日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

波木井山智恩寺(遠野市新町)

2018-10-02 23:07:27 | 旅行

初秋の遠野へ行ってきました!



遠野は昔から民話の伝承がよくなされていた地だったそうです。
明治時代に柳田国男が「遠野物語」を発表したことで、奥深い独特の文化を持つ街として、広く知られるようになりました。



遠野の駅から南に伸びる通りを行くと、やがて鍋倉城址に至ります。
鍋倉城は仙台藩との国境警備を理由に、八戸の根城から国替えとなった南部氏の居城でした。
現在は公園となっていますが、南北朝時代に創建された南部神社は残っています。



南部神社には根城南部氏の初代から八代目当主までをお祀りしています。
もちろん初代は波木井實長公です!



実は今回、南部氏の歴史を知りたくて遠野の鍋倉城を訪問するのが目的の旅だったのですが・・・
風情のある街だな~、なんて思いながら散歩していて、見つけちゃいました!!



井桁に橘・・・それにあの屋根、相当でかいお寺だぞ!



ジャーン!どうだと言わんばかりの堂々たる山門が迎えてくれました。



「波木井山智恩寺」というお寺のようです。てことは、波木井實長公ゆかりのお寺・・・なのかな?
「北身延」とも刻まれています。いずれにせよ全くノーマークのお寺でした。



阿行と


吽形がお寺の入口を護っています。



恐らくここ、鍋倉城のお山の一画を寺域にしていると思われます。だから参道もゆるい上り坂です。



本堂が見えてきました。斜面に造られたお寺のため、僕のカメラでは本堂のでかさが表現できていませんね。



扁額は・・・ん~・・・一字目がわかなんないな。
お寺の名前が智恩寺だから、「智恩精舎」かな?



この日ご住職は不在でしたが、先代ご住職がお話をして下さいました。
やはりここは波木井實長公につながるお寺でした!



特に根城→遠野南部家の中でも、始祖の實長公は別格のようですね。
遠い昔から實長公の菩提を弔うために、わざわざ遠く身延の久遠寺まで使者を遣わすなど、南部家の中で法華信仰は代々、保ち続けられたようです。



そしてその信仰は遠野の街にもじわじわと広がってゆきました。
そうなると信仰の拠点が欲しいところですが・・・残念なことに明治期までこのあたりには日蓮宗のお寺がなかったそうなんです。



明治初期、法華信仰のある町民達によって寺院建立の募金が行われ、まずは参拝場ができました。
そして当時の南部家の当主は、鍋倉城にあった實長公のご尊像をその参拝場に寄進してくれました。
遠野の信者さん達は、一日も早くお寺を建立したいと願いました。
しかし・・・ここに大きな壁がありました。



僕も今回、初めて知ったのですが、1631年に江戸幕府は「新寺建立禁止令」なるものを出していたそうです。これは幕藩体制強化の一環で、お寺も幕府が管理・統制してゆこうということなのでしょう。本末制度とか檀家制度なんかもこの頃始まったそうなんです。
それが明治になっても続いており、更に明治維新で廃仏毀釈もあり、とても新寺を建立できる環境ではなかったようです。



そんな時、遠野に布教に訪れた日忍上人というお坊さんがいました。日忍上人は佐野の妙音寺というお寺からやって来た方のようです。
遠野の現状を目の当たりにした日忍上人は、一計を案じました。
千葉に廃寺寸前の「智恩寺」というお寺がある、そこを遠野に移せないものかと。



南部家の当主・行義公は早速、鍋倉城址の一画を寄進し、遠野・智恩寺の建立が始まったそうです。
そして明治23年、遠野の法華信者念願の、智恩寺が完成しました。
参拝場に安置されていた實長公の御像も智恩寺に移され、山号を「波木井山」と称するようになりました。



南部家、日忍上人、そして遠野の信者さん全員が苦労して、必死で建てたお寺。落慶の時には皆さんどんなに嬉しかったことでしょう。
お寺に古い新しいなんて関係ない、建立までの経過が純粋すぎて、感動しちゃいました。

ちなみに例の「新寺建立禁止令」と「廃仏毀釈」のせいで、日本のお寺は400年以上の歴史を持つ古刹か、創建100年余りの若いお寺しかなく、江戸~明治初期の250年はぽっかり空白になっているそうです。



先代ご住職に許可をとり、本堂内の欄間に彫られた日蓮聖人身延ご入山の彫刻をパチリ。
身延山久遠寺の始まりを象徴する、大切な瞬間ですよね!



久遠寺とのつながりはまだまだあります。
現在、久遠寺境内の開基堂に奉安されている實長公の御像は、以前、智恩寺にお祀りされていた御像なのだそうです。
實長公自らが工匠に命じて造った、とても歴史がある御像だと言われています。
太平洋戦争が終戦して間もなく、久遠寺の懇請で開基堂に移転安置され、智恩寺には代わりに久遠寺に奉安されていた御像がやってきました。
僕はどちらの御像も見たわけですが、いずれも味がある表情ですね!両方見ると、何となく實長公の雰囲気を感じ取れます。



御像を交換したその年は實長公の650遠忌にあたり、ここ智恩寺は久遠寺から「北身延」の公称を認められたそうです。
僕はとても相応しい称号だと思いますね。



偶然見つけた東北・遠野の波木井山智恩寺。今となれば呼ばれて行ったような気さえします。
歴史こそ浅いけれども、知れば知るほど深い、とても深い。

次回、久遠寺の開基堂を参拝した時の心持ちが全然違うだろうな。
ご霊跡を巡ることで信仰を深めるって、こういう事なんでしょうね!














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