築50年の古風なリビング、ガラス棚には人形が長年飾られていた。
この他、和室に仏像が4、5体
「目鼻が付く」とは、「だいたい目安が立つこと」を言いますが、
これは「目鼻が有るもの」に翻弄され、しばし目鼻が付かなかった話です。
実家を売り出すため本格的な大整理を始めたのは、今年5月。
特に集中したのは、7、8、9月の暑いさなかでした。
築50年近い古家が建つ土地を売るには、“更地渡し”が前提条件となります。
解体屋さんがバリバリッと壊す前に、家族の名前が入っている書類等を処分し、
膨大な蔵書やコレクションを然るべき所に処分しなりません。
地域のゴミ集積日に合わせて帰省するのでは到底処理しきれませんから、
市のゴミ集積場に持って行くことになります。
そのようにして車で運んだ処分ゴミは、45Lのゴミ袋150個以上。
今年の夏は、過酷な重労働を強いられた夏でした。
8月半ば、見積りに来た解体屋さんは家屋の中と庭を一通り巡った後、念を押しました。
「目鼻のあるものは置いていかないでください」
「目鼻のあるもの」とは、眼、鼻が付いている人形のこと。
亡き父は外国土産の人形が好きだったので、
リビングと客間の飾り棚にはたくさんの人形があり、別室には仏像4、5体がありました。
解体業者の方は様々な物を処分することになりますが、とりわけ嫌がるのは人形だそうです。
処分したあと事故などがあった際、人形が祟ったのではないかと恐れるからだとか。
人形には“念”や“霊”が入っていると考えるからでしょうか。
聞いたことはありましたが、直接言われたのは初めてなので戸惑いました。
人形供養に出すには、お寺や神社などの人形供養の日に合わせわせ帰省しなければなりません。
それでなくても疲労困憊の日々、これ以上の往復は負担です。
塩を振りかけてお清めをし、「ごめんなさい」と謝ってから、
見えないよう包んで集積場に持って行こうと考えていました。
それからしばらくの間は、大物の整理のための労働に次ぐ労働、
「目鼻があるもの」はすっかり後回しになっていました。
さて、最後にリサイクル屋さんを呼び、
活用できる物を持って行ってもらう運びになりました。
冷蔵庫、洗濯機、台付き碁盤などを搬出したあと、ひとこと言われました。
「人形は、捨ててはいけませんよ」
またまた目鼻が有るものの話が、ここで出るとは・・・。
こちらが捨てると先を見越してか、念押しをされてしまいました。
こうまで言われすっかり覚悟を決め、腹を括ることに。
静岡市の神社やお寺など、人形供養をしてくれるところを片っ端から調べました。
供養の日程が決まっているものが多い中、
そのような事情なら持参してもいいですよと言ってくれたのは、浅間神社でした。
春には例大祭があり、静岡市民にとって最も馴染みの深い神社です。
供養の費用を聞き、駐車場の場所を訊ね、いざ持って行こうと思い、はたと考えました。
神社が仏像の供養もしてくれるのだろうか?
それはいくらなんでも無理というもの。
と諦めて、ここで頓挫。
ふと思いついたのが、近所にある曹洞宗のお寺です。
人形と仏像の供養をお願いすると、
そのお寺で母の葬儀をしたことと近所のご縁から、快く引き受けてくれたのです。
いまから見に行きますと、早速住職が下見に来てくれました。
そしていまは袈裟を着けていないから本格的にはできないがと、仮供養をしてくれたのです。
住職と依頼者の双方がお香を唇や衣服に付けて清め、短かなお経を上げてくれて仮供養終了。
本供養は、2週間後に実家に来る日に合わせ来てくれることになりました。
さて、本供養当日。
袈裟を着た住職は麦わら帽子をかぶり、自転車に乗って定時前に来宅。
お焼香をして「抜魂呪(ばっこんじゅ)」を唱えてくれました。
その後、家の周囲をぐるりと回りながらお経を唱え、
解体する家屋に感謝の鎮めをしてくれました。
まさに灯台もと暗し、気さくに引き受けてくれる住職に巡り会えてほんとうに良かった。
家屋の供養までしてくださって、申し訳ないようなお布施代金でした。
「これらの人形や仏像は、外から見えるようにして袋に入れ、
『供養済み』と書いてゴミ集積場に出してください」
そう言い残し、住職は炎天下のなか自転車で帰って行きました。
ギラギラと照る真夏の太陽の中、
薄手の袈裟をなびかせて走る住職に心から感謝しました。
翌日、人形と仏像を可燃と不燃に分けて透明の袋に入れ、
「○○寺 供養済み」と大書きした紙を貼り付け、ゴミ集積場に持参しました。
集積場の職員さんは、私が渡した袋を見て、
「こうしてくれると助かるんですよね。最近は供養してくれる人が少なくなって・・・」
しみじみ言いながら、袋を受け取ったのです。
目鼻の有るものを処分するに関して、これが3番目のダメ押し。
解体業者、リサイクル業者、ゴミ集積場の作業員の方など、
物を処分することに携わる業者の方々は、
「目鼻の有るもの」をそのままポイと捨てることをとても嫌うのです。
すっかり廃れてしまった人形供養行事ですが、
或る種の業種の人達の中には、いまだ人形への畏れの精神が色濃く残っています。
私には霊感などはなく、念の入った事物への精神の傾きは何も感じませんが、
だからといって単純に片づけられないものがあります。
家族を長年愉しませてくれた人形、見守ってくれた仏像への感謝、
そしてそれらを処分することになる人達への配慮が必要です。
思いもかけず、「目鼻の有るもの」に翻弄された夏でした。
しかし然るべき供養をきちんとしたあと、妙に晴れ晴れしているのも事実です。
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