あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

憎しみと正義

2016-08-07 13:27:52 | 存念
広島原爆の日
尊い平和紡ぐ…兄被爆、長男9・11で犠牲


戦争、テロのない世界…米国人へ訴え
 米軍が広島に投下した原爆で当時12歳の兄を失い、2001年9月の米同時多発テロで長男(当時35歳)が犠牲になった伊東次男(つぎお)さん(81)=広島市安芸区=は6日の平和記念式典に参列し、兄を追悼し、長男に思いをはせた。いずれも米国が絡んだ戦争やテロで2人を失った伊東さんは、7年前から米国人にも被爆証言をし、平和の尊さを訴えている。「憎しみではなく、許す心を持たなければ」。つらい過去を抱えるからこそ「核もテロもない世界」を願う。

 オバマ米大統領が広島を訪問した今年5月27日、伊東さんは原爆慰霊碑前であった式典に招待された。兄と長男の遺影をかばんにしのばせ出席し、「兄貴、米国のトップが来て献花してくれたよ」と心の中で語りかけた。

 1945年8月6日午前8時15分。伊東さんは爆心から約12キロ離れた学校にいて大きなけがはなかった。兄宏さんは爆心地に近い旧制広島一中(現県立広島国泰寺高校)で被爆した。直後は軽傷だったが、自宅にたどり着き「『助けてくれ』と叫ぶ友人を見殺しにしてしまった」と話して倒れこんだ。約1週間後、髪がごっそり抜け、次第に容体が悪化。「水を」と求める兄に、母は涙を流しながら脱脂綿で口元を湿らした。兄は「次男、お父さんとお母さんを頼むよ」と言って9月1日に亡くなった。「米国め、こんちくしょう」。伊東さんは子供心に強い憎しみを覚えた。

 2001年9月11日。銀行員だった長男和重さんが働く米ニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が突っ込み、ビルは崩壊した。写真を片手に、夫婦で病院を探し回った。翌年にニューヨーク州の裁判所から死亡宣告を受けたが、遺体はまだ見つからない。

 悲しみと憎しみを抱えていたが、04年に地元の小学生に被爆体験を講演する際、「自分自身の心に憎しみを抱えながら、平和を語っていいのか」と気づいた。

 その後、米国で知り合った現地の日米交流団体からの依頼をきっかけに09年以降、米国から広島を訪れる教師や学生らに家族を失ったつらさとともに、相手を許す心の大切さを伝えてきた。

 「米国との接点ができた自分だからこそ、できることがある。日米の役に立つことが、2人の供養にもなる」。深い悲しみは決して消えることはないが、そう確信している。






憎しみによって平和を築いていくことはできない。と伊藤さんは気づいたんやろな。
憎しみとはどのようなものであっても利己的なものだから。
利己的なものから全ての争いは生まれる。
だから仏教も聖書も憎しみを捨て去り、赦すことの大事さを教えた。
「赦すこと」とは、人間の行う悪を肯定することではなく、悪を行い続ける人の身に自分がなって考えていくことだと思う。

「加害者」と「被害者」とあるなら、自分自身がその「加害者」の身になって考えていくことが大事なんだと思う。
何故、人は悪を行い続けていかなくてはならないのか。
悪とは「他者を利己的な行いによって苦しめる」ということ。
多くの人は誰かに憎しみを感じることが何度もあるだろう。
しかし自分を振り返ってみれば、自分も誰かにとっての悪を行っていることに気づく。

自分は30歳まで家畜の肉を食べ続けてきたけれども、人間がどんなに生きるのに必要だから食べると言っても家畜たちからしたらそれは「他者から与え続けられる苦しみ」以外のなにものでもなく、家畜たちは人間たちから延々と悪を行われていることになる。
しかし自分も含めて、人は誰かを憎むことはするが、自分自身の行っている悪にはなかなか目を向けようとしない。
だから「憎しみ」というのはそれが「利己的」なものであることがわかる。

誰一人、どの生物をも苦しめない、その悪を行わない人は世界で一人もいない。
だから他者の罪を憎んだり、裁いたり、非難するよりも、罪というものが自分の中にも存在していることに目を向けて、他者を赦しなさいということなんだ。

憎しみを持った瞬間から平和は遠ざかっていく。
自分の中にひとかけらでも憎しみが存在しているなら、その発言は人を切り裂く「剣」となってしまう。
そしてその「剣」はやがて自分の身を切り裂こうと降りかかってくるだろう。

どんなにこの世界から苦しみを減らし、良くしたいという思いがあっても、その思いの中に「憎しみ」が隠れていれば、それは連鎖して自分の無くしたい苦しみへと繋がってしまうだろう。
「憎しみ」を捨て去るには、自分の中の「正義」に疑いを持つのがいい。
そしてその「正義」が利己的なものでないかどうかを考え続けていくことが必要になる。
果たして微塵も「利己的さ」はないと言い切れる人間はいるだろうか。
もしいたら、その思想は何より危険である。

「利己的さ」のない人間はこの世に存在し得るのだろうか。
「憎しみ」を捨て去るに一番いいのは自分の中にも同じく「利己的」なものがあることを認めることだ。


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