように顔を傾けて慎重に。
口をゆすぐときは自由が効かない唇を
両手で強く挟まないと水が流れ出てゆすげません。
それでもそこから漏れ出てしまい、ときどきピュッピュッと飛び出てきます。
あぁ、情けない。
なんて不便なことでしょう。
普通に物を噛める、物を食べられるってどんなに大事なありがたいことだったことか。
こうなって痛感する私なのでした。

古墳大好き

2019-10-15 | できごと

保渡田八幡塚遺跡。方墳部にある階段を上がると前方後円墳の上部を眺められる。上部の縁には円筒古墳がずらりと並べられている。後円部の上には下に降りる階段があって、石棺室に行くことができる

内堀の中、古墳のすぐ隣には円形の舞台ふう台座が4箇所あり、その周囲も上部も円筒古墳がずらり。ここには家形埴輪が建てられたのだという

先月末、群馬県高崎市保渡田町にある「保渡田(ほとだ・ほどた)八幡塚古墳」に行ってきました。
ここ「保渡田古墳群」には「八幡塚古墳」と「井出二子山古墳」があって、「井出二子山古墳」は、発掘前の古墳の形状をできるだけ変えない手法で整備された古墳ですからこんもりと草の緑に覆われた前方後円墳だそうですが、ほんのちょっと離れているのでまだ行っていません。
それで、発掘当時の埴輪などができるだけ忠実に再現されている保渡田八幡塚古墳に行きました。ここは古墳大好き人間にとってとても楽しい古墳で、何度行っても飽きません。私は今回で3回目になります。 
大阪高槻市の今城塚(いましろづか)古墳もこのような再現古墳で、とても興味深い古墳だそうです。保渡田八幡塚にしても今城塚にしてもなぜ当時を再現できたかというと、天皇陵ではなく豪族の墓ではないかと思われたためだそうです。
天皇陵ならば、発掘することも、当時のままの再現も許可されません。ところがいまでは今城塚古墳は継体天皇陵ではないかという説が有力だそうで、最初からその説が主流であったらとうてい現在の姿は見られないことになります。
高槻市となると遠いので、いまの私の「痛い生活」状態では行くことも容易に叶わず、地団駄踏んでいるのですが仕方がありません。

古墳の周囲には、厳めしいけどちっとも怖くない盾持ち人が数体、古墳を守っている
ま、それはとにかく、保渡田八幡塚古墳に近づくと、古墳の一番外側の外堤には、胸に盾を抱えた「盾持ち人埴輪」が10体ほど、外界から来る邪悪なものから古墳を守るために並べられています。厳めしく荒々しい顔をしているのですがどことなくコミカルな顔立ちが魅力的、思わず「また見せてくださいな」と挨拶したくなるような“守り人”です。
古墳の周囲は膨大な数の筒型古墳にぐるりと周囲を囲まれ、手前一角には発掘された数々の古墳のレプリカが忠実に展示されています。古墳のあちこちには、人、動物、家、器物などの形をした形象埴輪が100以上もあったそうです。

再現埴輪群はずっと見ていても飽きない
口に魚をくわえている鵜、鳥を腕に乗せている武人、王座に腰掛ける王、王に杯を捧げている高貴な女性、馬、水鳥、猪など、一つ一つ想像を凝らしながら眺めたくなる再現古墳群です。
ここの埴輪群の特記すべきことは、人か動物か器物か、どんな役割の人か、どのような服装か、何を持っているか、どのような仕草をしているか、それぞれの人がどのような向きで向き合い、どのような関係性を持っているかなどが明確に判ることだそうです。確かに、王座に座る王冠を被った王、王に杯を捧げる高貴な女性など、関係性のある者がグループをなしいています。発掘される埴輪は数あれど、ここまで多様性ある明解な埴輪の実例は非常に少ないのだとか。
う~ん、埴輪群を見ていて飽きないのはそれもあったんですね。ふむふむ。

盗掘に遭うのが遺跡の宿命だから、保渡田八幡塚の埴輪も長い年月の間に行方不明になったり記録をなくしたりして、その実態は近年まで不明確だったそうです。しかし、この埴輪群の展示はレプリカによってできるだけ配列や実態などを推定して再現しているそうです。特に非常に多い量の円筒古墳は、地元の小学生など数多くのボランティアの協力を得て膨大な数を並べています。そのため、円筒古墳の内側には協力したボランティアの名前が書かれています。
あぁ、私もこういうボランティアに参加したかったなぁ。 

さて、前方後円墳の方墳辺りにある階段を上ると、古墳の上部に着きます。
埋葬された人(この古墳では豪族、天皇陵の場合は天皇)は最上部にある円墳に埋葬されているのですが、天皇ゆかりの人が方墳部に埋葬されているケースもあるそうです。
天皇陵は発掘禁止なので当然それを確かめることはできません。先に書いたように古代から現代までも長い歴史の中で何度も盗掘に遭っているので、中は何もないからっぽの古墳が多いそうです。千数百年の間には、それぞれの時代の盗賊が暗躍していたでしょうから仕方がありませんね。

石棺と副葬品室

最上部の円墳には見学者のために円墳の中に降りる階段が設けられていて、下には舟型をした石棺があります。これには古墳の主である豪族が安置されていたのですが、その石棺の石は大変な分厚さで、蓋をするだけで大変です。画像手前の、開口部側に頭を向けて安置され、頭の上、石棺の外側には副葬品が入れられます。

すぐ隣の博物館に展示されている埴輪
保渡田八幡塚遺跡のそばには「かみつけの里博物館」があって、遺跡から発掘された埴輪などが補修され展示されています。私の好きな盾持ち人埴輪にも、もっと素朴でノホホンとした顔立ちのものもあって、形は様々だったことが判ります。

保渡田から帰ってくると、ついまた行きたくなってしまう。
いっそのこと、古墳が一望できる隣の田んぼ辺りに住んていたら? 
いえ、たまに行くからこんなに楽しいんですよね。判っているんですけど・・・。

「目鼻があるもの」 3度のダメ押し--人形供養

2014-10-15 | できごと

築50年の古風なリビング、ガラス棚には人形が長年飾られていた。
この他、和室に仏像が4、5体


「目鼻が付く」とは、「だいたい目安が立つこと」を言いますが、
これは「目鼻が有るもの」に翻弄され、しばし目鼻が付かなかった話です。

実家を売り出すため本格的な大整理を始めたのは、今年5月。
特に集中したのは、7、8、9月の暑いさなかでした。
築50年近い古家が建つ土地を売るには、“更地渡し”が前提条件となります。
解体屋さんがバリバリッと壊す前に、家族の名前が入っている書類等を処分し、
膨大な蔵書やコレクションを然るべき所に処分しなりません。
地域のゴミ集積日に合わせて帰省するのでは到底処理しきれませんから、
市のゴミ集積場に持って行くことになります。
そのようにして車で運んだ処分ゴミは、45Lのゴミ袋150個以上。
今年の夏は、過酷な重労働を強いられた夏でした。

8月半ば、見積りに来た解体屋さんは家屋の中と庭を一通り巡った後、念を押しました。
「目鼻のあるものは置いていかないでください」
「目鼻のあるもの」とは、眼、鼻が付いている人形のこと。
亡き父は外国土産の人形が好きだったので、
リビングと客間の飾り棚にはたくさんの人形があり、別室には仏像4、5体がありました。

解体業者の方は様々な物を処分することになりますが、とりわけ嫌がるのは人形だそうです。
処分したあと事故などがあった際、人形が祟ったのではないかと恐れるからだとか。
人形には“念”や“霊”が入っていると考えるからでしょうか。
聞いたことはありましたが、直接言われたのは初めてなので戸惑いました。
人形供養に出すには、お寺や神社などの人形供養の日に合わせわせ帰省しなければなりません。
それでなくても疲労困憊の日々、これ以上の往復は負担です。
塩を振りかけてお清めをし、「ごめんなさい」と謝ってから、
見えないよう包んで集積場に持って行こうと考えていました。
それからしばらくの間は、大物の整理のための労働に次ぐ労働、
「目鼻があるもの」はすっかり後回しになっていました。

さて、最後にリサイクル屋さんを呼び、
活用できる物を持って行ってもらう運びになりました。
冷蔵庫、洗濯機、台付き碁盤などを搬出したあと、ひとこと言われました。
「人形は、捨ててはいけませんよ」
またまた目鼻が有るものの話が、ここで出るとは・・・。
こちらが捨てると先を見越してか、念押しをされてしまいました。

こうまで言われすっかり覚悟を決め、腹を括ることに。
静岡市の神社やお寺など、人形供養をしてくれるところを片っ端から調べました。
供養の日程が決まっているものが多い中、
そのような事情なら持参してもいいですよと言ってくれたのは、浅間神社でした。
春には例大祭があり、静岡市民にとって最も馴染みの深い神社です。
供養の費用を聞き、駐車場の場所を訊ね、いざ持って行こうと思い、はたと考えました。
神社が仏像の供養もしてくれるのだろうか? 
それはいくらなんでも無理というもの。
と諦めて、ここで頓挫。

ふと思いついたのが、近所にある曹洞宗のお寺です。
人形と仏像の供養をお願いすると、
そのお寺で母の葬儀をしたことと近所のご縁から、快く引き受けてくれたのです。
いまから見に行きますと、早速住職が下見に来てくれました。
そしていまは袈裟を着けていないから本格的にはできないがと、仮供養をしてくれたのです。
住職と依頼者の双方がお香を唇や衣服に付けて清め、短かなお経を上げてくれて仮供養終了。
本供養は、2週間後に実家に来る日に合わせ来てくれることになりました。

さて、本供養当日。
袈裟を着た住職は麦わら帽子をかぶり、自転車に乗って定時前に来宅。
お焼香をして「抜魂呪(ばっこんじゅ)」を唱えてくれました。
その後、家の周囲をぐるりと回りながらお経を唱え、
解体する家屋に感謝の鎮めをしてくれました。
まさに灯台もと暗し、気さくに引き受けてくれる住職に巡り会えてほんとうに良かった。
家屋の供養までしてくださって、申し訳ないようなお布施代金でした。
「これらの人形や仏像は、外から見えるようにして袋に入れ、
『供養済み』と書いてゴミ集積場に出してください」
そう言い残し、住職は炎天下のなか自転車で帰って行きました。
ギラギラと照る真夏の太陽の中、
薄手の袈裟をなびかせて走る住職に心から感謝しました。

翌日、人形と仏像を可燃と不燃に分けて透明の袋に入れ、
「○○寺 供養済み」と大書きした紙を貼り付け、ゴミ集積場に持参しました。
集積場の職員さんは、私が渡した袋を見て、
「こうしてくれると助かるんですよね。最近は供養してくれる人が少なくなって・・・」
しみじみ言いながら、袋を受け取ったのです。
目鼻の有るものを処分するに関して、これが3番目のダメ押し。

解体業者、リサイクル業者、ゴミ集積場の作業員の方など、
物を処分することに携わる業者の方々は、
「目鼻の有るもの」をそのままポイと捨てることをとても嫌うのです。
すっかり廃れてしまった人形供養行事ですが、
或る種の業種の人達の中には、いまだ人形への畏れの精神が色濃く残っています。
私には霊感などはなく、念の入った事物への精神の傾きは何も感じませんが、
だからといって単純に片づけられないものがあります。
家族を長年愉しませてくれた人形、見守ってくれた仏像への感謝、
そしてそれらを処分することになる人達への配慮が必要です。

思いもかけず、「目鼻の有るもの」に翻弄された夏でした。
しかし然るべき供養をきちんとしたあと、妙に晴れ晴れしているのも事実です。

「事件ですか? 事故ですか?」 

2014-07-27 | できごと
現在、実家の件で駆け回ることになりました。
今年3月に亡くなった父が遺したいくつかの土地家屋の売買に留まらず、
解体業者がガガ~ンと重機で取り壊すにはしのびない個人書類、70年分以上の日記、
アルバム、コレクション、書籍などなど。

実家は40年前の古い家で、母屋は広さ130㎡、それに30㎡弱の離れがあります。
母屋はガラス戸が多いので、その気になればどこからでも侵入できます。
周囲は高いコンクリート塀に囲まれているため外部の目からは遮断され、
泥棒にとっては大変仕事しやすい家だと言えるでしょう。
泥棒が入ったときのことを考え、押し入れに隠れて寝たいぐらいの心境でしたが、
今回はたまたま、あまりの用事の多さに相方が同伴していました。

今回出向いた3泊4日では、
3つの不動産会社との折衝、古本屋さんの搬出など、
合計15、6の重要な用事をこなして日程はびっしり。
連日、体力と思考力の限界を超える状態でした。
綿のように疲れた体にダメ押しをしたのが、睡眠不足。
極端な睡眠不足になった、その理由とは?

まず初日、古本屋さんに来てもらって、段ボール40箱の本を搬出しました。
帰りがけに古本屋さんが言うには、
「たくさんの本を一度に運び出すと、そのあと家が泣くんですよ。
いまもちょっと泣いていますよ」
“家が泣く”?
初めて聞く言葉でしたが、解るような気がします。
長年の重量バランスが急に壊れて、家がきしむのでしょう。

その日の夜のことでした。
夜中の3:30頃、ふと目を覚ますと階下で物音がします。
「下で物音がしない?」
「する、確かにする」
階下を人が歩き回り何かを物色しては、また歩いて何かを動かし・・・。
これが“家が泣く”ってことか? ちょっと違う!

どう考えても、誰かが何かやっているのは確かです。
2人で2階にあったゴルフクラブを持ち、思い切って階段の上から怒鳴りました。
「誰ッ!」
返事なし。音も変わらず。
この辺は外国人が多くなったから、日本語が通じないのか?
携帯を手に怒鳴りました。
「警察に電話するよッ!」
「110番するよッ!」
降りていこうとする相方に、
「待って! 貴方がやられたら、私どうなるの?」

とうとう110番に電話しました。
「事件ですか? 事故ですか?」
「 (どちらかと問われれば・・・)事件です。いま2階にいるんですけど、1階に誰かいるんです」
住所を言い、何らかの会話がありました。(動転していて忘れました)
「いま(警察が)そちらに向かっています」
「門が閉まっているから入ることができません。塀を乗り越えて来てください」
「警察はそういうことはしません」
2階の窓から道路を見て待っていると、遠くでパトカーのサイレンが聞こえます。
「あ、来る来る」と、ホッ。
そのうちサイレンはしなくなってしまいました。
ここが判らないのかしら? 
それとも別の現場に向かうパトカーだったのか?
後で判ったのですが、事件の場合、現場近く5~600m辺りでサイレンを消すようです。

道路にパトカーが次々とやって来て、合計4台も。
バラバラッと警官が降りて来て、2階の窓から顔を出している私に向かい声を落として、
「門を開けてください」
「怖くて下に降りられない。塀を乗り越えてください」
作業服の警官が難なく乗り越え、今度は内玄関を叩きます。
「開けてくださーい」
ここまで来たら泥棒も観念するだろうと慌てて下に降り、玄関を開けました。
8、9人がどやどやっと上がってきて、ざっと1階を見回ったのですが何事もありません。
「何か変わったことありますか? 何か盗られていませんか?」
「ありません。ないと思います」
と言ったって、家の中は片づけの途中で雑然としているんですが。
いくつか会話があった後、
「ネズミはいませんか?」
「いえ、いままで一度も出たことありません」

「灯りを消してください」
1人の警官が床に張り付いて懐中電灯で斜めに照らし、土足で入った足跡を調べ始めました。
「あ、ある。波形の靴底の足跡がある」
「あ、それ、私のスリッパです」
そのうち点検していた1人の若い警官が言いました。
「この奥で、チューチュー言ってます」
「えっ? そ、そんな」
壁と壁の空洞の中、確かに小さな声で「チューチュー」
そのうちネズミが動くと、空洞なので音が反響し、
まるで人が歩いたり、何か物を開けたり動かしたりしている音に聞こえます。 

「す、すみませんでした」すっかり恐縮して詫びる私に、
「いえ、いいんですよ。市民の皆さんの不安なことに対処するのが警察の役目ですから。
これからも何かあったら連絡してください」
別の若い警官が挨拶し、全員が引き上げて行きました。
まだ性善説が通る日本とは対極の性悪説そのものの隣国に1年滞在したことのある私は、
威張り散らす公安の有り様をさんざん見ていました。
だからこのとき、改めて“日本のお巡りさんってほんとに素晴らしい”と実感。
ありがとう。ありがとう。

それにしてもあのリアルな音の怖さ、身が縮む思いでした。
それから連日、3:00過ぎになるとネズミは動き回り、慣れないこちらは目が覚めてしまいます。
しかたなく朝の4:00過ぎから整理、整理の肉体労働。
ネズミは昼間も元気に活動し、時には大きな声で「チューチュー」
ある夜はどこからか猫が入ったらしく、「ウーウー」「チューチュー」の合戦が。
殺鼠剤はまだ効果あがりません。
ネコ、頑張れ~!

この家、よくゴキブリが出たし、ムクドリが天井裏に巣を作ったことはあったのですが、
40年間一度もネズミの気配はなかったのです。
とんだネズミ騒動で、生まれて初めて110番する羽目に。
あぁ、また私の歴史にお馬鹿な出来事が追加されてしまった。

重労働、過密スケジュール、連日の睡眠不足、
蒸暑さと睡眠不足に弱い北国出身の相方は、気の毒に2度も熱中症にかかりそうになったのでした。

いやはや。

♪赤い靴ぅ~ 履いてたぁ~♪

2014-07-17 | できごと


今回のイタリア旅行でとても困った話です。
旅行に行く前日の日曜日の早朝、寝ぼけて右足の小指を思い切りドアにぶつけてしまいました。
あまりの痛さに、しばらく声が出ませんでした。
かなり出血があるので止血のために寝転がっていても、痛くてどうしようもありません。
30分ほどして起き上がってみたものの、スリッパさえ履けません。
あぁ、明日からどうなるのだろう。

午前9:00になるのを待ち、日曜担当医の元に駆けつけました。
先生は、小指にバンドエイドを貼り、小指の隣の指の2本をテーピングして、
化膿止めの抗生物質と痛み止めを5日間処方してくれました。

翌日からが、足の痛みと靴騒動の始まりでした。
2日目から抗生物質と痛み止めを飲み始めたのですが、
小指は赤紫に腫れ、心持ち足の甲も腫れています。
それでもなんとか、右足をかばいつつ履いていた黒い皮靴で歩いていました。
この靴はシューフィッターが念入りにインソールを作ってくれた靴で、
私の靴の中では一番楽な靴の1つでした。↓

後で判ったことですが、あまり右足をかばって歩くので、
ツァーのメンバーの皆さんは私のことを、膝の悪い人だと思っていらしたようです。
ローマ、ガゼルタ、ナポリと巡った3日め、
とうとうあまりの痛みに、その靴は履けなくなりました。

翌日からは、予備に持って行ったナイキのソフトシューズに履き替えました。
これは、ビーチなどで遊ぶときとか室内でいるときとかに、
裸足感覚で居られる楽ちんな軽い靴です。↓

4日目のメインであるポンペイの遺跡は、歩けないからパス。
(3年前のポンペイの遺跡見物も体調不良でパス。よほどこの遺跡には縁がないようです)
ところが頼みの楽ちんナイキ、
道を長く歩くためにできていない靴で石畳の道をあちこち歩いたため、6日めであえなく破損。
フィレンツェの町中で底の大半がパックンと剥がれ、歩くこともできません。

慌てて別行動にしてもらい、スニーカーを売っている靴屋さんに飛び込みました。
イタリアにはおしゃれなスニーカーを売っている店がたくさんあって、
つい最近、BSTVでまさにこの町フィレンツェを紹介していた塩見七生さんが、
黒とグレーのシックなロングドレスに白いスニーカーを履いていました。
その対照的な組み合わせの妙にすっかり魅せられ、
“なんておしゃれな人なんだろう”と思ったのを思い出します。
そういえば、そういう組み合わせのお洒落について、
西村玲子さんが新聞に書いていたこともありましたっけ。

さて靴選びの私、店内にはおしゃれなスニーカーがいっぱいあるのですが、
靴屋への往復時間も入れて3、40分で買わなければなりません。
焦りばかりが先に立って全く余裕がなく、
“負担がかからずに履ければ何でもいい”ただそれだけが頭を駆け巡っていました。
どんなに洒落ていても、ただ私の小指の腫れと傷を擦る悪者にしか見えず、
たった1つ見つけたソフトな靴が、真っ赤なバックスキンの靴です。
試しに履いてみるとまさに私のサイズだったらしく、ぴったり。
メーカーはイタリアのメーカー「GEOX(ジェオックス)」製で、サイズ37とありました。

店員さんに尋ねると、他にブルーもあると言います。
念のため「38はありますか?」と聞くと、
奥の棚を見てきて、「37だけよ」
「じゃ、ブルーを見せてください」
奥から戻った店員さん「これは赤だけで、37サイズだけしかなかったわ」
あったのは、私にぴったりのサイズの赤い靴だけということです。
「1つしかないから、30%offにするわね」
大小の穴があいているバックスキンで、ちょっとピンクが買った赤い靴、それが冒頭の靴です。

履いていた靴をすぐそれに履き替えて駆けるように早足でホテルに戻り、ようやく夕食にセーフ。
翌日からは赤い靴を履いた私、になりました。↓
 あぁ、私って足首が太くてや~ねぇ
こんな派手な赤い靴、こんなトラブルでもなければ生涯履くことがなかったことでしょう。
それを、この歳になって履くことになるとは・・・・!

ところがこの赤い靴の効果は抜群で、なんだか翌日から妙に心が浮き立つのです。
周囲から、可愛いだの、日本では見ない奇麗な赤だの、服と合っているだのと言われ(慰められ)、
足も心もすっかり軽くなったのです。
赤い靴効果は日本でも続き、自分でも予想外のご機嫌気分で履いていました。


ところが・・・、ところがです。
良いことばかりではなかった。
この赤い靴、GEOXと言えばかなり良い靴なのに、
履いて半月もしないうちにあちこち皮が破れてきたのです。
「これはだめですね。修理しようがありません」と靴修理店に言われ、
勧められるままに「GEOX JAPAN」に電話すると、
「バックスキンで穴あきがあるとは言え、そこまで弱いのは経年劣化が原因です。
アジアでGEOXを買っていらっしゃるお客様によくあることなんですが、
イタリアで買ったのなら、相当長く売れなかったとか・・・、とにかく原因は経年劣化ですね。
こればかりは、買ったお店に言っていただくしかありません」
そりゃ、そうよね。
それに、確かに売れ残りだった。
だけどいまさらフィレンツェでもないし、
たった半月足らずしか履けなったこの赤い靴も、まもなくサヨナラ。
根元から折れていた私の足の小指の爪も、もうすぐ脱落してサヨナラだそうです。

小さな爪と交換だったけど心浮き立って嬉しかったのに、うたかたの夢と消えた赤い靴。
かえすがえすも惜しかったなぁ~。
今度は自分の意思で、赤い靴買っちゃおうっと。

105×2=210歳のBIRTHDAY

2013-07-15 | できごと

ブログにはこだわりの物や好きなデザインなど、趣味的なことを書くことを主としていて、家族のことなど個人的なことは書かないことをモットーとしているのですが、今回ばかりはちょっと例外。
というのも、たぶんこんなことは私の人生で二度とないだろうと思う希有な集まりがあったからです。

私の父は明治41年生まれ、今日105歳になりました。
末っ子の私としては、思いがけない年齢まで親が健在という状況に恵まれたわけです。
よく言われることですが、やはり明治生まれは気骨といい身体といい出来が違うのでしょうか、
もうダメかという事態になってもみごと復活、またまた復活を遂げてきたのです。

とりあえず大きな例としては、もうすぐ103歳という2年前の4月末のことです。
肺炎と軽い脳梗塞と心不全を併発、どしゃぶりの嵐の中、救急車で緊急入院しました。
医師は父の年齢とレントゲンの結果を見て、これはもう無理だろうと告げました。
間の悪いことにすべてを取り仕切る兄は、翌日からアメリカ出張。
先方あっての仕事だし、航空券のこともあり、前夜に代役を頼むのは無理です。
で、医師と兄としばらく携帯でのやりとりがあり、迷った末に兄はアメリカに出かけていきました。
「僕が帰ってくるまで、火葬にしないでいてくれ」と言い残して。
「わかった! その場合は、ドライアイスでガンガン冷やしておくから大丈夫よ」と私。
ところが、父は3、4日もすると医師が驚くほど快復、
帰国した兄が拍子抜けするほどの元気さでした。

父はこの入院の前まで、自宅で一人暮らしをしていました。
とは言え、ほとんど一人になる時間がないよう家族やお手伝いの方が在宅し、
超高齢者の一人暮らしとしては万全の態勢をとっていたつもりです。
しかし103歳での入院生活は身体的にダメージが大きく、自宅に直行で帰るのは無理と判断、
それから紆余曲折があって、結局はそのまま施設暮らしとなりました。
ケアマネさんが紹介してくれた静岡市の新設ホームは、
設備もサービスもスタッフも大変良いところで、
介護スタッフの方々も看護師も相談員の方もとてもきめ細かく面倒を見てくれて、
環境にも恵まれました。

入所して1年ぐらい、父はコンピュータゲームをするわ、ワープロで文章を書くわ、読書三昧だわで、施設の方々は大変活発な超高齢者が入所してきたと驚かれていました。
1年もすると高齢者の健康状態の常で、活発な日と眠気が強い日の波があるものの、平穏な生活を送ってきたのです。
104歳になると眠る日の日数がやや増えていき、春を超えたころ眠る日が一段と増えました。
今年の3月、母の十三回忌の後、孫達が揃って挨拶に行くという矢先、
兄の携帯に父がインフルエンザA型に罹ったという報せが入り、面会は急遽中止となりました。
施設内では7人のインフルエンザ患者が出ましたが、90歳以上の罹患者3人のうち、
元通りに快復して施設に残ることができたのは父のみでした。
その後の穏やかな春も終わった5月末、施設側から呼び出しがあり、
「傾眠状態に入った」と告げられました。
傾眠とは「眠ることが極端に多くなり、周囲からの刺激があれば覚醒するがすぐに意識が混濁する状態」ということです。
そして、そのあとは・・・・。

胃瘻はもちろん、経鼻チューブ、できる限り点滴や酸素吸入もお断りし、延命措置は極力お断りして、自然に大往生をしてほしいというのが本人と家族全員の願いです。
人間らしく自然に逝かせてほしいという「看取り希望」を前々から施設に伝えてありました。
父は右脳に軽い脳梗塞も起こしているようで、左手の麻痺ほかいくつかの症状が見られました。
話しかけてもほんのちょっと覚醒するだけで、やっと返事をする程度。
そのうち眠気が強いため、食事(ペースト食)はおろか水分までも嚥下しにくくなり、
一日の水分摂取量も極端に減っていきました。
人は完全に水分を補給できなくなって、点滴をしないでいれば、約1週間で命が尽きます。

それからの1、2週間、父の食事や水分摂取量をにらみつつ、
通夜、告別式、精進落とし、お寺近くのホテル探しなど、てんてこ舞いの準備が始まりした。
父は生前戒名をつけていたのでお寺に連絡、僧侶の人数、客僧(お寺の住職以外に来ていただく僧侶)のお礼、お車代などを伺い、料理店にも予約の打診をしました。
親族は全員喪服や数珠などを準備、香典袋に香典を納め、さぁいつでもと備えたのです。
特に重い傾眠状態の日に行った私は、意識朦朧としている父の耳元で、
「お父さん、(亡くなった)お母さんによろしくね。
私は喘息で長生きできないと思うからまもなく行くからね」などと、別れの挨拶まですませました。
いやいや、喘息だからって、早く逝く気はぜんぜんないんですが・・・・。
それはとにかく、サッ、これですべてやることはやった。思い残すことはないわ。

ところが、ここでまた明治男は復活。
重い傾眠状態を脱し、急に元気になったのです。
とうてい7月は迎えられないと思っていたのが、介護スタッフと軽口を叩いて笑ったり、
すき焼き食べたい、とんかつを食べたい、お寿司を食べたいと、食への執着も驚くほど。
実際にはペースト食しか食べられないのですが、
牛肉は上等なところを一人150gにしてくれとか、細かな指示まで来ます。
そんな会話の最中に、スタッフが部屋を出入りしました。
すると、「あの人もここで食事するのかい?」
「そうよ、あの人はここで働いているんだからここで食べるのよ」
「じゃ、肉を一人分増やしてくれ」などとすっかり食べる気になっているのを見て、
複雑な思いと共に、いつまでも他の人への配慮を失わない父に感心しました。
そんなこんなでとうとう7月を迎え、
誕生日前でしたが7月6日、105歳の誕生日会をすることにしました。


105歳のお年寄りの誕生日会なら日本全国いくつも行われていることでしょう。
しかし冒頭で希有な例と書いたのは、
もうひとり榛原旧制中学(島田の高校)時代の仲の良い同級生がいて、
彼も静岡市に住んでいることから、二人で一緒に誕生祝いをやったのです。
それも、同級生の元気者がいるのを知っている施設側から、このような会を提案してくれたのです。
それがまたとても思いがけず嬉しいことでした。
105歳の同級生が一緒に誕生日会をやることができるなんて、
日本広しと言えど、そうそうあるものではありません。
粋な提案じゃありませんか! 
当日はペースト食しか食べられない父のために、
厨房がレアチーズの特製バーツデーケーキをプレゼントしてくれました。
施設のメインスタッフも参加してくれて、♪HAPPY BIRTHDAY♪を歌ってくれて、
105歳のふたりを祝う楽しい会となりました。

耳が遠い二人が部屋の向こうの方にいるのをいいことに、
私と兄はスタッフに「まさか、こんな日を迎えられるとは思わなかった」
誰もが実感し、命の不思議を痛感した集まりでした。
 
そして今日7月15日、父はめでたく満105歳となりました。


12歳の赤ワイン体験

2012-02-20 | できごと


生まれて初めてワインを飲んだのは、12歳になったばかりのときでした。
なにッ? 12歳でワインを飲んだって? と、目くじらを立てないでください。
だってそれは、私が知らないうちの出来事だったんですから。

早生まれだった私は、12歳になるとすぐ中学に入学しました。
カソリック系中高一貫進学校、厳しい校則にがんじがらめの女子校でくそまじめな6年間。
いまにして思えば貴重な思春期を、あぁ、もったいない。
教師の何人かは修道女で、
なかでもアイルランド人修道女の英語の授業はとりわけ厳しく、
鉛筆で机をバンバン叩きながら生徒の発音を直しては、
No! No! ノ~ッ!」と叫ぶ姿に縮み上がっていました。

生まれて初めてワインを飲むことになったのは、その厳しい学校でのこと。
入学後まもなく、講堂でミサがありました。
ミサは、パンとワインを使って行うカソリックの最も重要な儀式です。
おごそかな儀式は延々1時間以上続き、
訳もわからない儀式に、新入生は緊張したものです。
祭壇には神父と、その補佐役に男性教師が2人。
男性教師2人はカソリック信者で、ミサの進行を手際良く補佐します。
その間私たち生徒は、神父の所作や教師が振る鈴の音に合わせて、立ったり座ったりひざまずいたり。
お祈りをしたり、賛美歌を歌ったり、進行をじっと見ていたり。
何が何だか解らないまま儀式は進んでいきます。
座ったかとまた起立、かと思うとひざまずいて祈り、次は立って歌い・・・・の繰り返し。

しばらく立っていたときのことです。
前方遠くに見える明るい祭壇が次第に暗くなってきました。
祭壇付近の空間にはあちこちに花火がパチパチと上がり、あれれ? これは・・・?
そこで、私は倒れたのです。
どうやって運ばれたのか、気づいたら講堂の隣にある修道院の一室で横になっています。
しばらくすると、修道女が赤い飲みものが入ったグラスを持ってやってきました。
促されるままに飲むと、美味しくもないし、まずくもない、ふしぎな味でした。

中・高校の6年間、数十回のミサを経るうち、
緊張で気を失うこともなくなり、それは退屈な時間となっていきました。
そして、変な味の赤い飲みもののことも忘れてしまいました。

カソリックのミサでは、神父が信者にキリストの血を意味するワインと、
肉を意味するパンを食べさせます。
それを「聖体拝領」といい、
信者が口にすることによってその人間の罪が贖(あがな)われるという儀式です。
ミサのとき、信者である大勢の生徒達は白いベールを被り、
順次祭壇に登って神父からワインに浸したパンを口に入れてもらいます。
信者でない大半の生徒は、延々と続く長い行列を見守るだけ。

というわけで、カソリック教会や修道院にワインは必需品。
気付け薬に赤ワインというのは、いまにして思えば当然の成り行きですね。
だって、ワインというのは昔から気付け薬として使われていたのですから。
手当の相手はたった12歳ではありましたが、あの修道女の処方は正しかった。

あれは紛れもない赤ワインだったのだと気づいたのは、ずっと後のことです。
当時の庶民にとってワインと言えば、サントリーの「赤ポートワイン」ぐらいのもの。
赤玉ポートワインは、「赤玉スイートワイン」とも呼ばれた甘い甘いワイン。
いわば梅酒のような甘い飲みものです。
ワインが一般に広く浸透するようになるのはもっと後のことですが、
その後、私も大人になって赤ワインを飲み、
修道院の一室で飲んだ赤い液体のことを思い出しました。

気付け薬と言えば、
プッチーニの歌劇 『ラ・ボエーム』 に、こんなくだりがあります。
「胸の病を持つ彼女は、階段を上がって来ただけで、息が切れてしまい軽いめまいを起こす。
ロドルフォは彼女を椅子にかけさせて、気付け薬にワインを飲ませて、
その美しい横顔に改めて惹きつけられる。」

私の横顔が美しいとは言わないけれど、あの頃の私ってなんてか弱い少女だったんでしょう。
いまではキャンティクラシッコが好きな、逞しい女性ですわ~。

トーリの森~ふしぎな、ふしぎな帽子展

2012-02-02 | できごと


昨日、「トーリの森 冬の帽子展」へ行ってきました。
下北沢駅から徒歩4分という便利なところでした。

私は可愛いものやメルヘン系のものは全然似合わないし、好みでもないのですが、
不思議な魅力がある知人女性が何回か開いている帽子展なので、
一度ぜひ行ってみたいと思っていたわけです。
そんなわけで、彼女が作る帽子ってどういうものかという程度の興味だったんですが、
何とまぁ、楽しくてふしぎな帽子達がいっぱいだったこと!

帽子の制作者はかなりの癒やし系ですが、この日一緒に行った女性も癒やし系。
癒し系たちとふしぎな帽子を見ておしゃべりするひとときって、なぜあんなに楽しんでしょう。
どう見ても癒し系とは言えない私は、ひとり引け目を感じてしまうのでした。

肝心の帽子はというと、
「どうしてこうなるの?」の連続でした。
つまり・・・・、
どこをどう辿ったら、こういう発想の帽子が出てくるのか?
─── これは思考回路の問題
どうしたら、こんな形を作ることができるのか?
─── これはテクニックの問題 
とまぁ、形も発想もふしぎに思う帽子がいっぱいです。
ちょっと異世界というんでしょうか。
もちろん被りやすいフツーの帽子もあって、
私がこれならとkeepしたのは、この帽子展では異色的存在の平凡な帽子でした。

ところで、製作者のMakiさんは何もかもふんわり受け入れてしまう人です。
会った人はいつのまにMakiワールドに入ってしまう、そんな魅力の持ち主。
しかも明るいから、会っているだけで楽しくなる。
ちょっと誉めすぎかな? 
ま、とにもかくにも、希有なタイプです。
そういう彼女が作る帽子はと言えば、まさに人柄そのもの、
可愛いものメルヘン系とは対極が好みの私でさえ、思わず引き寄せられてしまうのですから。

まずは、その帽子をお見せしましょう。


とりわけ造形的に面白いのは、こちら↑
ハチャメチャの継ぎ接ぎ構造のため、帽子のトップはとてもつもなく変形しているのですが、
それでいてトップとしては意外性ある直線が、却って面白い立体を作り上げています。
それにしてもねぇ、なんでこういう形を考えたのでしょう。
その発想もちょっと異才という感じでしょうか。
一つ間違えば異才でなく、箸にも棒にもかからない帽子となるのですが、
そうならないのは、遊んでいるようで、しっかり実用の最低ラインは外さないところでしょう。
布地の選び方もいいですね。
ちょっと被って歩きたい気がしますが、私のファッションでは帽子が浮いてしまう。


次に注目したのは、左のベレー↑
作者は、「絵を描くような感じで♪ 作ってみましたぁ~♪」とか。
私は、ある程度の幅広ブリムがないと似合わないんです。
ベレー帽の似合う人って素敵ですね。
こんなベレー持っていたら、ちょっと得意になるかもしれない。

まだまだ面白い発想の帽子がいっぱいあるのですが、画像がなくて残念。
どうも実用的なものを中心に撮ってしまったようです。

例えば、白鳥が長く首を伸ばしている帽子や、
ベレーに長細~い手が付いていて、そのあちこちになぜかぬいぐるみのプリンが付いている帽子。
その手は首に巻いてマフラーもどきにするんだそうです。
更にその手の先にはスナップが付いていて、同じタイプの他のベレー帽の手と繋がるようになっています。
人と人との繋がりを意識した「プリン帽」だということですが・・・・。
??? なぜプリン? 
製作者は「プリン同盟」とか何とか言ってましたっけ。
説明を聞きながら、クスッとしてしまいます。
とりあえずその場の3人で被って繋がり、にっこりしてみました。
その他、小さな鳥、彫金のペンダントトップ、ブローチなどもあります。

この不思議な帽子と、ホンワカ楽しい製作者に会いたい方は、
「トーリの森 冬の帽子展」 2月1日~6まで

東京都世田谷区北沢3-34-3 Kasutela
アクセス/小田急線または井の頭線「下北沢」下車 徒歩4分
     「下北沢」西口を出て、駅前の道を線路を背にしてまっすぐ4分歩きます。
     初めての信号を右に曲がって10m。kasutela(カステラ)


風神雷神を見に行く

2012-01-02 | できごと




1月2日~15日までの間だけ公開される、風神雷神の特別展示を東京国立博物館(トーハク)に見にいきました。
正面玄関外側や館内フロアには迫力ある巨大な春の活け花が随所に飾られ、
いつもは地味な建物が正月らしい晴れやかな雰囲気です。
トーハクは明治5年創設で、帝室博物館と呼ばれ宮内庁管理だったそうですが、関東大震災で倒壊したため、
現在の本館は昭和13年に再開館された建物だそうです。
昭和初期に流行した洋風の建物に和風の屋根が載った和洋折衷様式です。

さて、本館は正月特別展示が数多くあり、教科書でしか見たことがない美術品が勢揃い。
とは言っても、トーハクの収蔵品はなんと9万点というから、
点ほどもない一部に過ぎませんが。
あれもこれもと感激しつつ見ていくわけですが、いくら行っても肝心の尾風神雷神には辿り着きません。
学芸員に尋ねること4、5回、ようやく前に立ったときは2時間近く経過していました。

作者はあの「八橋蒔絵螺鈿硯箱」の尾形光琳。
みなぎる筋肉、躍動感ある激しい動き、風が巻き上げる布帯の流れ。
たらし込みで描かれたという黒雲が平板な金箔の背景に効果的な立体感を与えています。
風神雷神と言えばなんと言っても俵屋宗達ですが、
その風神雷神を忠実に模写し新感覚を吹き込んだのが尾形光琳のそれで、この背景の雲が大きく違うのだそうです。
他にも、色を変えたり、配置の位置をずらしたりの違いがあります。
以前、京都国立博物館で俵屋宗達の風神雷神を見たことがありましたが、光琳よりちょっと古風。
どちらかというと、現代ふう光琳の風神雷神よりも、宗達の方が好みかな。
とまぁ、正月早々、風神雷神をたっぷり堪能しました。
そのほか、古今和歌集の元本、一休宗純(一休さん)の書、北斎の冨嶽三十六景・凱風快晴などなど。
国宝級、重文級を始めとする書画や金工、仮面、漆工、陶芸、着物など、
満艦飾、盛りたくさんの展示に驚きました。
隣の平成館では、縄文までの土偶、弥生以降の埴輪、銅鐸、土器などを見学。
これまた教科書の日本史の始め辺りで見たものばかりです。
当然ではありますが、素朴な造形の味わい深さと力強さは圧倒的迫力です。

正月は特別展示があるから、トーハクは見所いっぱい。
これからは正月の定例になりそうなぐらい、やみつきになりそうです。
ところで知らなかったのですが、トーハクって撮影可なのね。
カメラマークに×印の展示品以外は、皆さんバシバシ写真撮っていました。
もちろんフラッシュは使わない。
で、カメラ持参だった私もお気に入りをパチリ。

猿の土偶。
いつまで見ても飽きない愛らしさと、極限ともいえるシンプルな形に強く惹かれました。
背中に小猿を負ぶっていたらしい痕跡があります。


書画、陶磁器、衣裳、彫刻、金工など、龍年に因んで龍オンパレードでした。


トーハクを出て、上野駅隣接の「バニュルス」というスペインバルで、ワイン付き昼食。
前から聞き及んでいた店なのですが、ほんとにおいしい。
上野に来るときの楽しみが増えました。

素晴らしい美術品を堪能した、楽しい一日でした。