日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

延寿山妙浄寺(南部町南部)

2018-08-13 23:01:28 | 旅行
1274年、日蓮聖人が身延山にお入りになる際の経路は、中山の富木殿に宛てて書かれた手紙に、詳しく記録されています。


5月12日に鎌倉を発った日蓮聖人のご一行は、
12日 さかわ 酒輪(匂) (↑画像は小田原市酒匂の法船寺)


13日 たけのした 竹ノ下 (↑画像は小山町竹ノ下の常唱院)


14日 くるまがへし 車返 (↑画像は裾野市深良の車返し霊場)


15日 ををみや 大宮 (↑画像は富士宮市黒田の本光寺)

暇を見つけて少しずつ訪問しているうちに、もうここまでやって来ました!

今日は16日にご一行がお泊まりになった「なんぶ 南部」のご霊跡を訪問しました。

山梨県南部町は東に天子山系、西に身延山系がそびえ、その間を流れる富士川に沿って民家があります。
南部町というだけあって山梨県の最南端に位置します。
しっかし暑い!昼過ぎに訪問したせいか、暑くて人が誰もいません。


わ~、大きな法塔。
ここから妙浄寺の寺域なのかな?


台座に寺名が刻まれています。


山裾にお堂が見えますね!


境内の手前に、日蓮聖人のご尊像。
合掌姿のお祖師様です。僕も合掌。


厳しい表情です。
そういえば富木殿御書には、身延に至る道中の状況として「けかち(飢渇)申(す)ばかりなし。米一合もうらず。がし(餓死)しぬべし。・・・」ともあります。
度重なる天変地異や政情不安の影響が、こんな山間部にも及んでいることに、日蓮聖人は驚いたのかもしれませんし、また法華経弘通への決意を新たにしたのかもしれません。


ご尊像の近くに井戸がありました。「御硯水𦾔蹟」となっています。

日蓮聖人がこの地にお泊まりになったのは16日、ちょうど生涯の師・道善房の月命日であったことから、この井戸で手水をし読経をしていたそうです。
そこに臨月の妊婦が瘧(おこり:熱病だと思います)を起こして危険な状態になり、日蓮聖人に加持祈祷を求めてきました。
妊婦は花枝を手に持っていました。日蓮聖人はその花を井戸の釣瓶に差して祈祷し、その水で護符を書いて飲ませたところ、瘧は治癒して安産したそうです。この由縁で井戸は「花釣瓶井戸」、井戸水は「護符水」と呼ばれているそうです。

日蓮聖人はこの井戸の水でお曼荼羅をお書きになったので、「御硯水」とも呼ばれているそうです。
お祖師様の御硯水、けっこう訪問してきたな~。もういくつ目だろう?


山門が見えてきた!


山門です。屋根の張り出しがキレイなラインを描いています。


山号は「延寿山」です。薬いらずの山号です。


本堂です。周囲の景色のせいでしょうか、昔の庵を感じさせる、いい雰囲気のお堂です。


扁額には「轉灋輪道場」。今の漢字でいうと「転法輪(てんぽうりん)道場」でしょうか。
「転法輪」は仏教用語で、お釈迦様の教えが世界中のあらゆる人の元に行き渡る的な意味だと思います。

このお寺で何があったのでしょうか?


日蓮聖人が南部の地を訪れた時、このお寺は真言宗の妙楽寺だったそうです。
ここからがミソで、妙楽寺を開創したのは新羅三郎義光公、つまり甲斐源氏の祖であり、あの南部家の遠い祖先の方でした。
そのため、甲斐源氏にとっても、南部家にとっても大切なお寺だったのです。


ちょっと話は脱線しますが、妙浄寺のほど近くに、南部館址の碑がありました。
波木井實長公の居館跡は久遠寺の至近にありますが、長くこの地を治めていた南部氏の本拠地は、古くはこのあたりだったのかもしれません。

もちろん碑の隣にはお題目の法塔。
南部氏先祖の霊を法華経で手厚く供養していることが窺えます。


話は戻って1274年5月16日、日蓮聖人は早速、妙楽寺の住職と法論し、帰伏させたといいます。
南部家の祖先が開創した大切なお寺であるからこそ、法華経の正しい教えが必要だと思われたのでしょう。


住職は日蓮聖人に帰依して法名を「日寿」、寺名も妙浄寺に改め、開山を日寿上人、開基を波木井實長公(法寂院日圓上人)としました。
このため、甲州では最初の弘教霊場とされています。

さきほどの扁額「轉灋輪道場」の由縁でしょう。


本堂裏の小高い場所にある歴代お上人の御廟に参拝。
日寿上人の墓石を探したのですが、古く刻字が不明瞭な墓石が多く、わかりませんでした。


振り返るとすごい景色!天子山系ギリギリを富士川が下っているのがわかります。

七百数十年前、お祖師様もこの景色を眺めて、何を思ったのでしょうか。


翌5月17日、富木殿御書でいう「このところ(身延山)」にお着きになりました。


僕は足かけ3年かけてご入山の道を辿りました。
日蓮聖人は超筆マメであったゆえに、700年以上昔の人でありながら、生涯に歩かれた経路、お泊まりになった場所が結構、わかっているようです。
中でもご入山のルートは、その逸話も含めて特にはっきりと判明しており、日蓮聖人は明治か大正くらいのお坊さんだったんじゃないかと錯覚しそうになります。

実は、僕が住む家のすぐ近くの小径も、その経路だったと菩提寺のお上人に教えられました。
普段何気なく歩いている小径が、お祖師様棲神の地・身延山に通じているのかと思うと、より愛着が湧いてきますし、同時に身が引き締まる思いです。

また何か新しい情報が入手できたら、このブログで報告します!
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