会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

新約聖書のマタイ伝4章の「悪魔の誘惑」考 柴田聖寛

2018-09-30 11:29:51 | 信仰

 世界の四大宗教は、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ですが、去る6月にイエス・キリストのゆかりの地であるエルサレムを訪れたこともあって、私は今聖書を読み返しています。若い頃から聖書を読んできましたが、もう一つ理解できないことがありました。つい最近のことですが、クリスチャンで日光市在住の上杉哲哉さんと柳津の花ホテル滝のやの講演会でお会いすることができ、新約聖書のマタイ伝4章の「悪魔の誘惑」について質問をしたところ、その解釈について長文のメールをいただきました。

 上杉さんは「イエスキリストは誘惑に負けない方であり、聖書には誘惑に打ち克つ知恵が書いてある」と述べていられます。そして、あくまでも悪魔の誘惑は「御霊」に導かれてのことであり、「石をパンに変える」「神殿の上から身を投げる」「この世の栄華を得るための悪魔礼拝」といった悪魔による試みに対して、イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」「あなたの主である神を試みてはならない」「引き下がれ。サタン。『あなたの神である主を拝み、種にだけ使えよ』と書いてある」と応じられたことを指摘されています。

 物質的なものよりも、信仰が優位に立つべきであるということは、伝教大師様も「道心の中に衣食有り、衣食の中に道心無し」と書き記しており、道を求めることの大切さを説いておられるのです。

 伝教大師様は山家学生式において「悪事は己れに向へ、好事は他に与へ、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」と書いておられます。上杉さんがペテロの手紙第一1章18節の「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖いだされたのは、銀や金のような朽ちるものにはよらず、傷も汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によったのです」を引用されていますが、それが私どもの大慈悲にあたるのではないでしょうか。

 唯一神を絶対視する信仰と、衆生の誰もが仏性を備えているという私どもの信仰とは大きな違いはありますが、お互いが分かり合うために努力することは大切です。今後とも敬虔なクリスチャンである上杉さんから色々と教わりたいと思っております。

 写真 イエスが説教されたオリーブでの記念撮影(葉上照澄大阿闍梨の足跡を辿って聖地エルサレムにて平和を祈る旅)


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