あみたろう徒然小箱

お気に入りのモノに囲まれ、
顔のつぶれたキジ猫と暮らせば、あぁ、極楽、極楽♪

忘れられない人々〔子ども編4〕 流し目の少女 タイ族

2013-11-29 | 少数民族あれこれ

おそらく中学2、3年生または高校1年生ぐらいと思われる少女。
タイ族の女性は、大人になると色気ムンムンで圧倒される感じですが、
少女から大人へ移行する年齢である、この年齢でももうその気配は濃厚。
この少女にしてこの状態です。
私にこんな色気があった時期は、長い人生、20代も30代もなかった。
なんという末恐ろしい色気でしょうか。

望遠で撮っていたので、私はかなり離れていたのですが
ふっとこちらを見たその目つきはけだるくてちょっと退廃的、ぞっとするほど魅力的でした。
祭りなので、2人の少女ともお化粧をしています。
祭りの日、タイ族のほとんどの女性が派手な唐傘をさしているか、
花飾りのついた白い麦わら帽子を被っています。

ついでに、タイ族の女性がいかに圧倒的に色っぽいか、他の画像もお見せしましょう。
まず、土手の群衆の中を横切って行く3人の女性たち。
その柳腰のしなやかな歩き方にうっとりして、思わずシャッターを切りました。


次に、この濃密な女性。
化学染料独特のごく鮮やかなトルコブルーの服にトルコブルーの唐傘。
ショッキングピンクの扇子で、なぜか後ろをあおぎつつ歩いていくのです。
頭は花のかんざしで満艦飾、
ムンムンとした雰囲気を振りまきながら、祭りの会場を闊歩していました。

私は、ここで写真を撮りまくっていたとき、
ほとんど男性の目でファインダーを覗いていたような気がします。
大人の女性にしてこうなんですから、
冒頭の黄色い服の少女がこんなに色っぽい流し目をしていても、ぜんぜん不思議じゃない。
この年齢でもじゅうぶん色気ムンムンの予備軍なんですから。

一方私はと言えば、ジーンズにカメラマンベスト、肩には一眼レフを掛け、
もう一方の手にはコンパクトカメラ、背中にはリュックと、なんとも色気のないいでたち。
そんな無粋な私を見て、彼女たちはなんと思ったことでしょう。
いやいや、彼女たちはそんなものにはまったく興味はありません。
なんといっても彼女たちのライバルは、
祭りの広場に大勢いるタイ族の女性たちなのですから。
如何に目立つか、いかに色っぽく見せるか、いかに美しく魅力的な女性に見えるか、
彼女たちの関心はそれだけ。
ジーンズなんて履いている外国人には微塵の興味もないのでした。

(中国雲南省景洪市、西双版納 1995.4)

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忘れられない人々〔子ども編3〕 川のほとりで タイ族

2013-11-23 | 少数民族あれこれ


雲南省最南部に近い西双版納(シーシュワンパンナァ)の4月は、
水掛け祭りで町中が大賑わいです。
町を歩いていて目を惹くのは、なんといっても女性たちでしょう。
タイ族の女性は柳腰ですらりとスタイルがよく、
どことなくけだるく色っぽい雰囲気を漂わせています。
極彩色のドレスにカラフルな唐傘を差し、頭にはたくさんの花かんざし。
同性ながら、ついついその圧倒的な華やかさと色気に魅せられ、振り返ってしまいます。

男たちは闘鶏に興じ、川幅の広い瀾そう江(ランソウコウ)では龍船競争が繰り広げられ、
街の中央では宝くじが大々的に売り出されます。
町中が年に一度の大きな祭りで浮き立ち、それはそれは華やかな雰囲気です。
ところが、男性陣ときたらいつもと同じ地味でこ汚い(対不起!)格好。
なんでこんなにまで男女で魅力が違うのでしょう。

一方、町から離れた村の暮らしには、ゆったりとしたのどかな時間が流れていて、
どことなく沖縄の小さな島の暮らしに雰囲気が似ていています。
村人は、突然民家を訪れた見知らぬ私たちに、
当然のように芭蕉の葉に包まれた粽(ちまき)を出してくれます。
これは、沖縄の祭りの際に作られる、芭蕉の葉で包んだ粽餅にそっくり。

村を歩くうち、大きな川のほとりに来たときでした。
数人の少女たちが川遊びに夢中になっています。
しばらくして水から上がって来たひとりの少女に、私の目は釘付けになりました。
日本で言えば小学校1年生ぐらいでしょうか。
岸辺の岩に掛けておいた鮮やかなピンクのサロン(腰布)をしなやかな手つきで巻くと、
ビーズのネックレスをくわえて、ふっと遙か彼方を見つめました。
トロリとした目が印象的な少女。
いったい何を考えているのでしょう。
一瞬、周りのことが何もかも消えてしまったかのように、しばらく動きを止めています。
少女の息づかいがこちらに伝わってくるようなひととき。
鮮烈なサロンの色とともに、あの情景はいまも鮮やかに蘇ってきます。

その後、少女はハッと我に返り、上着を着て髪をキュッと整え、
身支度を整えると、仲間たちと騒ぐふつうの少女に戻りました。

(中国雲南省景洪市、西双版納 1995.4)

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忘れられない人々〔子ども編2〕 突貫小僧ここにあり アカ族

2013-11-19 | 少数民族あれこれ

顔は汚れ放題、じっとしていることがない。
いたずらしてはめまぐるしく駆け回る


さてさて、次は突貫小僧のお話。
前回、タイ・チェンライ北部、センチャルン村のアカ族の子ども達について書きました。
その画像の中で、とんでもなく顔が汚れている腕白坊主がいるのに気づきましたか?
私たち訪問者の周りをはしゃぎまくって常に駆け回っているその坊や、
私は「突貫小僧」と呼んでいました。
突貫小僧という呼び方は、若い人には馴染みがないかもしれませんね。
「突貫」は突き通すこと、全力を挙げて一気に進めるなどの意ですが、
常に動いていて、やることも素早くて、
一気に突き進むわんぱく坊主のことを、かつて突貫小僧と呼んでいました。
(これ、私の故郷静岡だけの言い方かもしれません)

この子はまさに「突貫小僧」の典型そのもの。
私たち訪問者(相方+私+通訳)の周りを、
まるでツバメか蠅に例えたいぐらいめまぐるしく駆け回ってはしゃいでいました。
広場を歩く私たちに率先して脱兎のごとく進行方向に走ったかと思うと、一気に戻ってきます。
私が女の子2人のツーショットを撮ろうとしていると、すっ飛んできて一番前で「ワ~イ」。
ときどき母親らしき人が遠くから坊やに何か叫ぶのですが、そんなことはお構いなし。
素直に言うことなんて聞きゃしません。
ときどきお姉ちゃんらしき14、5歳の少女が捕まえようとするのですが、
逃げまくっては私たちの側に戻ってきて、得意な顔をしてはまた逃げまくります。

その顔たるや、まぁ見事な汚れ。
いまどきの日本にはいない、遊びで汚れた得意な顔と汚した服。
私は仲良くなった女の子2人と付き合う合間、
“これは見応えがあるわい”と、妙に感心してときどき見入っていました。

ところがところが、母親から厳しい命令がお姉ちゃんに飛んだと思ったら、
逃げ回る坊やはお姉ちゃんに本気で追いかけられてしまいました。
とうとう追いつかれて、むんずと手首を掴まれ、庭の隅にある水道に連れて行かれ、
頭の上からザブンと水をかけられ、ごしごしと顔をこすられてしまいました。

左/否応なく柄杓の水をかけられる。
右/「あぁ、いたずら坊主を弟に持つと大変だわ」とお姉ちゃん。
坊やは情けないほどきれいになって、心なしか元気がなくなりました。



全身見違えるようにきれいになっちゃった坊や、
今度は母親に呼ばれてすごすごと近づき、全身着替えさせられました。
画像で見ると、坊やはお母さんにそっくりですね。
着替えると、中身はとにかく外見はごくごくふつうの子に。

捕まって洗われているところを見られ、小ぎれいになった坊や、こんどはきまりが悪くなったらしい。
それからは、私たちの側には近づいて来ませんでした。
その心理状態がなんとも可愛くて、心の中でクスッと笑いながら、
こちらも妙に寂しい思いをしたのでした。

(タイ・チェンライ北部/センチャルン村 1999.3)

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忘れられない人々〔子ども編1〕 掌の上の赤い飴 アカ族

2013-11-17 | 少数民族あれこれ

子ども達の歌は身ぶり手ぶりつき。
夕日を浴びる屋根の下、幸せぷんぷん発散のひとときが過ぎていく


雲南行きの話を書いたのに、最初に紹介するのがタイのアカ族というのもなんですが・・・・。
これは中国雲南省南部にいるハニ族と同じ民族ですので、そのあたり大目に見ていただいて。

雲南省南部には農耕を得意とするハニ族が住んでいます。
ハニ族には、神話、歌垣などの文化のほか、
味噌、納豆などの発酵食品、焼畑農耕、下駄ばき、独楽遊びなど、
日本と共通するするものがたくさんあります。
ハニ族が住んでいた一帯に国境線ができ、中国にいるハニ族は「ハニ族」、
ラオス、タイ、ベトナム、ミヤンマーに住むハニ族は「アカ族」と呼ばれています。

ハニ族は、悪いものが村に入らないための結界(仏教用語:一定の場所を分ける仕切り)として、
村と外の世界との境に鳥居を作り、
鳥居の上には木製の鳥、鳥居の側には自然木を男女に見立てた結合の像を置くのが習わしです。
この男女像は、悪いものが村に入るのを防ぐためのものだそうです。
中国のハニ族は改革開放以来その習慣は禁止され、
政府の厳しい統制によりいろいろな習俗が失われていきました。
一方、中央による厳しい統制がないタイではいまも大らかにそのようなものが村の入り口にあり、
結界としての役割を果たしています。

村への入り口に数カ所、結界としての鳥居がある。
左は村への道にある鳥居、右は裏手の森から村への入り口


同じ民族ではありますが、静かでやや重い雰囲気のハニ族に比べ、
アカ族の人々は底抜けに明るくて人懐こく、子ども達はのびのびと天真爛漫です。
村全体が協力し助け合い幸せそうに見えます。
タイ北部チェンライの近郊にあるセンチャルン村に入ったときのことです。
村のあちこちを見学する私たちに、ぞろぞろと子ども達がついてきます。
中国、アジアに限らず、子ども達は興味津々でついてきますが、
このとき私にずっとついて来た2人の女の子がいました。
上の画像の赤い服の年上の女の子と、2、3歳小さな黄色い服の女の子です。
おそらく姉妹ではなく、仲良しの遊び仲間という感じです。
二人はしっかりと手を繋ぎ、一方の子は私とも手を繋ぎ、3人並んで歩くことになりました。
写真を撮りたいとき手を離すのですが、手が空けばサッと繋がれてしまいます。
そこへ近づいてきた男の子、
一眼レフの大きなレンズを熱心に覗き込み、レンズをぺろりと舐めています。
「あ、だめだめ!」苦笑しながらレンズを拭いて・・・。

そんなことをしながら、炎天下の村の広場を歩いていたときのことです。
黄色い服の年下の子が、年上の子の口元のわずかな変化に気づいたようです。
歩きながら彼女の口元をじっと見つめました。
その視線に気づいたお姉ちゃん、口の中から半分に割った赤い飴を出して掌にのせました。
黄色の服の女の子は、掌の飴をつまみ口に入れてにっこり。

小さな掌にのった赤い飴は、いまも色鮮やかに蘇ってきます。
日本でもお菓子を分けてあげることはあることでしょうが、
舐めている飴を割ってまで分けてあげることはどうでしょう。
お菓子が氾濫する日本では、飴なんて分けてもらってもそれほど有り難いことでもありませんし、
いったん舐めたものを汚いとだって言われかねません。
楽しいこと美味しいものは分け合うのが当り前。
ここではそんな精神が小さな子ども達にも染み渡っています。
生活も物資も日本はとても豊かだけれど、日本にはない豊かさがここにはある。
掌の飴は私の羨望の象徴としてまぶたに焼きついています。

で、2人の女の子と一緒に同行者に追いつき、民家の屋根下に行くと、
子ども達みんなで声を合わせての大合唱が始まりました。
歌に合わせて身ぶりはつくわ、大声を張り上げるわ陽気で、
見ているだけで気持ちが良いったらない。
それが冒頭の画像です。

機会を捉え、記念に女の子2人をツーショットで撮ろうとすると、そうはいかない。
そこは腕白坊主のこと、「僕だっているぞっ!」とやって来てこうなります。↓ 

う~ん、好きだなぁ、こういう子ども達。
いまの日本では見られない、
天真爛漫な子どもの世界を垣間見た幸せなひとときでした。

(タイ・チェンライ北部/センチャルン村 1999.3)

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忘れられない人々 〔序〕 何で私が雲南行き?

2013-11-11 | 少数民族あれこれ
いまも忘れられない人はたくさんいますが、
私にとってもっとも強い存在感をもっているのは、中国&アジアの少数民族の人々です。

かれこれ20年弱前のことになります。
古事記を中心とする古代文学が専門の相方が、
そのモデル化を進めるため、中国照葉樹林帯にある稲作文化圏の調査を始めることになりました。
そこで私は出版編集業の仕事を中断し、同行することにしました。
職業柄、カメラマンと組む仕事も多く、取材ジャンルもさまざま。
私ほど取材、撮影、交渉などに長けた助手はいなかったと思いますよ。
エヘン! 
ま、自画自賛はとにかく・・・・・・

それまで日本の古代文学研究者の眼差しの先には、
沖縄をはじめとする日本古来の伝統行事や祭祀があり、
彼らはそれらから日本古代文学研究を模索してきたのです。
とは言え、沖縄のすぐ先には中国長江流域の稲作文化圏があり、
そこには、古くから日本と共通の神話、歌垣、習俗などがあり、
現代でも当たり前に生活に根付いているのです。
近代化と共に失われたり形を変えてしまった日本のそれとは、
比べものにならないほど貴重なものが残っていました。
しかし日本文学系の研究者は国境を越えるのが苦手な上、
中国は文化大革命を経てなお、天安門事件が起こるような不安定な時代で、
外国人が入ることができる場所はごくごく限られていました。
加えて、言葉の問題、方法論、ツテなど、
研究調査のために中国へ簡単に入ることなど到底できません。

相方が中国少数民族調査を目指したのは1994年で、
1989年の天安門事件を経て、ようやく少し落ち着いた頃でした。
しかし目指すのは観光客が到底行かない辺境の少数民族居住地域。
中国には55の少数民族がいるのですが、中国人の92%は漢族(漢民族)です。
漢族の文化習俗は国家段階の日本には影響を与えましたが、
日本の縄文・弥生時代に通じる基層文化に共通のものはわずかで、
基層文化の大半は長江流域に住む稲作文化圏の少数民族文化に通じています。

そんなわけで、
外国人がほとんど行かない奥地の少数民族居住地域に調査として行くのですから、
そう簡単にコトが運ぶはずがありません。
外国人が住む場所も、泊まるホテルも決められていたし、
何をするにも「外事弁公室」という
外国人を管理する機関の許可無しにはコトが運ばない時代でした。

しかも改革開放による中国の近代化に晒され、
少数民族の貴重な文化習俗も風前の灯火という状況。
いま行かなければという相方の切実な思いと、
たった一人でそんな僻地に乗り込んでいく状況を考えると、
この私めに「手伝わない」という選択肢はなかったというのが実情かな?

少数民族調査には、日本語と中国語、中国と少数民族語のW通訳が必要ですし、
二度と行くことがないだろう地域だという切迫感もあって、
ビデオ撮影、写真撮影、録音、筆記記録、質問取材など、取材体勢は万全をとりたいし、
その他、シャイで用心深い少数民族との関係をほぐす社交係、
私たちから見れば非常に危なげな衛生状況から健康を守る衛生係も必要。
たった一人での少数民族調査は無理というものです。

前書きが長くなりましたが、
そんなわけで出版関係の連中に「『雲南通信』でも送って来いよ」と言われ、
送別会をされ、お餞別にデイバッグをいただいて送り出されました。
中国雲南省に住んだのは1995年からの1年間、その間は毎月1、2回、
翌年帰国してからからも年1、2回、それぞれ10日間ぐらいの調査に出向き、
少数民族調査は合計30回ぐらいに及びました。

彼らが語り継いできた神話、歌で意思を伝え合う歌垣、習俗・祭祀は、
素人の私にとっても非常に興味深いものでしたし、
少数民族の衣装はすばらしく目を見張るものばかり。
それにも増して特筆することは、2度と行くことができないだろう辺境地で接した人達の中に、
いまも決して忘れることができない人がたくさんいることです。
その思い出は私の一生の宝物。

これから、彼らの話を書いてみたいと思います。