あみたろう徒然小箱

お気に入りのモノに囲まれ、
顔のつぶれたキジ猫と暮らせば、あぁ、極楽、極楽♪

105×2=210歳のBIRTHDAY

2013-07-15 | できごと

ブログにはこだわりの物や好きなデザインなど、趣味的なことを書くことを主としていて、家族のことなど個人的なことは書かないことをモットーとしているのですが、今回ばかりはちょっと例外。
というのも、たぶんこんなことは私の人生で二度とないだろうと思う希有な集まりがあったからです。

私の父は明治41年生まれ、今日105歳になりました。
末っ子の私としては、思いがけない年齢まで親が健在という状況に恵まれたわけです。
よく言われることですが、やはり明治生まれは気骨といい身体といい出来が違うのでしょうか、
もうダメかという事態になってもみごと復活、またまた復活を遂げてきたのです。

とりあえず大きな例としては、もうすぐ103歳という2年前の4月末のことです。
肺炎と軽い脳梗塞と心不全を併発、どしゃぶりの嵐の中、救急車で緊急入院しました。
医師は父の年齢とレントゲンの結果を見て、これはもう無理だろうと告げました。
間の悪いことにすべてを取り仕切る兄は、翌日からアメリカ出張。
先方あっての仕事だし、航空券のこともあり、前夜に代役を頼むのは無理です。
で、医師と兄としばらく携帯でのやりとりがあり、迷った末に兄はアメリカに出かけていきました。
「僕が帰ってくるまで、火葬にしないでいてくれ」と言い残して。
「わかった! その場合は、ドライアイスでガンガン冷やしておくから大丈夫よ」と私。
ところが、父は3、4日もすると医師が驚くほど快復、
帰国した兄が拍子抜けするほどの元気さでした。

父はこの入院の前まで、自宅で一人暮らしをしていました。
とは言え、ほとんど一人になる時間がないよう家族やお手伝いの方が在宅し、
超高齢者の一人暮らしとしては万全の態勢をとっていたつもりです。
しかし103歳での入院生活は身体的にダメージが大きく、自宅に直行で帰るのは無理と判断、
それから紆余曲折があって、結局はそのまま施設暮らしとなりました。
ケアマネさんが紹介してくれた静岡市の新設ホームは、
設備もサービスもスタッフも大変良いところで、
介護スタッフの方々も看護師も相談員の方もとてもきめ細かく面倒を見てくれて、
環境にも恵まれました。

入所して1年ぐらい、父はコンピュータゲームをするわ、ワープロで文章を書くわ、読書三昧だわで、施設の方々は大変活発な超高齢者が入所してきたと驚かれていました。
1年もすると高齢者の健康状態の常で、活発な日と眠気が強い日の波があるものの、平穏な生活を送ってきたのです。
104歳になると眠る日の日数がやや増えていき、春を超えたころ眠る日が一段と増えました。
今年の3月、母の十三回忌の後、孫達が揃って挨拶に行くという矢先、
兄の携帯に父がインフルエンザA型に罹ったという報せが入り、面会は急遽中止となりました。
施設内では7人のインフルエンザ患者が出ましたが、90歳以上の罹患者3人のうち、
元通りに快復して施設に残ることができたのは父のみでした。
その後の穏やかな春も終わった5月末、施設側から呼び出しがあり、
「傾眠状態に入った」と告げられました。
傾眠とは「眠ることが極端に多くなり、周囲からの刺激があれば覚醒するがすぐに意識が混濁する状態」ということです。
そして、そのあとは・・・・。

胃瘻はもちろん、経鼻チューブ、できる限り点滴や酸素吸入もお断りし、延命措置は極力お断りして、自然に大往生をしてほしいというのが本人と家族全員の願いです。
人間らしく自然に逝かせてほしいという「看取り希望」を前々から施設に伝えてありました。
父は右脳に軽い脳梗塞も起こしているようで、左手の麻痺ほかいくつかの症状が見られました。
話しかけてもほんのちょっと覚醒するだけで、やっと返事をする程度。
そのうち眠気が強いため、食事(ペースト食)はおろか水分までも嚥下しにくくなり、
一日の水分摂取量も極端に減っていきました。
人は完全に水分を補給できなくなって、点滴をしないでいれば、約1週間で命が尽きます。

それからの1、2週間、父の食事や水分摂取量をにらみつつ、
通夜、告別式、精進落とし、お寺近くのホテル探しなど、てんてこ舞いの準備が始まりした。
父は生前戒名をつけていたのでお寺に連絡、僧侶の人数、客僧(お寺の住職以外に来ていただく僧侶)のお礼、お車代などを伺い、料理店にも予約の打診をしました。
親族は全員喪服や数珠などを準備、香典袋に香典を納め、さぁいつでもと備えたのです。
特に重い傾眠状態の日に行った私は、意識朦朧としている父の耳元で、
「お父さん、(亡くなった)お母さんによろしくね。
私は喘息で長生きできないと思うからまもなく行くからね」などと、別れの挨拶まですませました。
いやいや、喘息だからって、早く逝く気はぜんぜんないんですが・・・・。
それはとにかく、サッ、これですべてやることはやった。思い残すことはないわ。

ところが、ここでまた明治男は復活。
重い傾眠状態を脱し、急に元気になったのです。
とうてい7月は迎えられないと思っていたのが、介護スタッフと軽口を叩いて笑ったり、
すき焼き食べたい、とんかつを食べたい、お寿司を食べたいと、食への執着も驚くほど。
実際にはペースト食しか食べられないのですが、
牛肉は上等なところを一人150gにしてくれとか、細かな指示まで来ます。
そんな会話の最中に、スタッフが部屋を出入りしました。
すると、「あの人もここで食事するのかい?」
「そうよ、あの人はここで働いているんだからここで食べるのよ」
「じゃ、肉を一人分増やしてくれ」などとすっかり食べる気になっているのを見て、
複雑な思いと共に、いつまでも他の人への配慮を失わない父に感心しました。
そんなこんなでとうとう7月を迎え、
誕生日前でしたが7月6日、105歳の誕生日会をすることにしました。


105歳のお年寄りの誕生日会なら日本全国いくつも行われていることでしょう。
しかし冒頭で希有な例と書いたのは、
もうひとり榛原旧制中学(島田の高校)時代の仲の良い同級生がいて、
彼も静岡市に住んでいることから、二人で一緒に誕生祝いをやったのです。
それも、同級生の元気者がいるのを知っている施設側から、このような会を提案してくれたのです。
それがまたとても思いがけず嬉しいことでした。
105歳の同級生が一緒に誕生日会をやることができるなんて、
日本広しと言えど、そうそうあるものではありません。
粋な提案じゃありませんか! 
当日はペースト食しか食べられない父のために、
厨房がレアチーズの特製バーツデーケーキをプレゼントしてくれました。
施設のメインスタッフも参加してくれて、♪HAPPY BIRTHDAY♪を歌ってくれて、
105歳のふたりを祝う楽しい会となりました。

耳が遠い二人が部屋の向こうの方にいるのをいいことに、
私と兄はスタッフに「まさか、こんな日を迎えられるとは思わなかった」
誰もが実感し、命の不思議を痛感した集まりでした。
 
そして今日7月15日、父はめでたく満105歳となりました。


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