会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

日光山輪王寺と身延山久遠寺の資料調査で大きな成果 柴田聖寛

2020-11-23 09:43:35 | 天台宗

 

 令和2年11月10日発行の『天台宗報』通巻336号には、天台宗典編纂所による「日光山輪王寺・身延山久遠寺資料調査を実施」という報告書が掲載されています。天台宗の法灯を絶やさないために、貴重な文献をマイクロフィルムにするという作業が実施され、その模様が詳しく紹介されています。
 なぜマイクロフィルムかといいますと、デジタル機器は、最近の機材で画素数が向上する傾向があり、機材を変更するたびに現像された画像に大きな変化が出てしまいます。また、被写体をフィルムに焼き付けることで、時代が変わってもの解像度の変化がないばかりか、管理を適切に行うことができるからです。
 本年は8月25日から27日まで日光山輪王寺宝物殿、28日は日蓮宗総本山身延山久遠寺が調査の対象となりました。
 同編纂所は、日光山輪王寺では幕末の千日回峰行者願海編『佛頂尊勝陀羅尼明実験録』三冊、江戸後期の碩学である慧澄大和尚撰の『儀軌伝授要略』や慧澄大和に関連する興雲律院蔵『興雲院輪番記録』3冊について撮影しました。
 また、身延山久遠寺では『一流相伝法門見聞』などとともに、伝教大師最澄撰の『決権実論』の最古とみられる写本も確認撮影しました。
 『決権実論』というのは、渡邊守順著の『伝教大師著作解説』によれば「徳一法師の三乗一乗の主張に対して反論した問答書」です。そこには徳一の反論文も載っている貴重な文献です。
 日本仏教の歴史が解明されるためにも、天台宗典編纂所による資料調査は大事なことです。それに携わっている皆さんには、心から敬意を表したいと思います。

             合掌

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伝教大師伝④天台学を究めるために唐に渡る  柴田聖寛

2020-11-18 07:42:40 | 天台宗

  

 伝教大師様が唐に渡られた目的は、正統な天台教学をマスターすることと、天台の典籍を日本に持ち帰ることでした。桓武天皇は側近で和気清麻呂の長男である和気弘世に対して、高雄山寺での伝教大師様の講会に随喜の意を伝えられ、天台教学の興隆を指示したのです。
 その背景には、天台大師智顗の師である南岳慧思禅師(なんがくえし)をして、日本の聖徳太子として生まれ変わったという話が奈良時代末期に流布されており、三論と法相の争いを収拾するためには、天台教学に依拠するしかない、との立場から。桓武天皇は伝教大師様をバックアップしたのです。この説を広めたのは、唐からわざわざ戒律を伝えるためにやってきた鑑真の弟子思託であったともいわれます。
 桓武天皇の思いを弘世が伝教大師様に伝えたのでした。それを聞いた伝教大師様は、答表として上表文をお書きになったのでした。この説には尾ひれがついて、小野妹子が隋に出かけた際に、太子が慧思であったときに用いていた『法華経』を取りに行ったという話までも付加されました。
「つねに恨らくは、法華の深旨、なおいまだ註釈せざること、を。幸いに天台の妙理を求め得て、披閲すること数年、字謬り行脱して、いまだ細趣を顕わさず。もし師伝を受けざれば、得たりといえども信ぜられず。誠に願わくは、留学生(るがくしょう)、還学生各々一人を差(つか)わして、この円宗(天台宗)を学ばしむれば、師師あい続いて、伝燈絶えることなからん」

 天台教学を日本に根付かせるためには、唐の天台山に赴き、深い教えを知る必要があると主張したのでした。師の行表によって、一乗仏教に帰依するようになったとしても、本当の意味での天台の僧になったわけではなかったのです。三論宗と法相宗との論争で頭角を現したとはいえ、そこから先を目指すには、新たな脱皮を求められていたのです。
 また、注目すべきは、その文章に後半の部分では、伝教大師様は、天台宗の正統性を主張するにあたって、龍樹などの『中論』に立脚する三論や、世親の『唯識論』に立脚する法相を厳しく批判していることです。伝教大師様は、あくまでも経宗の立場に固執されました。「経」とは釈迦が説かれた教えであり、それを勝手に解釈したのが「論」でありました。いずれの宗派も「経宗」であることにこだわったのです。三論や法相は「論宗」と断じたのです。
 伝教大師様のその上表文を受けて、桓武天皇は延暦21年(802)9月20日付で、伝教大師様を「天台法華宗還学生」に任ずるとの勅旨が和気入鹿を通じてもたらされました。このほか、天台法華宗の留学生、還学生は伝教大師様以外にも、通訳のため同行した義真、さらには、円基、妙澄らも一緒でした。
 還学生1年ほどの短期間で帰国できる学生で、留学生は20年間現地にとどまらなくてはなりませんでした。還学生の方が立場は上で、国家的な要請にもとづいて派遣されたのでした。
 伝教大師様が義真らを伴い、第16次の遣唐使船の一員として出発したのは、延暦22年4月のことで、大阪湾から出発したのでした。しかし、6日目に暴風にあってしまい、船が破損して唐に渡ることはできませんでした。一旦は中止になって九州にとどまりましたが、翌年5月12日に難波を発した第2船に乗り、現在は長崎県平戸市である肥前国松浦軍田浦を7月6日に出港し、再び唐を目指しました。
 4船のうち伝教大師様の第2船は9月1日、現在の浙江省寧波(せっこうしょうねいは)付近の明州鄮(ぼう)県に到着。弘法大師が乗った第1船は8月10日、福州長渓県赤岸鎮の近くに着きました。第3船は九州に引き返し、延暦24年7月4日、3度目の出発をしたが、目的を果たさず船を失いました。第4船は行方知らずになってしまいました。 唐の土を踏むというのは、生易しいことではありませんでした。ですから、伝教大師様は、航海の無事を祈られて、九州滞在中には、太宰府竈門山寺で、壇像の薬師仏4体を造られ、無勝浄土善名称吉祥如来と名付けたほか、賀春神宮寺や宇佐八幡にも参拝されたのでした。

                合掌

 

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雪吊りが終わりカラスウリの実が目立つ季節に 柴田聖寛

2020-11-11 19:04:43 | 境内の花

その下を掃き雪吊りの仕上がりぬ 片山由美子

 会津盆地を取り巻く山に三回雪が降ると、平地も白一色に包まれます。すでに北の飯豊連峰は白い壁で、磐梯山もうっすらと雪化粧をしています。秋になってから蜘蛛の巣が目につきましたので、大雪のなるような気がしてなりません。会津天王寺では、私が先頭に立って去る7日8日と雪吊りをしました。例年立冬の日に行っているもので、雪で枝が折れないように綱で保持する作業です。会津では御薬園の雪吊りが有名ですが、雪国の風物詩ともなっています。平成28年度に「会津三十三観音めぐり」が日本遺産に指定されたことで、冬でも二十八番札所である私どもの高田観音をお参りする方が増えており、会津天王寺の雪吊りや雪景色が写真撮影のスポットになっています。
 この句は雪吊りが終わった後に、仕上げの掃除をするという句です。何事もするにも、後始末が大切で、手を抜くことはできません。「仕上がりぬ」という句に、私は心を動かされました。
 雪吊りが終わった境内では、カラスウリの実が目立つようになりました。鳥が種を運んできて自生したものですが、焼酎につけておくと、火傷に効くともいわれています。縁起がよき実としても知られています。種の中心部が盛り上がったようになっており、そこから三方向に突き出した突起があることから、大黒様や打ち出の小槌のようで縁起がよいというので、財布に入れておくと金運が上がるともいわれています。

会津もいよいよ冬本番を迎えますが、時節柄くれぐれもご自愛ください。

          合掌

           

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若手研究者吉田慈順先生が一三権実論争に新視点 柴田聖寛

2020-11-08 15:19:07 | 天台宗

 

 会津天王寺主催、柳津の花ホテル滝のやの協力で、去る10月30日午後1時から同ホテルで、天台宗典編纂所編輯員で文学博士の吉田慈順先生をお招きしての講演会を開催いたしました。密にならないように20人に制限し、新進気鋭の研究者のお話を聞くことができました。
 まず、講演に先立って、慧日寺や薬師如来を復元された功労者である五十嵐源市前磐梯町長から挨拶があり、引き続いて私が吉田先生の経歴を紹介しました。比叡山などで一緒に修行をした吉田慈敬師のご子息ということもあり、ちょっとばかり長くなってしまいました。
 吉田先生は、その講演のなかで、最澄さんと徳一さんの論争は、中国での摂論派と唯識派との議論を引き継いだものであるとの、独自の見解を示されました。最澄さんが近江の国分寺で、師の行表から「即ち和上に心を一乗に帰すべきことを禀(う)く」ということがあって、天台に帰依するようになったという、という見方は説得力がありました。
 天台宗の布教をかねて今後もこうした講演会を催したいと思いますので、何卒よろしくお願いいたします。

           合掌

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