セール品を抱えながらSCEIのビルを見上げ、「一次面接落ちたなあ~、あの時格好良い事を言おうと思わず、ちゃんと自分の気持ちを伝えられればまた違ったのかなあ」などという苦い思いがぶり返したり。
それでも結局は病気になって、会社を辞めるハメになるのだと思うと、これはこれで良かったんだなと考えている。そんなしんみりとした、本日の午後。
あ、インポート店で可愛いけどヘンなスニーカーを買ってしまった。勢いって怖い。
勢いと言えば、ドラゴン久保は2ゴール!!奥もゴール!グラウもおまけゴール!
「圧倒的じゃないか、我が軍は……」
このセリフ書くと、負けちゃうかしら
とりあえずセールの興奮も落ち着き、『ワンダと巨像』の感想を。
基本的には、馬に乗って巨像を捜す→巨像を倒す、の繰り返し。
やり始めは巨像を捜すのに面白みが無く、無駄に広いフィールドに苦痛を感じた。
しかし、ふと「このゲームはそんなに気を張り詰めなくていいんじゃないか」と思うと、若干気持ちに余裕が。
するとあら不思議、ローアングルでワンダとアグロが走る姿を眺めたり、遠くの景色を見回すようになった。そして「じゃ、見張り台も一緒に捜すか」と散歩しながら見張り台を捜し、果物を捜し、のんびりと巨像を捜す旅を楽しむように。
巨像を倒すという作業は非常に単純で、興奮もするが逆に毎回ボス戦をしているようなものだから、単調だと飽きてしまう。
だからこそこの「移動の息抜き」がとても大切なものになった。
アグロと一緒に広い草原を駆ける日常から、巨像と対峙した瞬間に甦る「少女を生き返らせる」という使命と緊張感。
この切り替えが楽しい。
巨像を倒すたびに黒い触手に襲われ、古の祠に帰って来る。その物悲しい音楽と、増える人影、壊れる偶像が、どんどんこのゲームの終末に近づいているようで悲しくなった。
だって16体しか巨像が無いのが分かっているから、頑張れば頑張るほど最後のページにまでいってしまう。
ゲームは一枚のディスク(昔はカセットか)に全ての物語が収められている。その中にどれほどの物語が入ってるか、目で判らない。
しかし『ワンダと巨像』は最初から宣言されている。
「少女を助けたければ、この地に棲む全ての巨像と戦い、そして倒さなければいけないことを」
どこへ行くか分からないジェットコースターは怖いが、終わりが分かっている観覧車は寂しい。
『ICO』は「いつになったらこの広大な城を抜け出せるのだろうか」という不安があったが、『ワンダと巨像』は「もう少しで結末が来てしまう。その結末やいかに?」という不安が付きまとっていた。
そう考えると『ICO』は物語性が高く芸術性が高いと言われているが、ゲームらしいつくりと言える。
逆に『ワンダと巨像』はアクション要素が強いのに、本のつくりに近いのだろうか。
話が逸れた。
とにかく巨像を倒した数が10を超えたあたりから、アグロとの日常を楽しむようになった。
週刊ファミ通(会社帰りに買うの恥ずかしいね!)を読んで尻尾の光るトカゲを倒すとゲージが上がると知って、トカゲを倒しまくったり。
ちょっとでも果物のありそうな木を見つければ木に登ったり。
少女に多少の罪悪感を感じながらも、寄り道ばっかりしていた。
だから結末は……。
いや、結末の前にアグロがの落下が!
もう、落馬とか馬の骨折というのは見ていて辛い!
昔偶然BSでドバイワールドカップを見ていたら、ホクトベガが転倒、骨折というのを目の当たりにしてしまったので
あれはビックリして母と兄と「何が起きたんだ」と慌てていたもんだ。
……馬との別れは辛い。
その後アグロは生きていて嬉しかったが、あの左足を引きずる姿が、晩年のおペロさんの足を引きずる姿と重なって
「痛いよー!」と叫んだものだ。
またまた話がズレた。
アグロが橋桁から落ちて怒りはMAX、16体目を倒した後はエンディングを迎えた。
『ICO』プレイの時から放っておくとキャラクターが勝手に動くのを知っていたので、今回も「ワンダは少女にチューでもしないのかな←不純」とワンダを少女のそばに立たせてアップで見ていた。その時から彼の変化は気づいていた。
ワンダはだんだんと顔色が悪くなり、服は汚れ、髪が黒くなってきている。
この小さな変化はエンディングで最悪の姿への引き金になった。
ドルミンに乗っ取られているワンダを見た、あくっま兄妹の発した言葉↓
「角ー!」
全然別物と思っていたストーリーが、『ICO』と絡み合った瞬間だった。
それでも結局は病気になって、会社を辞めるハメになるのだと思うと、これはこれで良かったんだなと考えている。そんなしんみりとした、本日の午後。
あ、インポート店で可愛いけどヘンなスニーカーを買ってしまった。勢いって怖い。
勢いと言えば、ドラゴン久保は2ゴール!!奥もゴール!グラウもおまけゴール!
「圧倒的じゃないか、我が軍は……」
このセリフ書くと、負けちゃうかしら
とりあえずセールの興奮も落ち着き、『ワンダと巨像』の感想を。
基本的には、馬に乗って巨像を捜す→巨像を倒す、の繰り返し。
やり始めは巨像を捜すのに面白みが無く、無駄に広いフィールドに苦痛を感じた。
しかし、ふと「このゲームはそんなに気を張り詰めなくていいんじゃないか」と思うと、若干気持ちに余裕が。
するとあら不思議、ローアングルでワンダとアグロが走る姿を眺めたり、遠くの景色を見回すようになった。そして「じゃ、見張り台も一緒に捜すか」と散歩しながら見張り台を捜し、果物を捜し、のんびりと巨像を捜す旅を楽しむように。
巨像を倒すという作業は非常に単純で、興奮もするが逆に毎回ボス戦をしているようなものだから、単調だと飽きてしまう。
だからこそこの「移動の息抜き」がとても大切なものになった。
アグロと一緒に広い草原を駆ける日常から、巨像と対峙した瞬間に甦る「少女を生き返らせる」という使命と緊張感。
この切り替えが楽しい。
巨像を倒すたびに黒い触手に襲われ、古の祠に帰って来る。その物悲しい音楽と、増える人影、壊れる偶像が、どんどんこのゲームの終末に近づいているようで悲しくなった。
だって16体しか巨像が無いのが分かっているから、頑張れば頑張るほど最後のページにまでいってしまう。
ゲームは一枚のディスク(昔はカセットか)に全ての物語が収められている。その中にどれほどの物語が入ってるか、目で判らない。
しかし『ワンダと巨像』は最初から宣言されている。
「少女を助けたければ、この地に棲む全ての巨像と戦い、そして倒さなければいけないことを」
どこへ行くか分からないジェットコースターは怖いが、終わりが分かっている観覧車は寂しい。
『ICO』は「いつになったらこの広大な城を抜け出せるのだろうか」という不安があったが、『ワンダと巨像』は「もう少しで結末が来てしまう。その結末やいかに?」という不安が付きまとっていた。
そう考えると『ICO』は物語性が高く芸術性が高いと言われているが、ゲームらしいつくりと言える。
逆に『ワンダと巨像』はアクション要素が強いのに、本のつくりに近いのだろうか。
話が逸れた。
とにかく巨像を倒した数が10を超えたあたりから、アグロとの日常を楽しむようになった。
週刊ファミ通(会社帰りに買うの恥ずかしいね!)を読んで尻尾の光るトカゲを倒すとゲージが上がると知って、トカゲを倒しまくったり。
ちょっとでも果物のありそうな木を見つければ木に登ったり。
少女に多少の罪悪感を感じながらも、寄り道ばっかりしていた。
だから結末は……。
いや、結末の前にアグロがの落下が!
もう、落馬とか馬の骨折というのは見ていて辛い!
昔偶然BSでドバイワールドカップを見ていたら、ホクトベガが転倒、骨折というのを目の当たりにしてしまったので
あれはビックリして母と兄と「何が起きたんだ」と慌てていたもんだ。
……馬との別れは辛い。
その後アグロは生きていて嬉しかったが、あの左足を引きずる姿が、晩年のおペロさんの足を引きずる姿と重なって
「痛いよー!」と叫んだものだ。
またまた話がズレた。
アグロが橋桁から落ちて怒りはMAX、16体目を倒した後はエンディングを迎えた。
『ICO』プレイの時から放っておくとキャラクターが勝手に動くのを知っていたので、今回も「ワンダは少女にチューでもしないのかな←不純」とワンダを少女のそばに立たせてアップで見ていた。その時から彼の変化は気づいていた。
ワンダはだんだんと顔色が悪くなり、服は汚れ、髪が黒くなってきている。
この小さな変化はエンディングで最悪の姿への引き金になった。
ドルミンに乗っ取られているワンダを見た、あくっま兄妹の発した言葉↓
「角ー!」
全然別物と思っていたストーリーが、『ICO』と絡み合った瞬間だった。