伝教大師様が唐に渡られた目的は、正統な天台教学をマスターすることと、天台の典籍を日本に持ち帰ることでした。桓武天皇は側近で和気清麻呂の長男である和気弘世に対して、高雄山寺での伝教大師様の講会に随喜の意を伝えられ、天台教学の興隆を指示したのです。
その背景には、天台大師智顗の師である南岳慧思禅師(なんがくえし)をして、日本の聖徳太子として生まれ変わったという話が奈良時代末期に流布されており、三論と法相の争いを収拾するためには、天台教学に依拠するしかない、との立場から。桓武天皇は伝教大師様をバックアップしたのです。この説を広めたのは、唐からわざわざ戒律を伝えるためにやってきた鑑真の弟子思託であったともいわれます。
桓武天皇の思いを弘世が伝教大師様に伝えたのでした。それを聞いた伝教大師様は、答表として上表文をお書きになったのでした。この説には尾ひれがついて、小野妹子が隋に出かけた際に、太子が慧思であったときに用いていた『法華経』を取りに行ったという話までも付加されました。
「つねに恨らくは、法華の深旨、なおいまだ註釈せざること、を。幸いに天台の妙理を求め得て、披閲すること数年、字謬り行脱して、いまだ細趣を顕わさず。もし師伝を受けざれば、得たりといえども信ぜられず。誠に願わくは、留学生(るがくしょう)、還学生各々一人を差(つか)わして、この円宗(天台宗)を学ばしむれば、師師あい続いて、伝燈絶えることなからん」
天台教学を日本に根付かせるためには、唐の天台山に赴き、深い教えを知る必要があると主張したのでした。師の行表によって、一乗仏教に帰依するようになったとしても、本当の意味での天台の僧になったわけではなかったのです。三論宗と法相宗との論争で頭角を現したとはいえ、そこから先を目指すには、新たな脱皮を求められていたのです。
また、注目すべきは、その文章に後半の部分では、伝教大師様は、天台宗の正統性を主張するにあたって、龍樹などの『中論』に立脚する三論や、世親の『唯識論』に立脚する法相を厳しく批判していることです。伝教大師様は、あくまでも経宗の立場に固執されました。「経」とは釈迦が説かれた教えであり、それを勝手に解釈したのが「論」でありました。いずれの宗派も「経宗」であることにこだわったのです。三論や法相は「論宗」と断じたのです。
伝教大師様のその上表文を受けて、桓武天皇は延暦21年(802)9月20日付で、伝教大師様を「天台法華宗還学生」に任ずるとの勅旨が和気入鹿を通じてもたらされました。このほか、天台法華宗の留学生、還学生は伝教大師様以外にも、通訳のため同行した義真、さらには、円基、妙澄らも一緒でした。
還学生1年ほどの短期間で帰国できる学生で、留学生は20年間現地にとどまらなくてはなりませんでした。還学生の方が立場は上で、国家的な要請にもとづいて派遣されたのでした。
伝教大師様が義真らを伴い、第16次の遣唐使船の一員として出発したのは、延暦22年4月のことで、大阪湾から出発したのでした。しかし、6日目に暴風にあってしまい、船が破損して唐に渡ることはできませんでした。一旦は中止になって九州にとどまりましたが、翌年5月12日に難波を発した第2船に乗り、現在は長崎県平戸市である肥前国松浦軍田浦を7月6日に出港し、再び唐を目指しました。
4船のうち伝教大師様の第2船は9月1日、現在の浙江省寧波(せっこうしょうねいは)付近の明州鄮(ぼう)県に到着。弘法大師が乗った第1船は8月10日、福州長渓県赤岸鎮の近くに着きました。第3船は九州に引き返し、延暦24年7月4日、3度目の出発をしたが、目的を果たさず船を失いました。第4船は行方知らずになってしまいました。 唐の土を踏むというのは、生易しいことではありませんでした。ですから、伝教大師様は、航海の無事を祈られて、九州滞在中には、太宰府竈門山寺で、壇像の薬師仏4体を造られ、無勝浄土善名称吉祥如来と名付けたほか、賀春神宮寺や宇佐八幡にも参拝されたのでした。
合掌