あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

神聖なるエロス

2017-11-23 15:27:53 | 存念
ここのところ(11月に入った辺りから)やけに身体と気が重い。
みちた(うさぎ)の病気が関係しているのかもしれないが、その前からきつくなってきたように想う。
その頃から起きて一時間も椅子に座っているのがしんどいので昼頃から赤ワインを飲み始め、結局酔い潰れて褥(しとね)にダウンするという有様だ。
今月はいつも買っている野菜セットとクリーンルームリーフ野菜セットを買わず、代わりにじゃがいもと人参とマクロビ惣菜パンを大量買いした。それだけで今月は越すことになる。生野菜が食べたいが買うお金が無い。
その駄目な食生活も関係しているのだろうか。せっかく治った肋間神経痛がまたぶり返してきた。
パンは買わず、リーフ野菜セットを買えばよかったと後悔している。

今日、変わった夢を見た。
狭い部屋の奥に、変な未来的なマシーンが置かれてあり、生命体をその中に入れるとその生命体が根本的な部分から変化させることができるというような後戻りは不可能な危険なマシーンであるようだった。
そのマシーンを使いに誰かが連れてきた小さな子兎が逃げだしたのでわたしは追いかけて捕まえて戻ってきた。
必死に逃げようとするあの子兎はもしかしてみちただったのだろうか。
だとするとみちたを連れてきたのはわたしということになる。
確かにみちたが根本的な部分から変わってほしいと想うところは幾つも在る。
抱っこできるような子になってほしい、子兎に生まれ変わって寿命を延ばして欲しい、人間の男性になってくれたならみちたと結婚したい。
みちたはそれが、嫌なのかもしれない。
悲しい。

その変わった部屋の中に、わたしよりもだいぶ年上であるだろう一人の女性が部屋の右側に置かれた椅子に座っていた。
わたしはその女性の膝の上に、頬を摺り寄せ、その子宮に服の上からキスをするように顔を摺り寄せ、とても甘えた。
女性の両の手に自分の手を重ね合わせ、わたしの手は変に汗ばんでいて、わたしの濡れた両の手を彼女も愛おしそうに絡めて繋いでくれた。
そこにある安心は、絶対的なものであり、わたしは感じるのだった。
わたしが本当に求めていたものはこれなのだと。
その女性とわたしのなかに、エロスの欲情は一切なかった。それなのにどこまでもセクシュアル(性的)な恍惚な幸福感に満ちていたのは何故なのだろうか。
その女性が誰であるかわたしはわからなかった。
顔も見えなかった。
もしかしたらわたしの母なのだろうか。母はわたしが4歳のときに44歳で死んで母の記憶はない。
4歳までにわたしが甘えた母なのだろうか。それともわたしの理想とする母なのだろうか。
もしくは、未来のわたし自身なのかもしれない。

わたしの恋愛対象は男性であり、その男性にわたしは確かに性的な欲求を強く向ける。
男性がその気になっていないうちから、わたしは男性を誘うような行動をして相手をいつも欲情させる。
しかし自分から誘惑しておいて相手がその気になると、わたしの熱はそこで一気に醒めてしまうものがある。
何故なのだろうか。相手が実際に欲情した途端、わたしが本当に求めているのは多分これではないと感じるからではないか。
もし、相手が本当の母親や父親や、または姉や兄であった場合、わたしがどんなに相手を誘うことをしても本当の意味で欲情はしないのではないか。
または自分に子供がいた場合、子供が性的な関心から乳首を吸ってきたりしても、身体は本能的に性的な反応を示すかもしれないが、そこには本当の欲情というエロスな官能があるわけではないのではないだろうか。
つまり性的な反応がでて身体は感じる感覚にはなっても、心は決して欲情していないという状態がそこにはあるのではないだろうか。
これが本当に心でも欲情して性的欲求を向けた場合、実際に近親相姦的な事態になるだろう。
でも大抵、家族というものは、そうはならない。歯止めがしっかりとそこに利いているからだ。
心から性的な欲情には至らないという歯止めだ。
これが家族でなかったらそれがないのでそのまま性的欲求を相手に向けて行為を欲求する。
男性がわたしの欲情に反応して性的欲求を返すときにわたしが一気に引いて冷めてしまう感覚になるのは、わたしが男性にも家族のような愛情を求めているからなのかもしれない。

わたしはだからセックスという行為に、心から満足する感覚もなければ幸福な感覚になったことがない。
相手が行為の最中にわたしを求めてくれることには一種の喜びがあるが、それはごく小さな誤魔化しめいた充足感であり、その証拠に、セックスのあとは決まって行為をするまえよりも一層欲求不満が強くなり寂しくなる。
わたしが求めているのはこれではないといつも想い知らされるからではないか。

わたしは男性の愛情というものを強く求めながら、同時に男性の愛情というものを心から信じて安心することができないのも、そういう理由があるからではないか。
わたしが求めるのはいつでも、”異性に対する愛情以上の愛情”なのだと想う。
わたしは男性に対して、父や母、または子供がわたしを愛するような愛情をしか求めてはいないということだ。
男性とのセックスとは、性的欲求によって求め合う行為ではなく、親が子供の排泄行為を促したり排泄したあとのお尻や生殖器を綺麗にしてやるような必要な行為として、わたしが男性に対して求めているのだろう。
子供がお乳を求めれば母親はこれを愛情もって与える。わたしが求めているのは性的欲求を超えたところに在るこのような愛情だけなのだろう。
わたしがそれを感じられないとき、わたしは男性の性的欲求を嫌悪し、または恐怖し、幻滅と失望のなかに一気に気持ちが離れて性的な欲情だけがそこに残って行為はいつでも冷め切ったものに感じてしまうのはそういう理由からなのだろう。

どこにいるだろう。そのような男性がこの世界に。わたしを子として、または母として愛する人間がどこにいるだろう。
だからわたしはそのような理想の男性を自分の世界に創りあげ、彼に愛されるほどにわたしはこの世界に対して絶望的なものを感じて行く。

わたしの求めるエロスは正しく神のエロス。
わたしだけに向けられる、神聖なるエロス。

























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