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あみたろう徒然小箱

お気に入りのモノに囲まれ、
顔のつぶれたキジ猫と暮らせば、あぁ、極楽、極楽♪

何でも食べちゃう中国の食文化

2020-04-06 | 少数民族あれこれ
世の中はすっかり新型コロナウィルスの話題一色になってしまいました。
SARSにしても新型コロナウィルスにしても、発生源は中国とか。
そうなんでしょうか? 
「はい、・・・そうだと思います」
中国の田舎都市に住んだことがある身としては、
あの清潔感のなさというか不潔な実生活、
ゲテモノでもどんどん食べる食に対する貪欲さを身に浸みて感じました。
漢方にもなるからだということでもあるそうですが、
それとは別に“美味しいから食べるのだ”という理由も大いにあるのだとか。

こんなふうに書くと、中国嫌いかと思われてしまいそうですが、
私の場合、中国に関してはそれほど単純ではありません。
中国南西部の辺境地の少数民族調査に関わってきたからか、
ガスも水道も電気もない少数民族は、どちらかというと、
明治時代や江戸時代の田舎に住んでいただろう純朴な日本の庶民のようでした。
しかし、中国の少数民族に圧倒的な優位を感じている漢民族は、
私の嫌いな中国人の特質をより多く持っているように思います。
その典型的なものが、
「相手が気づかないうちにだまして金もうけをしてしまおう」というもの。
初めて中国に足を踏み入れたとき、私たちは散々その対象とされました。
のちのち「どっこいそうはさせないぞっ!」と息巻いた私、
目端が鋭くなっていたのか、
姉から、「あなた、何だか最近顔つきが下品になってきたわね」と言われ、
人の性行というのは自ずと顔つきに出てくるものなのだと悟って、しょんぼりしたのでした。

私は中国人を、どちらかというと純朴な少数民族と
主に都市に住む漢民族とに分けて考えています。
「向銭(シアン チエン:お金に向かう)」という大のお金好き、
お金を儲けた者が成功者という都市の漢民族の考え方が特に目立ちます。
もちろん日本人だってお金は好きなんですが、それを前面に出すほどはしたなくはない。
「武士は食わねど高楊枝」というように、
それを前面に出すぐらいなら恥じて死んだ方がまし。
そんなふうな武士道の精神が多少とも底辺に残っているのではないでしょうか。
日本人は人としての矜持を持てば「向銭」は絶対にプライドが許さないのです。

新型コロナの話に戻りますと、
中国人のゲテモノでも何でも食べてしまう食に対する貪欲さは、
漢民族のみならず、辺境地の少数民族にも感じました。
中国人の食について、
「四つ足で食べない物は机と椅子だけ、
二本足で食べない物は両親だけ、
空を飛ぶ物で食べないのは飛行機だけ、
水中に居る物で食べないのは潜水艦だけ」という言い方があるそうですが、
これは中国人全般に対してではなくて、他省の人が広東省の人に対して言う言葉だとか。
そんなことを言ったら広東人が怒りそうですが、
広東ではサルの脳みそを食べるのだとか、中国に居るときはいろいろ聞きましたっけ。

辺境地に少数民族を訪ねると、
地元の政府の役人方が村に入る前に町でちょっとした宴会を設けてくれました。
そしてそれを機会に地元の知り合いが押し寄せて皆で食べるのです。
主客である私たちは「あの人だ~れ?」状態。
そんなときとっておきの大ごちそうをしてくれるのですが、
だいたいの場合見たこともない動物や生きものの料理が必ず混じっていました。

これらは住んでいた雲南省昆明市(省都)の花鳥市場に行くと、必ず見かけた食用の野生猫。
たっぷり肉を与えられているかと思えば、片や水だけを与えられていました。
翌日行くと、売れてしまったのか檻の中は空でした。
こんなんじゃぁ、新型コロナウィルスもSARSも始まるでしょう!!
特にタンパク質系の食物に対して非常に貪欲です。
たっぷりの肉を与えられた若い野猫
水だけ与えられたしょんぼり野猫

雲南省南西部の端にある西盟(シーモン)はワ族の居住地。
これは神話を語ってくれたときのワ族の首長夫婦です。
西盟は特別に太陽光が強いので、一様に真っ黒に焼けています。
神話を語るときは必ず頭にターバンを巻き、このような手つきを上下しつつ語り歌います。
首長夫婦の高床式の家、
屋根の裏側には狩った動物の頭蓋骨がたくさん飾られていました。
  (『西盟ワ族民間舞踏』より転載) 
ワ族はかつて首刈り族として有名で、人の頭蓋骨も飾っていたのだとか。
しかしワ族を擁護して言うなら、ワ族の首刈りはただ残酷というわけではなく、
民族の文化として行ってきたものです。
狩った(人の)首を杭の上に載せ、
杭の下に灰を置き首から垂れた血を米の種に混ぜて植えるとよく実るとか、
血の浸み方で五穀豊穣を占うというものでした。
  

西盟近くの市場で、つがいの鶏が売られていました。
ちょっと狭いけれど、なかなか素敵な籠です。
女性達が売る漬物はどれも真っ赤。
さすが辛いもの大好きな雲南省の食べ物です。
 

西盟の宴会で出してくれた大ごちそうがこちら。
竹虫の炒め物、黒蛇のスープ、うさぎ肉の炒め物。
黒蛇にはたっぷりのウロコがついていました。
竹虫は油で揚げてあるのでナッツのようで美味しかったのですが、
なんと言っても見た目が・・・。
別の西盟の宴会ではリスの干物が出てきました。
ワ族はネズミをよく食べるということで、
ネズミの味は苦いと散々脅かされたので恐れていたのですが、
出てきたのはリスの干物でした。
リスの手がそのまま付いていて、こちらは食べられませんでした。
  蛇にはたっぷりのウロコ 
竹虫は見た目が・・・
 リスの干物



忘れられない人々〔お年寄り篇7〕 創世神話と鍼治療

2018-06-05 | 少数民族あれこれ
柱にしがみついて鍼治療に耐えるお婆さん

ハニ族は稲作がさかんな民族で、もの静かで穏やかな性格の人が多く、どちらかというと日本人には親近感が湧く人たちのような気がします。ごく個人的な印象かもしれませんが、私はハニ族と接しているとなんとなく安心感を感じることが多かったように思います。
一方、首刈り族で有名なワ族の場合は、少数民族の村ではふだん屈託ない子供たちでさえ、じっとこちらを見据えて何を考えているか不安になることがありましたし、もっとも勇壮で戦いに強いといわれるミャオ族の子供たちも気が許せませんでした。
その点、中国のハニ族((=タイでのアカ族)は大人も子供も友好的でホッとする穏やかさをもつ人たちだったと思います。

そのハニ族が住む哈尼田(ハニティエン)村の歌い手(語り部)に、自宅の庭先で創世神話と父子連名を歌ってもらいました。
父子連名とは父親の名前の一部をとってその子供(男子)に命名する方法で、父子の関係を明らかに示す命名法です。これは男系社会である漢民族の影響で、母系社会の少数民族には見られないということです。いまの自分の名前から始まって、父親、祖父、曾祖父、と次々と先祖の名を連ねていきます。
創世神話や父子連名は、結婚式、葬式、祭など行事の時に歌う(唱える)ものですから、歌声を聞きつけ、こんなふつうの日にどうしたのだろうと思ったのでしょう、周囲には次々村人が集まって来て、静かに聞き入っています。
ハニ族以外の少数民族の村でも、老人、大人はもちろん子供たちまでもが創世神話や父子連名、歌垣などに熱心に耳を傾ける光景をよく見ます。こうして民族独特の伝統や習俗は受け継がれ、語り継がれてきたのです。
しかし村に電気が引かれ、テレビが入り、携帯電話が普及し始めて、生活の多様化が進むと、こうした習俗は当面の暮らしの必需品ではなくなり、あっというまに消えていきます。歌を掛け合って恋愛の相手を見つけなくても、町に行けば若者たちがいて、携帯電話の番号を交換すれば、簡単に付き合いを始めることができます。

庭先に集まっていた村人たちの中に、歌が終わるのをじっと待っていたお婆さんがいました。父子連名が終わったあと歌い手に何か言うと、彼は胸ポケットにあった小さな包みを開け一本の針を取り出し老婆のくるぶしに突き刺しました。そばにあった柱にしがみつき、恐怖と痛みを乗り越えようとするお婆さん。思わずこちらまでハラハラして力が入ってしまいました。
針を抜いた後、お婆さんは葉の付いた小枝で傷口を叩き、出血を促しています。葉の付いた小枝は何の木でもよいのでしょうか。その点を聞き落としてしまいました。
農作業の際に鍬を足に当ててしまい、腫れてしまったくるぶしの悪い血を出して、痛みを取る
のだと言います。

創世神話や父子連名の歌い手は、村の民間治療師でもあったのです。 
                             (1996年2月 ハニ族)

 

忘れられない人々〔露天商6〕 歩道のニンニク屋

2018-05-23 | 少数民族あれこれ


ちょっと見ると短いほうきを売ったいるかのよう。
しかしよくよく見ると、ほうきの先にはニンニクの玉が付いているのが判ります。
ニンニクの茎をしっかり一つにまとめ、根元をほうきのようにまとめ、
さらに一つの束をそれぞれ編み込んでまとめて持ちやすいようにしています。
一束はニンニクの大束が4個近くあり、かなりの数のニンニクだと判ります。
1、2個ずつ買う日本の買い方とは規模が違うのです。

北京、上海、広東料理などには、
どれにもどっさりニンニクが入っているわけではありませんが、
雲南、貴州、湖南省など中国南部の料理には、
これでもかというほどニンニクと唐辛子が入っています。
食堂の軒下は、干した唐辛子すだれで真っ赤に染められていますし、
店先には籠に入れた唐辛子がどっさり。

ニンニクはまな板にのせて包丁の腹でたたきつぶし、
まず中華鍋の油の中に入れ、香りを出したら唐辛子をドカン。
火力が強いから辛い空気となって厨房から食堂に襲ってきて、
気管支が弱い私は、苦しくて咳き込むこともできないほどつらかった。
昆明の宿舎にいても、ほかの部屋が料理を作り始めると、
その辛い空気がダクトを通ってうちの部屋に押し寄せてきます。
“ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ”
こ、呼吸がで・き・な・い。
食堂はもちろん、家庭人も唐辛子とニンニクを山ほど使うのが普通です。
ニンニクは我慢できても、辛い空気は気管支に入り込むと堪えられません。
中国滞在中の食事どきは、唐辛子粒子入りの辛い空気に苦しめられた日々でした。
夕食どきになると、他室の辛い空気がこっちの部屋にやって来る前に、
台所の換気扇を回して窓を全開にする、これが最低限の対策でした。

町や田舎の食堂に行くと、まず厨房に行き、
「不要味精、不要辛椒、油少一児」と言います。
つまり「味の素は要らない、唐辛子は要らない、油は少し使って」と。
「それじゃ、料理を作れないよ」と言われたこともあります。
雲南では、食材がお皿の油の中で泳ぐように大量の油を使うことはしょっちゅうでしたから。
さて、先の注文を出したあと、
出てきた料理には、直径20センチぐらいの皿に13本の唐辛子、
白い潰しニンニクがどっさり。
結局、何も変わっていなかったのです。
雲南の料理人にとっては、
炒め物にニンニク、油、唐辛子を大量に使わないなんてこと、あり得ないのでした。


昆明から大理への街道筋の食堂。中庭の軒下は赤い唐辛子で真っ赤。これだけ干せばおみごと!


ペー族の祭りラオサンリン。皆、食材を持ち鍋釜付きでやってくる。
中華鍋で煮炊きをしていた老婆は、この鍋に袋いっぱいの唐辛子を投入した。“おぉ、辛い!”



民家の軒下に籠に入れ干してあった唐辛子

忘れられない人々〔露天商4〕 道ばたのバケツ売り

2018-05-07 | 少数民族あれこれ

宿舎の窓の下に店を広げる露天。空を見上げているのは、雨が降ったらすぐに店仕舞いしなければならない露天商の宿命? これだけをさっと片づけるのは大変だ

たった一年の貴重な雲南省滞在でした。
相方の調査の対象である「創世神話」、「歌垣(歌掛け)」は、
時代の趨勢で変化消えつつあると、現地に行くごとに痛感しました。
では何故もっと早く調査に行かなかったのかと言えば、
1966~1969年の文化大革命の影響でそれらの伝統文化は壊され、
その後1989年の天安門事件があり、非常にナーバスになっていた中国政府は、
外国人が入ることができる地域を厳しく制限していました。
その影響がやや緩んできた頃の、1995~96年の滞在でした。
(それら文化の存続が風前の灯火と知ったので、帰国後も頻繁に現地に出向きました)

現地に行くごとに、私達は調査としてはぎりぎりのタイミングだと痛感しました。
これより遅ければどんどん崩れていく。
早ければ外国人が少数民族の居住地域に入ることができない。
しかし天安門事件によるイメージダウンがあまりに大きかったため、
中国政府は外国へのイメージアップを計りつつあり、
少しずつ外国人が入ることができる地域が拡大していました。
いまを逃してはならじ。
とは言っても、このきわどいタイミングはあとから知ったのでした。
1995年から1年滞在したのは、特にここをと希望したわけではなく、
相方の勤務先の都合で急遽出発となったもので、思いがけない偶然でした。
何しろ中国政府の方針の変化など、
日本にいる私達庶民には知るよしもなかったのですから。

雲南に入ってからいま調査することの貴重さを知った私達は、
月に1、2回のハイペースで、機材を背負って辺境地区に調査に出かけました。
旅の長さは5日から1か月と様々でしたから、長いときは月の半分宿舎にいることも。
次々集まるデータ等の整理やテープ起こしなどをしていました。
宿舎は雲南大学の教員用宿舎で、北向きの小さな窓からは路地裏通りが眺められ、
根を詰めた整理作業の合間にボゥ~ッと通りを眺めるのが好きでした。
雲南省の省都(日本でいえば県庁所在地)とは言え昆明市は、
北京、上海、深セン(土ヘンに川)などの大都市から比べようもないほどの田舎都市です。
中国の都会に興味がない私は、
この田舎都市の人々のくったくのないのどかな生活を観察するのが大好きでした。

宿舎の窓からときどき見えたのが冒頭画像のバケツ売りのお兄さん2人。
赤いプラスティックのバケツや洗面器などを大量に道に並べて売っています。
めったにお客が来ないから、いつもこんなふうにとても退屈そう。
大きな洗面器は使い道によっては洗濯たらいにもなるし、
食堂では下処理した材料を入れておく容器だったり、何にでも使える便利もなのです。
食堂の調理場に入ると、大きな洗面器に大量の料理や下処理野菜が盛られていました。
ハンガーは針金にビニールを巻いた時代が過ぎゆくときで、
色がきれいで丈夫なプラスティック製が全盛。
右の方のバケツの上には名残の針金ビニール巻もチラホラ。

   
ボールは直径20㎝の小型。平お玉同様、いまでもうちで大活躍している

私が最も気に入って日本の友人たちにも持ち帰ったのは、
上画像のホーロー製の小さめのボールでした。
ホーローは金属にガラス質の釉薬を高温で焼き付けたもので、
ぶつけたり落としたりの大きな衝撃を与えると、
ガラス質が欠けて下の金属地が出てしまいます。
するとそこからいずれ錆びてしまう。
日本でも昭和2、30年代に多くのホーロー製品が見られたように思います。
日本のは真っ白に赤または紺色の縁取りがあるだけだったと思いますが、
この当時の中国製には花柄や縁取り模様があって、何とも可愛くて楽しいのです。
私は22年経ったいまでもこのホーローボールをたいせつに使っていますから、
この通りキズや欠けが一つもありません。
もう一つ大事に持ち帰ったのが平たいお玉で、
これは汁の多いおかずなどを取り分けるのにとても重宝。
日本には未だなかったのでいくつか購入しました。
汁あり、タレあり、とろみあり、バラエティ豊かな中華料理を盛るにはとても便利ですから、
たぶん日本より先に商品開発されたのだと思います。

ホーロー製品は道端の露天などにはなく、
台所用品中心のちゃんとした構えの店先にありましたから、
プラスティックのボールよりはずっと値の張るものでした。
しかしそのホーロー製品もそのうちステンレスに取って代わり、
田舎の雑貨店の片隅などに売れ残りが肩身狭く並んでいる程度でした。
調査に行く辺境地で時代遅れになりつつあるホーローボールを見つけると、
嬉しくなってつい手に取ってしまうのでした。 

《 旅先で見たホーローボール 》
1994年、昆明郊外の山の上にあるミャオ族の村で。歓迎のためそば粉を盛ったどんぶりに大量の蜂蜜をかけてくれた。手前にあるのがホーローコップ、左端布巾の右にホーローボール。布巾の上の黒い点々はハエ
  
昆明から300キロほど北のペー族の露店。あめ玉、砂糖などを売っている。左端の赤いベストの店番と中央の紺色の中年女性の間にあるのがホーローボール。女性の衣服はいずれもペー族の民族衣装で、白いブラウスに赤のベストは若い既婚女性、老年になると藍のブラウスに濃い藍や茶のベストと地味になる。未婚女性は赤いベストを着て帽子の両脇から長くて白い毛糸の房を垂らしている(画像下)

忘れられない人々〔露天商3〕 靴下屋のうたた寝 

2018-04-13 | 少数民族あれこれ

なんて可愛いうたた寝。商品棚は骨組みだけにした折りたたみベッドで、どの露天商もよく利用している

昆明市から13時間の列車旅。日本では見られない車窓の風景に飽きることがなかった

1995年の7月、滞在していた昆明市から、貴州省に向けて出発しました。
貴州省凱里香炉山で行われるミャオ族の歌会で
歌垣(歌を掛け合っての会話)の現場を見るためです。
1989年にNHKの番組で放映された香炉山での歌会の番組を見たことがありますが、
それは依頼して演じてもらったということでした。

1966年から10年間におよんだ文化大革命の影響は大変大きく、
封建的遺物として多くの貴重な伝統行事や習慣が禁じられ、歌垣もその対象でした。
長年のブランクがあったため文革が終わった後、
歌を歌える人がいなくなってしまったそうです。
そこでやむを得ず、NHKスタッフは歌を歌える人を探し演じてもらったということです。
私達はその片鱗でも残っていないかと思ったのですが、
このとき凱里で会ったミャオ族の案内人(貴州大学出身)によると、
「現在はもうない」ということでした。

歌垣を歌うことは、だれでもできるわけではありません。
韻の踏み方や言葉の選び方が重要で、
長時間歌えるだけのたくさんの歌の言葉を知っていなけれなりません。
相手の歌を聞きながら内容を把握し、歌が終わると同時にこちらの歌を返すワザは、
一朝一夕には生まれません。
歌垣がさかんなペー族の場合もそうですが、
幼いころから大人の歌の掛け合いに接するうち、
自然に当意即妙の歌のワザが身につくようです。
しかしそういう環境にあっても、だれもが歌えるとは限りません。
ですから歌垣を歌える人は、“優れた才能を持つ人”と周囲から見られるそうです。
もう歌う人がいなくなってしまったほかの理由には、
若者が人前で歌垣を歌うのを恥ずかしがるということ、
知り合うチャンスや手段がなかった昔と違い、
いまでは自由恋愛ができるからということもあるということでした。

さてこのときの旅の行程は、昆明駅から夜行列車で13時間かけ、
貴州省の省都「貴陽」に到着。
そこで打ち合わせをすませ、夕方には凱里へ。
凱里はミャオ族の村が多いこの辺りの中心の町です。
翌日ミャオ族の郎德村に行き聞き書き、その後凱里に戻って昼食でした。
町での昼食後ふと見たのがこの靴下屋です。

テントの下でストッキングが風にひらひらと舞い、
売り物の膝下ストッキングを履いた若い娘さんがうたた寝していました。
きっと娘さんもお昼を食べたのでしょう。
夏の昼下がりの時間帯、眠くなるのは無理もありません。
暇をもてあますうち、うたた寝してしまったようです。

風に舞うストッキングの動き、その下にけだるく可愛い寝姿。
すっかり魅せられて、しばらく見入ってしまいました。

忘れられない人々〔露天商2〕 客待ちのミシン屋

2018-03-13 | 少数民族あれこれ

ミシンの前には色とりどりのファスナー。壊れたファスナーを取り替える注文も

雲南省の省都である昆明市に住んでいたとき、
月に一回のペースで、辺境地の少数民族の調査に出向いていました。
昆明市では雲南大学の教員宿舎に住み、せっせと調査の記録作りに励んでいました。
22年前の中国のことですから、省都の中心地とはいえ、
表通りも裏通りもあらゆるところに様々な露天商が出ていました。
当時日本は平成になっていたのですが、
随所に日本の50年前、場所によっては100年も前の風情が見られて、
妙に懐かしく、ときにおかしく、それでいて心惹かれる光景でした。

渡辺京二が日本近代素描1『逝きし世の面影』で、
明治初期に来日した外国人の多くが、
おおらかで幸せな庶民の暮らしぶりに深く感動した様子が描かれています。
少しばかり近代化された社会から訪れて暮らした私でしたが、
道ばたの露天商を見ていると、売り子の生々とした暮らしぶりが背景に見えて、
ときには親愛の情を強く感じたのでした。

道端の椅子にお客を座らせて頭を刈る床屋、
恐ろしいほど古いドリルで虫歯をガリガリ削る歯医者、
骨組みだけの金属ベッドを商品棚にして雑本を並べる本屋、
これで商売が成り立つのかと首をかしげたくなる商売も。
どことなくも嬉しい気持ちで眺めていた私は、何を懐かしんでいたのでしょう。
私が育った頃、地方都市にだって道ばたに露天商はいなかったのですから。
小学校の頃に見た、明治大正頃期が舞台の東映映画かな? 

暇をもてあます店番はときどきテーブルに突っ伏して昼寝していた
暇に任せて店先で髪を洗う店番。使っているのはお湯だろうか水だろうか?

で、話を戻すと・・・・、住んでいた雲南大学の教員用宿舎の窓から見えたのは、
通りを隔てた向かい側の小さな食堂だけでした。
実際に店先で食べているお客を見たことがありません。
店番の可愛い小姐(シャオジェ=お嬢さん)はいつも暇そうで、
表の椅子に座ってけだるく客待ちしていました。
ときには洗濯したり長い髪を洗っていることもよくあって、
民族調査の記録作りの合間に店番の暮らしを垣間見ていました。

週に何回かは食堂の前にミシン屋が出ます。
40代らしいその女性は、ミシンを食堂の奥に置いてもらっているらしく、
店に来ると引っ張り出してきて、「何でも縫います」の商売をしていました。
半年近く観察していて、お客を見たのは数えるほど。
あれで商売が成り立つのかと思いつつ、
今日はお客が来るといいのになぁと、いつのまに肩入れしているのでした。

忘れられない人々〔露天商1〕 籠屋の午睡 ペー族

2018-02-22 | 少数民族あれこれ
売り物の籠がゆりかご、なんと幸せな昼下がり

1995年4月から1年間雲南省昆明市に住み、
帰国後も少数民族調査のために何度も雲南を訪れました。
もっとも頻繁に出向いたのが白(ペー)族が住む地域、
大理石の産地として有名な「大理」はその辺り一帯の中心地です。
当時、ペー族には自然な形での歌の掛け合いが残っていました。
それも、ただ歌を掛け合うだけでなく、
恋愛を目的とする男女の歌掛けである「歌垣」がです。

かつて日本の古代でも筑波山や九州などにあった歌垣は、
800年代には消滅したということです。
その歌垣が自然な形で現代にも残っているのを目の当たりにして、
日本古代文学が専門の相方と助手の私は驚喜しました。 
五七五七七の五句からなる日本の歌垣と違い、七七七五+七七七五からなる合計八句。
見知らぬ男女が出会い、即興の歌の掛け合いで会話をすることは同じです。
日本の歌垣にはない一定の韻を踏む決まりがあり、
歌詞を決まったメロディーにのせるなど、大変興味深い歌の掛け合いです。

何でも歌を掛け合うのが好きなペー族は、
本来の目的である若い男女の出会いの場での意思疎通はもとより、
祭りの日だけ昔の恋人との逢瀬の際に歌ったり、
ときには老婆同士で掛け合ったり、
果ては裁判の場でも歌でやりとしたという実話も耳にしました。
消滅していったのは、娯楽の多様化、意思疎通手段の多様化でした。
祭りや市(いち)しか娯楽のない単純で閉ざされた暮らしだったのが、
文明の発達・普及により、テレビを見、携帯電話で話すうち世界が広がり、
歌での会話が消えていったのは当然の成り行きといえるでしょう。
幸運なことに私達は、
歌垣が自然のままの形で生きているうちに出合うことができたのでした。
そんなわけで、拠点である雲南省昆明市からせっせとペー族の居住地に通い、
消滅してしまう前にと、帰国後も訪れることになったのです。

大理に行くには昆明市から車で約8時間、さらに北に1時間の剣川を目指します。
そこからさらに1時間ほど山の中に入ると石宝山があり、毎年8月に歌垣祭りがあります
その様子は長くなるので省きますが、
何度も繰り返したこの道程の中で、ペー族の暮らしを垣間見ました。
当時は田舎に限らず都市部にも露天商が非常に多く、
たくさんの生活用品が道に並べられていました。
冒頭の画像は、大理から剣川に向かう道端にいた籠屋。
昼下がりの道路沿い、“客も来ないし、居眠りでもするか”と思ってか、
店番が気持ちよさそうに居眠りをしていました。
直径1.3m以上あるとてつもなく大きな籠は、脱穀に使う籠で、
居眠りするにはちょうど良いゆりかごです。
この辺り一帯でよく見た脱穀はこの大きな籠の縁に稲束を叩きつける方法で、
長く続けるには労力のいる仕事ですが女性がやっていました。
稲穂を叩きつけてモミを落とす、家族単位でこじんまりとやっていることが多い

ときには地域ぐるみで大がかりな脱穀が行われていました。
こんな方法、だれが考え出したのでしょうか?
舗装道路に数十人の村人が収穫した稲を持ち寄り、
道路に稲をバラバラとまき散らします。
車が通るとタイヤに踏まれて、モミが茎から落ちます。
この【タイヤ脱穀】は、地域ぐるみで協力し合うことが多く、
このとき見た作業は特別大がかりでした。
道路数百mにわたって、村人が分担作業でかいがいしく働いています。

まき散らした稲の上を走りながら、若い運転手(昆明市在住)はぼやきます。
「こういう所を通るの、いやなんだよな」
理由は、車体の下側にワラがたくさん付いてしまうからだそうで、
運転手にとっては大迷惑なんだとか。
「それにこういうお米には小石が混ざっているから、噛むとジャリッと来るんだよ」
田舎で食べるご飯に小石が混ざっていることがよくあるのは、
こういう理由だったようです。

追記:千歯扱き(せんばこき)を使っている村人もいましたが、
車の中から通りがかりに見ただけで画像がありません。
千歯扱きは、日本では江戸時代から大正時代まで使われた農具で、
たくさんの歯を並べ穀物を歯の隙間に挟んで引き脱穀するもの。

道路に撒いた大量の稲をタイヤに轢かせる
車の通行が途切れると、稲を上下に返したりタイヤ位置の辺りに集めたり大忙し
道路脇では、風を利用してお米が入ったモミとワラくずを仕分けする

◆   ◆   ◆

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忘れられない人々〔若い女性篇3〕 吊り橋を渡る花嫁 イ族

2015-05-08 | 少数民族あれこれ

右から2番目、ターバンのような帽子を被ったのが花嫁
他の女性達は、未婚または子供がまだいない既婚女性(後述参照)。


四川省の地方都市「西昌」から東へ170㎞の涼山地区美姑に、
大涼山の少数民族イ族が住んでいます。
ここは中国でも有数の極貧地域で、
私たちが入った1997年は、外国人の立ち入りが許可されてまもなくのことでした。
とりわけ不便な辺境地ですから、外部からの異文化流入が少なく、
巫師による創世神話の伝承が固く守られているというのが魅力の地域です。

創世神話を取材する相方を手伝うため同行していたときのことです。
その日はイ族の未(ひつじ)の日で縁起が良いので、村で2つの結婚式があるということでした。
そのうち1つの結婚式を早朝に取材し、宿に戻ってごろりと休憩していました。
そこへ突然、川向こうの山の傾斜地で「鬼払い」があるという情報が入ってきました。
現地での動きはいつもその場にならなければ判らないのが普通ですが、掴んだ情報は宝もの。
突然の情報で、これまでどれだけ貴重な神話や歌文化に巡り会えたことでしょう。

早速車で川沿いを進み、橋のたもとで降りて橋を渡り対岸に出ました。
渡った橋は、丈夫な造りの吊り橋です。
対岸に渡るには、ずっと手前にある朽ちた吊り橋を渡ればかなり近道なのですが、
現地の案内人は、私たちにこの橋を渡るのは無理と判断したようです。
地元の人は子供はもちろん老人であっても目を見張るほどの健脚ぶりで、
足場の悪い夜の山道でも、
まるで目が見えているかのように、ヒョイヒョイと軽やかに登って行きます。
懐中電灯を頼りに用心深くついていく私たちを見ていて、
“やわな外国人にあの橋を渡るのは無理”とふんだのも無理はありません。

丈夫な吊り橋を渡ってかなりの距離を戻り、ようやく朽ちた吊り橋まで戻って来ました。
ここから傾斜地を登れば、大ビモ(高位の巫師)とそれを継承する息子や弟子達がいて、
鬼払いの儀式が執り行われるはずです。

山に登り始める前にふと対岸を見ると、朽ちた吊り橋がゆらゆらと揺れています。
なんと、着飾った女性達が渡って来るではありませんか。
小さかった人影がだんだん近づいてくるのを、呆然と眺めていました。
吊り橋に渡してある丸太は切り出したままで均一ではない上、
ところどころ抜け落ちているので足場が悪く不安定そのものです。
橋から川面までは3、4mと低いものの流れは速く、私なら足がすくんで動けないことでしょう。
彼女たちはワイヤーに捉まりながら、一歩一歩用心深く渡って来ます。

少数民族の中には、写真を撮られると魂を抜かれると考える人もいますから、
カメラを向けるときはかなり気を使いますし、
そう考えてはいなくても、サッと逃げられてしまうこともたびたびです。
幸い彼女たちは「あの人達、だれ?」と、こちらに興味津々。
にこやかな様子と、渡るのに必死の状況をいいことに、バシバシ撮らせてもらいました。
よく見ると、8人ほどの女性の中に花嫁衣装の人がいます。
未(ひつじ)の日に執り行われた、村でもう一件の結婚式の花嫁でしょうか。


整列して撮らせてもらったこの写真、帰国後、案内の人宛に送りました。
彼女たちの手元に届いていますように。


こちら側に渡りきった彼女たちに聞くと、
結婚式の帰りで、山の向こう側にある実家に帰るところだということです。
花嫁は15、6歳ぐらい、8人の付き添いを連れた9人連れでした。

イ族の結婚は婚礼当日から同居することはなく、
式が終わると花嫁は付き添いと共に実家に戻り、しばらく実家で暮らします。
花婿がやって来たり、花嫁が花婿の家に行ったり行き来するうち、
子供ができたら、花婿が子供と一緒に嫁ぎ先に連れて帰り、
女性は写真(下右)のような平べったい帽子に取り替えます。


【イ族女性の帽子】 左から未婚女性、花嫁、子供がいる既婚女性と、形が変わる

美姑イ族は、厳しい封建制を守った婚姻を行うことが多く、
幼い頃に相手を決めてしまうことが多く、
結婚式当日に初めて会うというケースもめずらしくありません。
当人同士の意思は、二の次、三の次。
この日出会った2人の花嫁、
どのような思いのうちに残りの長い人生を歩んでいくのでしょう。

山を登り帰って行く彼女の後姿を、複雑な思いで見送らずにいられませんでした。


鬼払いが執り行われた山の傾斜地。
春霞ののどかな丘陵に白い桃の花が咲き、「桃源郷ってこんなところかな?」と思った。
中央に見えるのが渡って来た川。
私たちが渡った橋は遙か向こう、朽ちた吊り橋は桃の木をだいぶ降りた所に架かっている。
下に見える民家には、鬼払いの依頼者が住んでいる。


(四川省涼山地区美姑書布村 1997.3)


     ◆   ◆   ◆

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忘れられない人々〔若い女性篇2〕 待つ女 タイ族

2015-01-13 | 少数民族あれこれ


女は、ずっと待っています。
いったい、どの男が彼女をこんなに待たせているのか。

ここは中国雲南省の南西部、四双版納タイ族自治州の省都「景洪(ジンホンjing hong)」。
毎年4月、タイ族伝統の「潑水節」と呼ばれる「水掛祭り」が賑やかに行われます。
水を掛け合って互いを清め祝福する水掛け行事のほか、
瀾滄江(メコン川)で行われる「龍船競漕」、
小さな包みを男女で投げ合う「香包」、
軍鶏を闘わせる「闘鶏」、
竹ロケットを打ち上げる「放高昇」などがあり、
豊作祈願であったり、体の浄化、男女の思いを伝え合うなど、さまざまな意味があります。


闘鶏は、町の中央のコンクリート広場で行われていました。
広場には興奮した男達の大きな円陣があり、
中央では2羽の血だらけの軍鶏(シャモ)が闘っています。
男達は大声で囃し、闘鶏の勝敗に夢中。
円陣の内側では小さな紙切れを持った男がときどき回り、
何人かの前で立ち止まっては紙切れとお金を交換していたから、
闘鶏は博打の対象になっているようです。
そうでもなければ、こんなに男達が熱中するわけがありません。
炎天下の広場の、円陣だけが異様な興奮で揺れ動いています。


軍鶏は首から上の皮膚が露出していて、
その弱い部分を互いに突っついて攻撃するから、どちらの軍鶏も首から上は血に染まりボコボコ。
とどまることない凄惨な突っつき合いが延々と続きます。
軍鶏の持ち主は、途中で自分の鶏が逃げ出すとすぐに掴まえ、また闘わせる。
そのうち双方の軍鶏とも肩で息するように痛々しくなり、さらに赤くボロボロ。
どの辺りで勝負をつけるのか。
それは軍鶏の持ち主がどこで“待った”をかけるか、つまり負けを認めるかで決まるようです。
軍鶏は高価ですし、誰だって自分の鶏を死なせたくはないのです。

南国の強い太陽に晒され、コンクリートはかなり熱くなっています。
興奮する円陣から離れて、広場の隅に1人の女が所在なげに座っていました。
直接腰を下ろすと熱いしお尻は痛いしで、履いていたゴム草履の片方をお尻の下に敷き、
早く終わらないかと待っています。
せっかく祭りに来たのにこんなふうに待たされて・・・、顔には不満がありあり。

赤い帽子にピンクの造花、鮮やかなピンクのスカートに黄色い上着、
タイ族の女性の衣装は、こういうあっけらかんとした派手な配色が当たり前で、
それがまた、強い太陽の下でとても似合うのです。
まして祭りともなれば極限の派手衣装が街中に溢れ、これでもかというほどの極彩色の洪水。
水掛祭りの街では、柳腰で色っぽいタイ族の女性達が、
極彩色の衣装と日傘で闊歩していて、街中に花が乱れ咲いているようです。

以前UPした画像ですが、祭りの時、タイ族の女性の衣装はこんな感じ↓
 色っぽい目線を向けられてドキッとした14、5歳の女の子
 柳腰の若い女性達が歩く姿は美しい
 なんて強烈な配色! 濃厚な色気にたじたじでした

さて、話は“待つ女”に戻って・・・

彼女は爪の甘皮でもむしっているのでしょうか。
結局、一度も顔を上げることもなく、ただ指先をいじっていました。
広場の中心には興奮した男達の円陣、
少し離れて異質のスポットを浴びる女の姿、いまも忘れられない光景です。


(四双版納タイ族自治州景洪 1995.4)

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忘れられない人々〔若い女性篇1〕 歌を紡ぐ娘 ぺー族

2014-11-03 | 少数民族あれこれ
 石宝山の宝相寺屋根下で延々と続いた歌垣。中央の娘が歌っている
 同じ村の娘達と8人ぐらいで来ていた

私が出会った中国の少数民族の中で、もっとも魅力的な女性です。
可憐で可愛くて、純粋で無垢、控えめなイメージがとても印象的でした。
気が強くて物言いが激しい中国女性を大勢見てきたので、なおさら新鮮に映りました。
言い古された言い方ですが“野に咲くヒナゲシのような”とは、まさに彼女のよう。
しかもまさに、ここは雲南省の山の奥です。

しかし彼女を魅力的だと思った理由は、容姿や表情、雰囲気からだけではありません。

彼女は雲南省大理州剣川県に住むぺー族です。
彼女をことさら魅力的にしていたのは、
ぺー族の伝統的な歌垣を延々と続けることができる類い希な才能です。

日本の古代にも、恋愛の相手を求めて即興の歌を交わす「歌垣」があります。
『古事記』『万葉集』『常陸国風土記』『肥前国風土記』などに記載があり、
特に有名なのは、『常陸国風土記』に記された筑波山の歌垣です。
いまもアジアの広い地域には歌垣の習俗が残っていて、
中国南西部からインドシナ半島にかけて、フィリピン、インドネシアにもあり、
中国の少数民族では、ぺー族、ミャオ族、トン族、チワン族の歌垣がよく知られています。
伝統的な形で現存する事例の中には、恋愛や結婚相手を探す目的のものもまだあり、
ぺー族の歌垣がまさにそれでした。

ぺー族の歌垣でもっとも盛んなのは、
大理州剣川県の石宝山という山で、年に1度行われる歌会です。
この歌会に初めて行ったのは1995年、この歌垣に出会ったのは1996年8月、
その後、97年、98年、99年の合計5回、石宝山の歌垣を取材しましたが、
もっとも素晴らしかったのがこの女性の歌垣でした。
彼女の歌垣の何が素晴らしかったのかは、
歌垣を語る要素があまりに多く、一言では言い尽くせません。
(詳しくは後ほどアップする予定の「歌垣」の項をご覧ください)
何はともあれ、それだけ素晴らしい歌垣を歌えるということは、
言葉を紡ぐ才能と歌の旨さ、語彙の豊かさが卓抜しているからです。
私達は、自分たちがその現場にいることが信じられない思いで、
その歌垣の成り行きを見守っていました。

歌垣は即興で歌を返します。
相手の歌を聞きながら、次に返す自分の歌を考え、
相手が歌い終わったらすぐに歌い始めなくてはなりません。
そういう歌の掛け合いが、4時間半も続いたのです。
このとき録音したペー語の歌をテープ起こして中国語に直し、
それをさらに日本語に直すのに10年を要しました。
テープを聴きぺー族の歌垣専門家が中国語で書き取り、それを中国人の学者が日本語に翻訳、
それを相方がさらに直すという、途方もない作業でした。
その結果、総計884首の歌の掛け合いだったということが判りました。

ぺー族の未婚の娘の衣装はピンク色で、冠からは白い毛糸の房を垂らしています。
この房は未婚であることを示し、男性がこれに触れることは“求愛”を意味します。
この女性は、歌が終わった後の聞き取りで、Liさんということが判りました。
Liさんは、同じ村の娘達8人ぐらいのグループで来ていたので、
歌う彼女を常に仲間達が取り巻いています。

ついでに書くと、彼女は歌の途中でトイレに行き、
その間は一緒にいた仲間が繋ぎ、
お腹が空いてきたからと、相手の男性陣と食堂に行って夕食をとり、
ちょっと休憩してからまた食堂で歌を掛け合うという具合。
彼女も相手の男性も、時間がある限りいくらでも続けられる様子で、
歌詞が途切れることはもちろん、歌いよどむこともありませんでした。

歌垣は相手の歌を聞きながら返す歌を考えるので、
だいたいの場合、真剣な表情で一点を見つめながら歌う人が多い中、
Liさんは常ににこやかに微笑みながら歌い続けていたのです。

私達は、その類い希な歌垣の才能に驚き、
その瞬間に居合わせた自分達の運の良さに心から感謝しました。
もう、こんなに感動する歌垣の場に居合わせることはないだろうと思いながら。
その実感はその通りになり、その後たくさんの歌垣に出会いましたが、
このような歌垣の事例に遭遇することはありませんでした。
(雲南省大理州剣川県 1996.8)

【後日談】
3年後、このとき教えてもらった村の名と名前を頼りに彼女(Liさん)の家を訪問しました。
彼女の家は、石宝山から更に奥へ奥へと入った山間の村にありました。
石宝山で歌っていたときLiさんは20歳で、この歌会の直後に結婚したそうです。
突然の訪問だったので彼女は野良仕事に出かけていて、
彼女の夫と幼い子どもに会うことができました。
両親、兄姉姉妹達の家族と大家族で暮らしていました。
歌会に一緒に来ていた彼女の姪(画像2枚目:Liさんの肩にもたれている少女)が、
重い穀物を下げて帰って来ました。
 山奥の集落に住んでいる
 10数人の大所帯。彼女の夫が子どもを抱いて自分たちの部屋に案内してくれた
 部屋には私が送った歌会の写真も飾られていた
重い穀物を背負い、歌会で一緒にいた姪が帰ってきた
 軒下に干してあるクルミ。これを砕いて油を採る
クルミを潰す用具。先端に砕いたクルミを入れ、もう一方を踏みさらに潰す

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忘れられない人々〔お年寄り編7〕 幌の前に立つ ぺー族

2014-09-10 | 少数民族あれこれ


突然仕事を中断、中国雲南省昆明市に一年間住み、
相方の助手として少数民族文化の調査を手伝ったことがあります。
急遽、2人で合計20回の個人教授の中国語特訓コースを受けました。
話せるようになったのは、「こんにちわ」「トイレはどこですか?」
「私は日本人です」「ここはどこですか?」「私の名前は・・・」程度のお粗末さ、
聴く能力はほとんどゼロでした。
なぜそんな無謀な中国行きになったのか。
相方の勤務先の事情で、申請してあった雲南行きが一年繰り上がってしまったのです。
ろくな準備もしないまま、昆明空港に降り立ちました。

一方、少数民族文化との出会い、取材内容のおもしろさ、
辺境地への旅程の困難さなど予想外の出来事に、思いがけない感動の連続の一年でした。
とりわけ意義深かった少数民族文化との出会いは2つ。
現存する即興での歌垣と、現在も生活の中に生きている独自の神話です。


歌垣がさかんに行われていた石宝山
最初に遭遇したのがペー族(白族)の歌垣(歌掛け)。
それは雲南省大理州の奥深い山、石宝山で行われていました。
相手の歌を聴きながら返す歌詞を考え、即座に返す即興で、
その目的は配偶者または恋愛相手を得るため。
古代日本、常陸筑波山などで行われていた歌垣を彷彿とさせるものです。
常陸筑波山の歌会へ、箱根の先の足柄からも人々はやって来たという説があるそうですが、
石宝山の年に一度3日間行われる歌会へは、
古くから、人々は鍋釜持参で直径300㎞の範囲からやって来ていました。
ぺー族にとって、それ程にこの歌会が惹き付ける力は大きく、
ふだんは人気の無い山がぺー族で溢れ返ります。

歌垣会場には大勢の人がつめかけ、真剣に歌に耳を傾ける
山の中の一本道は、大勢の人と車とで大混乱。
いくらクラクションを鳴らしても動く気配は見えません。
ギシギシに動かない一本道の中央でふと目に留まったのが、冒頭の画像のおばさん。
幌付き車の荷台に捉まり、強い視線で見据えている姿が何とも魅力的でした。
ここに来る車は、荷台にぎっしり村人を積み込んで運ぶためか、
食堂・お菓子屋・果物屋・小間物屋等の露店を会場で開く業者の荷物運びためです。

冒頭画像の幌付き荷台のおばさんの衣装は、ぺー族の中年女性のもの。
若い女性の衣装はというと、ピンクを主体にした華やかな衣装、
老年になると藍染め中心の地味な衣装になります。
この中年女性をお年寄り篇に入れてしまうのは、申し訳ないのですが、
キリリとした表情が魅力的で、思わずカメラで捉えました。
 こちらは未婚女性の衣装、その後ろに中年女性たち
 中央の女性は老人女性の衣装。石宝山の中心には宝相寺(後方)がある
 歌垣を歌う老年女性。うちの息子の嫁に来ないかい? と、女性に歌を掛けた

石宝山のぺー族の歌垣は非常にさかんでしたが、
人々が豊かになるとともに近代化の波に勝てず、
行事はイベント化され観光事業の要素が強くなっていきました。
芸能大会の傾向が増し、本来の素朴な歌掛けの要素は失われていきました。
1995年から毎年連続で5年間訪れましたが、
年々、歌会舞台による歌合戦となり、人々もそれを楽しみ、
自然発生の山の中での歌垣はなくなっていきました。
その後もずっとぺー族の歌垣を追いかけていた研究者によると、
2002年以降、小さな山で行われていた歌垣も見られなくなってしまったということです。

若者が知り合うのは町の盛り場になり、
定型の語句の中に韻を踏む難しい歌垣を歌わなくても、携帯があればすぐに連絡が取れる。
消滅していくのは自然の流れなのでしょう。
ぺー族の自然の歌垣の場に身を置くことができて、
私はなんて幸せ者だったのだろうと痛感しています。

(雲南省大理州剣川県 1995.8~1999.8)

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忘れられない人々〔お年寄り編6〕 ぎりぎりまで働くということ アチャン族

2014-08-05 | 少数民族あれこれ

「最近足が弱くなって、働くのはつらい」と、アチャン族のお婆さん

最近、頻繁にとり上げられるテーマに認知症があります。
認知症を防ぐ生活習慣、食生活など、
これを取り上げればテレビは視聴率が上がり、雑誌は売れ・・・という状態。
栄養状態と医療の進歩により平均寿命が伸びるにつれ発症率は増え、
必然的に関心度が上がっています。
健康であっても、ボランティアや趣味の活動、スポーツなど、
リタイヤ後に何をするかも話題の1つです。
いまの日本の生活環境の中、食生活・医療の進歩に恵まれて長生きになり、
一方で暇を持てあます老人が多いのも確かです。
認知症リスク・介護リスクを上げないための第一の条件である、
「体を動かす、スポーツをする」ことをしない生活習慣も一因です。

今回はその対極の環境の中にある少数民族のお婆さんを紹介しましょう。
少数民族の村では、近隣に医者はいません。
何㎞も歩いてやっと辿り着く小さな町に、検査機器が何もない診療所があるのみとういのが普通。
村の呪術者に祓いをしてもらい、
邪気を取り除いてもらって病気や怪我を治す村だってあります。


ここ徳宏州は雲南省の最西部、もう少し先はミヤンマーという位置にあります。
辺りには阿昌(アチャン)族が多く住んでいて、
町の市場ではアチャン族の女性達が野菜や果物を売りに来ていました。
女性達は独特の美しい織り布のスカートを穿き、
その下にレギンス型の濃い藍のズボンを穿いています。
織りは大変凝っている珍しいもので、地元でないと入手は困難です。





市場で売っている女性の中で一番社交的な人に声をかけ、
穿いているスカートを譲ってくれないかと頼みました。
「これは穿いていてものだから汚い。こういうものは恥ずかしくて売れません」
何度も固辞するのを、通訳に説得してもらいました。
“汚くてもいいなら”と彼女は市場の隅に行き、脱いでくれました。
「トランクに入れて」と運転手のLiangさんに頼むと、
彼はまるで腐った雑巾をつまむような仕草で、トランクの一番奥に投げ入れたのでした。
車を出そうとする私達を見て、慌ててその女性が駆け寄ってきました。
「これは女のスカートだから、頭より上にしてはいけないよ!
干してあるところの下を通ってもいけない!」
アチャン族の厳しい決まりを伝えるため、表情は真剣そのもの。
アチャン族は他民族と比べ、女性の地位がかなり低い位置にあるのです。


水牛の小屋の壁には、たくさんの糞が貼り付けられている。貼り付けた跡は左にずっと続く

右端に乾かした水牛の糞が積まれている
その後、目的地である丙界村を訪ねました。
村に入ると、水牛小屋の外壁に丸く貼り付けてある物が目に付きます。
水牛小屋は一面グチャグチャ糞の泥沼状態で、
それを平たい円形に形成したものを壁に貼り付け、乾かして使うのだそうです。
竈の横には、丸いピザ台のような糞が積んであります。

家人に尋ねると、乾燥糞の使い途は3つ。
①燃料/乾燥糞は家畜の餌を煮るときだけ使い、
 家族の食事の煮炊きには小枝などの薪を使う。
②蚊避け・虫除け/家畜小屋に乾燥糞を置き火を点けて燃やし、
 その上にネズミの死骸を置くと蚊が来ない。
③肥料/糞の灰は軽いので畑に運びやすいから肥料にする。

3つもの利用法があり、焼いたあとは肥料になっての2段階活用。
外壁に貼り付けた牛糞のある光景は、なかなか面白いものです。


村を出て町に戻る途中の道すがら、涼しげな木陰にの下に腰を掛け一休みしました。
そこへ、アチャン族のお婆さんが弱々しい足取りで通りかかりました。
アチャン族のスカートを穿き、細い体に煮炊き用の小枝をめいっぱい背負っています。
歯はビンロウ(アジアで広く愛好されている噛み煙草)で赤く染まっています。
木陰で休んでいる私達を見て足を止め、どっこいしょと旁らに腰を下ろしました。(冒頭画像)

「最近は足が弱ってしまって、こうして働くのはつらい」
歳をとり足腰が弱ってしまっても、課せられた仕事をやらざるを得ない生活です。
それもできなくなれば、食べ物を浪費するだけの無為な存在になる。
不要者にならないために、ぎりぎりまで働く生活。
楢山節考を思い出す、少数民族の暮らしの厳しさがここにありました。
体力がなくなってきても働くことを余儀なくされる生活。
ぎりぎりまで労働力として必要とされ、体を動かさざるを得ない生活は、
老いた体には決して楽ではないと思いますが、
一方、ぎりぎりまで家庭の中で必要とされる存在を羨む気持ちがあることにも気づかされます。

(雲南省徳宏州梁河丙界村 1998.9.9)

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忘れられない人々〔お年寄り編5〕 虚無の光景 ワ族

2014-05-28 | 少数民族あれこれ


1995年から10年あまり続いた少数民族文化調査の中で、
もっとも忘れられない場面は、ワ族のお婆さんがいるこの光景です。

場所は雲南省西盟ワ族自治県、1996年2月のことでした。
以前書いたように
ワ族は1970年代後半まで農耕儀礼のために首狩りをしていた少数民族です。
この辺りはミヤンマー国境付近で、
タイ、ミヤンマー、ラオスが国境を接する一帯にかつてあった、
世界最大の麻薬生産地「ゴールデントライアングル」と呼ばれた地域に接しています。
1996年に行ったとき地元の案内人が国境の向こう側にあるミヤンマーの小高い丘を指差して、
“あれはぜんぶ芥子(ケシ)畑だよ”と教えてくれたことがあります。
そんなわけで中国はこの地帯には殊の外神経を尖らせていて、
麻薬取り締まりに非常に力を入れていました。
地方自治体には必ず「禁毒委員会」という部署があり、
麻薬取り締まりの様子はたびたびニュースに流されていました。
捕まれば簡単な裁判の後、数日後に処刑されます。
実際私たちが行ったときに現地のワ族に聞いた話によると、
中国のワ族には国からの援助があるが、ミヤンマーのワ族には政府から援助がなく、
そのため麻薬になる芥子を栽培して芥子と米を交換するのだということでした。
中国の麻薬取り締まりはたいへん厳しく、
ミヤンマーから少量持ち込んでも死刑だそうです。
西盟ワ族自治県(面積1391平方メートル;神奈川県の半分強)に、
麻薬検査所だけで10か所あるということでした。

私の単なる印象で言えば、
明るい性格のタイ族、シャイで真面目なハニ族、勇壮で誇り高いイ族など、
少数民族によって性格の傾向が違いますが、
もっとも愛想が悪くとっつきにくかったのがワ族でした。
ふつうどの少数民族の村に行っても子ども達は人懐こく近づいて来るし、
見慣れない外来者に大人も子どもも興味津々で近寄ってくるものですが、
私たちを遠巻きにして、鋭い視線で穴が空くほど見つめるだけでした。
この地域では、ワ族の神話(司岡里:スーガンリ)、
歌垣(歌を主に即興で掛け合って交流する文化習俗)、
過去の首狩りの経験話などを取材していたのですが、
取材の道すがら他の地域ではよくやっていたような、
通りかかった家に声をかけ交流をするなどもってのほかでした。
そんなわけでワ族調査では、
目的の家を出た後は寄り道せずに帰路に着くというパターンが多くなりました。

その帰りの道すがら、冒頭の写真の場面に遭遇したのです。
思わずカメラを向けながら、お婆さんが顔を上げたらどうしようとドキドキしたのを覚えています。
お婆さんは強い陽差しの中で、
いまにも崩れ落ちそうなあばらやの戸口に腰をかけ、頭を抱えたまたじっと動きません。
戸口の扉こそあれ、家は雨露をやっと凌げるかという程度。
これほど貧しい家に、おそらく独りで住むことになったのは何故だろう。
小さな生活圏の中、村人は誰もが助け合って暮らさざるを得ないのが現状ですが、
それからも取り残されたようなお婆さん。

思考も感情もすべて捨ててしまったような、
虚無の時間に満ちた光景の中で独りいるこの人を忘れることができません。

(雲南省西盟ワ族自治県岳宋村 1996.1~2)

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忘れられない人々〔お年寄り編4〕長靴を縫う ドゥアン族

2014-05-06 | 少数民族あれこれ

長靴を縫うのを手伝ってくれた近所のおばさん。
歯が赤黒いのは植物の檳榔樹(びんろうじゅ)を噛む習慣のためで、年取った女性に多い


ドゥアン族の高床式の住居。タイ族とドゥアン族の高床式の住居は、竹をふんだんに使っている

一階には老夫婦のための棺桶が置かれていた

徳宏(ドゥホン)州は雲南省の西端にあり、すぐ隣はミヤンマーです。
主に住んでいるのはタイ族とジンポー族で、「徳宏州泰族景頗族自治州」が正式名称。
あるとき、観光地で知られる大理(ダーリ)から保山(バオシャン)を通り、
さらにミヤンマーに近い芒市(マンシー)から西山郷(シーシャン シアン)へと向かっていました。

西山郷の回龍社(ホイロンシャ)という小さな村にドゥアン族が住んでいて、
創世神話を歌うことができる古老がいると聞き、さっそく案内してもらうことにしました。
村に入ると、案内人が指さす先に瓦葺きの高床式住居があり、一階は物置になっています。
高床式住居の一階は物置や家畜を飼う場所になっていることが多く、
やはり高床式に住むタイ族の家では、涼しい床下で機を織っている光景をよく目にしました。
古老は79歳のお爺さんでヂャオさん。
老妻と息子夫婦、孫達と一緒に住んでいます。
高齢の老夫婦のために、床下には棺桶が2つ用意されていました。
これは少数民族の家ではよくあることで、不吉なことではありません。

話がちょっと外れますが、麗江の丘の上の喫茶店に入ったとき、店主である老人が、
「あそこにぶら下げてあるのは、俺の入る棺桶だよ」と教えてくれたことがあります。
客に話すぐらいですから、老人が自分用の棺桶を用意するのは当たり前のこと。
喫茶店の客は、庭先の物置小屋の軒下にぶら下がった棺桶を見ながらお茶を飲む
というシチュエーションになり、これまたなかなかない光景でした。


さて、このお爺さん、いつまで経っても創世神話を歌い出してくれません。
こういう取材のとき私たちは、
村の小さな売店でお菓子と白酒(パイチュウ:愛飲者が多い焼酎)を持参して訪問するのですが、
お爺さんは白酒をちびちび飲むだけ。
ちょっと照れていたのか、あるいは気後れしていたのかもしれません。
家族も私たちもすることがなく、所在ない午後の時間がダラダラと流れていきます。

そのうち、かたわらにいたお婆さんが小さなゴム長靴を繕い始めました。
見ると長靴は脇から底にかけて、10数センチの大きな裂け目ができています。
そばにいる孫の長靴なんでしょう。
長靴は水が入ってくるのを防ぐための靴ですから、いくら縫い合わせても水が入ってしまいます。
とは言え、水が入っても足を保護することはできます。
お婆さんは長靴を縫って、なんとか縫い合わせようと頑張っています。
太い針と糸を使って懸命に縫うのですが、相手は分厚いゴム。
指先の力が弱いためか、どうにもうまくいきません。


その少し前、この家から聞き慣れない声がするのを聞きつけて、
近所のおばさんがやって来ていました。
かたわらに座り、お婆さんの指先を見ながらおしゃべりしていましたが、
もどかしく思ったのか長靴を手に取って縫い始めました。 
おばさんはグイグイと力強く針を刺し、
お爺さんの歌声が始まる頃にはすっかり縫い上げてしまいました。

昭和2、30年代の頃、
日本でも物を大事にするのは当たり前でした。
穴のあいた靴下を繕うことは、どの家でもやっていたこと。
布を当てて繕った部分だけ分厚くなっているから、
履くと足裏に違和感があり心地悪かったものです。
しかし当時でも、ゴム長靴を縫い合わせるというのは聞いたことがありません。

山奥の辺境地に住む少数民族の貧しさや不便さは、
水道やガスはもちろん、ときには電気さえない暮らし、
わずかな食器と鍋、バケツぐらいしかない家の中、
洗い晒してクタクタになった洋服、そのほかからいくらでも窺い知れます。
こうして“物を大事に使う暮らし”を目の当たりにすると、
まだ使えるのに惜しげもなく捨ててしまう自分の有り様に愕然とさせられます。

極貧であっても家族みなが同居し、隣近所と助け合うのが当たり前の生活。
核家族で勝手気ままに暮らせるけれど、隣近所をよく知らない便利な都会の生活。
どちらが豊かとは一概に言い切れないのですが、
前者を羨ましく思う気持ちが湧くことに、後者が気づかないはずはありません。
後者に強く憧れる気持ちが、前者に湧き上がるのも否めないことでしょう。

幸せな生活って、いったいどういう状態をいうのだろう。
豊かになればなるほど、ほどほどの幸せを保つために何をどの程度セーブすればいいのか、
またそれがいかに難しいか、つくづく考えさせられた針仕事の情景でした。、

(雲南省徳宏州西山郷回龍社 1998.9.6)

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忘れられない人々〔お年寄り編3〕 口角泡を飛ばし、首の話に熱が入る ワ族

2014-04-03 | 少数民族あれこれ


おおぜいの少数民族の古老の方々にお会いしましたが、
もっとも印象的だったお婆さんは先頭に登場のヌー族のお婆さん。
お爺さんでは何といってもワ族のこちらの方、王牙村の長老で80数歳のアイパンさんです。
昔は勇ましかったし歌垣も歌った、と身振り手振りよろしく話し出すと止まらない。
ときに話の内容に思わず破顔。
その笑顔は、話す内容と反し何ともあっけらかんと気持ち良い笑い方でした。

ではその話の内容はというと、「ワ族の首狩り」の話です。
興味本位に聞くなら話してくれなかったと思いますが、
こちらがワ族の神話(司崗里:スーガンリ)、首狩り、歌垣、
父子連名(家の系譜)などの研究のために来たのだと知ると、
警戒心を解いて話し始めてくれました。

もちろんこいういうお年寄りばかりではありません。
全体的に眼光鋭く愛想がないワ族のことですから、
首狩りの話を聞きたいというだけで表情固く口を閉ざしてしまう古老が何人もいました。
無理もありません。
ワ族の伝統ある儀礼であった首狩り習俗ですが、いまとなっては誇れる話ではないでしょうから。

かつては世界各地に多くの首狩り習俗がありました。
しかし「首狩り」と聞くだけで、現代の誰もが眉をひそめることでしょう。
首狩りは人の首を狩るのですから、残酷な恐ろしい風習です。
それを肯定する気持ちはさらさらありませんが、
しかしここでワ族に代わりちょっと説明させてください。
ワ族の首狩りの風習は、他の村や民族同士の争いのためではありません。
穀物の稔りを良くするための農耕儀礼が目的でした。
だからと言って肯定されるものではありませんし、
ワ族自身もいつ自分も首を狩られないかとおびえて暮らしていたのです。
村の周囲に深い溝を掘り、中に落ちたら上がってこられないようイバラのある植物を投げ入れ、
村によっては溝を三重にもめぐらして侵入者を防いでいました。
もっとも狙われやすいのは村の外にある畑に農作業に行くときだったとか。

どのような人の首を狩ったかというと、村によって様々。
敵対する特定のワ族の村の人の首を狩る場合もあるし、
たまたま村人が通りがかりに首を狩られたので、今度はそこの村の人を狩り返すということも。
弱い村にはたびたび首狩りに行ったという話も聞きます。
ターゲットとなった弱い村にとっては、なんとも恐ろしい暮らしだったわけです。
では、どんな首を狩るのかというと、
髭を生やした利口そうな男がいいとか、髪が長い方がいいとか、
頭も首もがっりしているのがいいとか、女を狩らない村もあれば、男でも女でもいいという村も。
ことによっては死者の首を狩ってもいいとか、村によって千差万別です。

別の村の取材で、狩るのはどんな首が良いのかと訊ねたことがあります。
同行していた研究者の頭を指さして、「こういう首が良いんだ」と答えたときは思わず苦笑しました。
その研究者は首が太く頭もがっしり男らしく、彼らにとって魅力的な頭のようでした。
例に挙げるのは申し訳ないのですが、彼は作家の立松和平さんタイプでした)

ワ族の首狩りは、中国共産党により1958年に禁止令が出されました。
表向きは止めたことになっていましたが、実体は1970年代後半まで散見されたということです。
禁止令を伝えに来た人民解放軍の首まで狩ってしまった村があるそうですから、
伝える方も命がけですねぇ。
鳥越憲三郎さんの取材によると、
新しいところでは1970年に確認されており、町の近くで女性教師が首狩りされたということです。
しかしその後もワ族同士ではさかんに行われていたそうです。
というのも、犠牲にする首にもワ族なりの等級があって、
民族でいえば、ワ族の首がもっとも最良ということだからです。
鳥越憲三郎さんは1970年後半から、少数民族地域への取材に入った学者さんで、
たいへん貴重な記録を残されています。
彼は共同研究者である建築家の若林弘子さんとチームを組んで多くの取材をしています。
私は編集者時代、
若林さんの建築記録本『高床式住居の源流』をお手伝いしたことがありますが、
この本もいまではたいへん貴重な記録となっています。

アイパンさんに「首狩りをやっていた昔と今とどちらがいいですか?」と訊ねると、
「そりゃ、いまのほうがいいさ。
昔はいつ突然狩られるか判らないから、暗くなるまで働くことはできなかったよ。
もし毛沢東が禁止しなかったら今でも首を狩っていたと思う。毛沢東は神様以上に偉大だ」
という返事でした。
実際、ワ族の村を取材していると、毛沢東崇拝の強さを痛感しました。
農耕儀礼だったとはいえ、首狩り時代に平穏な日々は少なかったのでしょう。

ワ族は歌垣(恋愛を目的とし、原則として即興の歌で受け応えをする)も盛んで、
アイパンさんも歌垣で結婚したということです。
その妻の姉がミヤンマーのワ族に首を狩られ、追いかけて行って狩り返したということでした。
父子連名も語ってくれて1時間半ほど、たいへん充実した話を聞くことができました。

狩った首は村の特定な場所で行われる農耕儀礼に使われるのですが、
「その後、その首はどうするんですか?」と訊ねると、
「要らなくなった首は、村のその辺に転がっていたよ。
子ども達がボール代わりに蹴飛ばして遊んでいた」
そう言ってカラカラと笑った顔は、内容の凄まじさに相反して、
楽しかった昔を懐かしむ普通のお年寄りの顔になっていました。



 ↑こちらはワ族の民族衣装を着たお婆さん。大きな耳飾りについ目が行ってしまう 

先回の蛇三昧といい、今回の首狩りといい、ちょっと強烈な話が続きましたかしらん?

参考文献:
『稲作儀礼と首狩り』雄山閣 鳥越憲三郎著 1995年
『アジア民族文化研究』アジア民族文化学会「中国雲南省ワ族文化調査報告」工藤隆 2005年


(雲南省西盟ワ族自治県力所王牙村 2002.9)

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