あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

わたしの神は

2018-01-30 02:45:47 | 存念

死の直前に、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(Фёдор Миха́йлович Достое́вский)は手帳にこう記したという。

「わたしは子供のようにキリストを信じ、宣伝するのではない。
わたしのホザナ(神への讃歌)は、疑惑の溶鉱炉 をくぐってきたのだ。」 

ドストエフスキーのことは、わたしはまだ良く知らないが、きっとあの御方も、ドストエフスキーと同じような”疑惑の溶鉱炉”をくぐりぬける必要があるのじゃないか。と、想ったぁ。俺ぇ。

わたしにとっての神は、キリストではないが、キリストによく似た存在であることは確かである。
それが、どのような神であろうとも美しいとは、わたしは言わない。
しかしイエス・キリストが美しいのは、これが揺るがないものであり、イエスを哀れむ日など、わたしには来ないだろう。
イエスを哀れむとは、美しくない者が、美しい者を哀れむが如くの愚かなことだ。
そのような者がこの世で多数派か少数派か知らないが、とにかく、愚かなことだ。

イエスが今もなお変わらず美しいのは、浅ましい哀れみを受けているからではなく、嘲笑を受け続けているからなのである。
わたしはイエスを美しくする為になら、いくらでもイエスを嘲たいと想っている。
イエスを美しくする為に、わたしはどのような拷問も、与えるだろう。
イエスを美しくする為に、わたしはどのような醜い顔でも彼を嘲笑うだろう。
イエスを美しくする為に、わたしはすべてを棄て去ってでも、着いてゆくだろう。
しかしわたしが本当に崇拝しているのは、イエスではない。
それはあの御方もわかっていることだろう。
っていうか、前、直裁にゆうたしな。
わかってなかったら、な、アホザナ。やろう。

というわけで、愛すべきドストエフスキーのおっちゃんのイエスへの愛の言葉に酷く感動したので、それを貼り付けて終りたいと想うぅ。





「各編(=『カラマーゾフの兄弟』の前身たる〔偉大なる罪人の生涯〕という題で構想されていた大小説の各編)を通じて一貫している問題は、わたしが生涯にわたって意識的にも無意識的にも苦しんできたもの、つまり、神の存在ということです。」 


「わたしは自分のことを申しますが、わたしは世紀の子です。
今日まで、いや、それどころか、棺を蔽(おお)われる まで、不信と懐疑の子です。
この信仰に対する渇望は、わたしにとってどれだけの恐ろしい苦悶(くもん)に値した か、また現に値しているか、わからないほどです。
その渇望は、わたしの内部に反対の論証が増せば増すほど、 いよいよ魂の中に根を張るのです。
とはいえ、神様は時として、完全に平安な瞬間を授けてくださいます。
そういう時、わたしは自分でも愛しますし、人にも愛されているのを発見します。
つまり、そういう時、わたしは自分の内部に信仰のシンボルを築き上げるのですが、そこではいっさいのものがわたしにとって明瞭かつ神聖なのです。 
このシンボルはきわめて簡単であって、すなわち次のとおりです。
キリストより以上に美しく、深く、同情のある、 理性的な、雄々(おお)しい、完璧なものは、何ひとつないということです。
単に、ないばかりではなく、あり得ないとこう自分で自分に、烈(はげ)しい愛をもって断言しています。
のみならず、もしだれかがわたしに向かって、キリ ストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、わたしはむしろ真理よりもキリストとともにあることを望むでしょう。」 



「貴女は、分裂ということを書いていらっしゃいますね? 
しかし、それは人間に、ただし、あまり平凡な人間ではありませんが……人間にきわめて多く見られる普通の精神現象です。
一般的に、人間の本性に固有の特質ですが、しかし貴女のように強い程度のものは、あらゆる人の本性に見られるというわけにいきません。
つまり、そういう意 味において、貴女は小生(しょうせい)にとって肉身なのです。
貴女の内部分裂は、まさしく小生にあるものと同一です。
小生には、一生を通じてそれがありました。
それは大きな苦しみでもありますが、大きな享楽でもあります。
それは強烈な意識であり、自己検討の要求であり、おのれ自身と人類に対する精神的義務の要求が、貴女の本性に存在することを示すものであります。
これがすなわちこの分裂の意味するものであって、もし貴女の知性がそれほど発達しておらず、いますこし凡庸(ぼんよう)なものであったら、貴女はそれほど良心的でなく、そうした分裂もなくてすんだでしょう。
それどころか、ひどいうぬぼれが生まれたに相違ありません。
しかし、なんといっても、この分裂は大きな苦しみです。
尊敬してやまぬ愛すべきカチェリーナ‐フョードロヴナ、貴女はキリストとその聖約をお信じになりますか? 
もし信じておいでになれば(それとも、信じようと熱望しておられれば)、心からキリストに帰依しなさい。
そうすれば、この分裂の苦しみもずっと柔(やわ)らいで、精神的に救いが得られます。
しかも、これが肝要なことなのです。」 


「神は、永遠に愛することのできる唯一の存在ですから、それだけでもう私にはどうしても必要なのです。」


「世界を支配しているのは神と神の掟である。」 


「神のうちに不死もまた存するのです。」 


「不死の観念こそ――まさに生命そのものであり、生きた人生であり、その最終的な公式であり、人類にとって真理と正しい認識の最大の根源なのだ。」 


「霊魂の不滅こそ一切の救いの基である。」 


「人間存在の法則は、ことごとく一点に集中されています。
ほかでもない、人間にとっては、常に何か無限に偉大なものの前にひざまずくことが必要なのです。
人間から無限に偉大なものを奪ったなら、彼らは生きていくことができないで、絶望の中に死んでしまうに相違ない。
無限にして永久なるものは、人間にとって、彼らが現に棲息(せいそく)しているこの微少な一個の遊星と同様に、必要欠くべからざるものなのです。」 


「キリストはこの大地が神を生み出しえた限りの、紛れもない神である。」 


「すべては神の御手に委(ゆだ)ねられていることなので、僕はお前にただ、神のお導きに期待をかけながらも、 自分でもせいぜい気をつけるようにする、とだけ答えておく。」


「人は計画するが、これを決めるのは神の思(おぼ)し召し。」


「神の御意志によることは、どんな力でも変えられるものではありません。
――運命というものはたいていこの世界を、まるで玩具(おもちゃ)のように弄(もてあそ)んでいるものなのです。
――運命は人類にそれぞれの割を振り当てますが……しかし運命は何も見ていません。
――けれども神様はきっとあらゆる不幸から逃れることのできる道を示して下さることでしょう。」


「神のない生活は――苦しみでしかないのだよ。」 

 

< 信仰告白の言葉 >


 

最後に、わたしはもう一度言う。

わたしはイエスへの愛よりも、深い愛が、わたしのなかに息づいていることをわたしは知っているのです。

 それを言い表すなら、”狂気沙汰の愛”と言えるやもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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