会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

伝教大師最澄様と小乗仏教 柴田聖寛

2024-09-04 16:08:00 | 読書

 大乗仏教とか小乗仏教とかいう言い方がありますが、それを明確に区別する考え方は日本仏教特有のもののようです。『現代語訳最澄全集』全四巻を執筆された、大竹晋先生の『大乗仏教と小乗仏教―声聞(しょうもん)と声聞乗とはどうみられてきたか』を読んで、この私でも、薄ぼんやりと理解することができました。
 声聞と縁覚(さまざまなものごとを縁として、独力で仏法の部分的な覚りを得た境涯)については、小乗仏教と呼ばれ、大乗仏教の利他行を重んじる菩薩とは区別されます。
 大竹先生は、インドや中国では、そうした小乗仏教の教えを拒絶したのではなく、あくまでも「同じ仏教ではあるが、劣った道である」と述べるにとどまり、「声聞乗は仏教の教えではない」と切る捨てたわけではないというのです。
 日本天台の開祖であられる伝教大師様の声聞乗理解が独得であったことを、インドや中国との違いから論じたのでした。声聞とは「仏の声を聞く者」という意味のサンスクリット語です。釈迦が実在しなくなってからは、その四諦(したい)の理を取得することで、阿羅漢となることをなることを目指しました。
 大竹先生の本を熟読することで、まず相違点を把握することができましたが、私としては、仏教の根本的な教えを伝教大師様が無視されたわけではなく、救いを求めている人たちに、利他行により菩薩となることを、自ら念じられたのです。それが法華経を源泉として、日本の大地に根を下ろすことになったのだと思います。
 いずれにしても、その根本にあるのは釈迦が説いたとされる「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」の四つの四諦(真理)です。この世の全て苦であり、それには原因があるという見方をします。そして、苦を滅するには「八正道(はっしょうどう)」が大事だというのです。「八正道」とは正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のことです。正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい瞑想のことです。  
 何が正しい解釈であったかというよりも、どのようにして仏教が日本化したかを解明する上でも、大竹先生のこの本は大いに勉強になります。

                合掌

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長講会の侍真僧による献茶が比叡山で執り行われました 柴田聖寛

2024-06-21 23:00:32 | 天台宗

 伝教大師最澄様が示寂されたのは、弘仁13(822)年6月4日のことでしたが、以来忌日には法華10講が営まれてきました。6月会(みなづきえ)、山家会(さんげえ)、長講会(ちょうごうえ)などと称され、現在では長講会を正式名としています。
 天台座主猊下をはじめ、探題大僧正が揃って出仕され、20名の大徳が全国より参集されます。その前に浄土院の院内や院外の清掃は1ヶ月かけて実施されます。
 そこでのクライマックスは、普段より伝教大師様御廟所である浄土院をお守りしている侍真僧(12年籠山比丘)による献茶が御廟内で行われることです。また、天台座主の登竜門である戸津説法を勤仕する説法師が座主猊下より指名されます。
 献茶に用いられるお茶は、伝教大師様が唐から持ち帰ったと伝える比叡山麓、坂本の日吉茶園の茶で、日吉大社の神職の方々が摘んでくださったものです。神仏が一体となった歴史を、今も再現しているのです。
 戸津説法は、伝教大師様が、日吉権現への報恩として『法華経』をお説きになったのであり、立場を超えての交流があったのです。争いが絶えない今の世にあったて、伝教大師様の教えほど尊いものはありません。

     合掌 

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聖寛の独り言①聖徳太子の17条憲法で僧も三宝の一つ 柴田聖寛

2024-06-09 19:54:05 | 信仰

 聖徳太子の17条の憲法の第2条には「篤(あつく)く三宝(さんぽう)を敬え三宝とは、仏と法と僧なり。 すなわち四生(しょう)の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)なり。いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん。人、はなはだ悪(あ)しきもの少なし。よく教うるをもて従う。それ三宝に帰(よ)りまつらずば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん」という言葉があります。
 三宝というのは、仏、法、僧のことを意味し、仏教徒はその三つを尊い宝と見なしたのです。まだ日本に仏教が根を下ろす以前であったために、聖徳太子は多くの人の教える必要があったからです。
 僧というのは、それだけ仏教徒にとっては敬愛の対象であったわけです。もちろん、同じ人間ですから欠点もあります。しかし、仏法を実践する者として、仏に仕える者として、己に厳しくあらねばならないのです。
 私は人よりも遅れて仏門に入りましたが、宝に価するような僧侶になるべく、日々精進を重ねてまいりました。『お寺さん崩壊』という本があるように、江戸時代に檀家制度ができたことで、ほとんどの寺が葬式仏教になってしまいました。位牌や仏壇は先祖供養と密接に結びついています。それを頭ごなしに否定することは間違いだと思います。仏教に関しても、日本独自のものがあってよいからです。
 私は天台宗の僧として、布教にも努めてまいりました。ささやかなことしかできませんが、世界平和を呼びかけるイベントにも参加しましたし、会津三十三観音霊場の本を東京の出版社から出しました。
 一仏教徒として私がしなければならないのは、常に仏教本来の姿に立ち返ることであり、日本仏教の特色である葬儀に関しては、これまで同様に大役を担っていくということです。
       合掌

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心の健康を保つための本を読む 柴田聖寛

2024-03-19 15:11:11 | 読書

 心の健康を保つには、脳のことを知らなければなりません。高齢になったことで、私もストレスに関心を抱くようになりました。アンデッシュ・ハンセンの『メンタル脳』(久山葉子訳)を読んでたことで、色々と勉強になりました。かいつまんで紹介したいと思います。
 脳が進化したのは、私たちが生きのびるためです。そのために安全な環境を維持したという感情が湧くのです。不安を感じるのは、何かがおかしいと私たちに伝えるからで、それ自体は問題がありませんが、不安が強すぎると「パニック発作」に襲われたりします。
 危険というものも時代とともに変わってきました。猛獣に襲われるとか、ちょっとした病気で亡くなることはなくなりましたが、それと違った危険にさらされています。世の中が複雑になったためで、ストレスから身を守るためには、深呼吸をするとか、つらさを言葉にする必要があります。忘れてならないのは、不安になるというのは、私たちを助けるためですから、うまく付き合うことです。
 世界は戦争、コロナ禍、気候変動とかいうように、世界は重大な脅威にさらされていますが、それに対処するには、私たち一人ひとりには限界があります。このため、その本では、自分が好きなことをするとか、世界が良くなるために自分ができることをするとか、ニュースやSNSに振り回されないような生活を提案しています。
 それでもネガティブな感情から抜け出せないときには、両親や学校の先生に助けを求めるのが得策です。メンタルを強化するためには、薬と運動、さらには、自分の感情を言葉にして語るセラピーも効果的です。それとは逆に警戒すべきは孤独であり、SNSによる過度な刺激です。
 私が深く共感したのは、幸せを追い求めず、身近な人間に幸せの材料を発見し、他人と一緒になって意味のあることに夢中になるという考え方です。
 脳はうまくできており、そこには進化の跡が刻まれていますが、その本に書いてあることは、仏教の教えと一緒だと思います。利他の精神で菩薩行に徹することの大切さを述べているからです。皆さんも是非お読みください。もし貸してほしければ、会津天王寺までお越しください。

        合掌

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比叡山の令和6年の言葉は「忠恕」 柴田聖寛

2024-02-24 19:31:08 | 天台宗

 比叡山から発する令和六年の言葉は「忠恕」と決まりました。年明けの去る1月1日に、延暦寺萬拝堂にて除幕式が執り行われ、水尾寂芳延暦寺執行より発表が行われました。
 「忠」は中と心から、偏「恕」という漢字は如と心からそれぞれできています。それで「忠」は偏らない心を、また「恕」はしなやかな心を表現しています。「真心を尽くし努めると共に、やさしい心を思いやる気持ちで1年間を過ごして欲しい」という願いで選定されました。この書はこの1年間根本中堂と一隅を照らす会館前に掲げられるほか、「比叡山時報」表紙の題字下にも掲示されます。
 私なりに「忠恕」という考えますと、今の時代に生きる一天台宗の僧として、伝教大師最澄様が説かれた教えを、どう実践するかだと思います。とくに、私は「臨終遺言合せて十箇条」のうちの「一、我生れてより以来、口に麤言(そごん)なく、手に笞罰(ちばつ)せず、今我が同法、童子を打たずんば、我がために大恩なり。努力せよ。努力せよ」という言葉が思い出されてなりません。
 極端な行動に走らずに、完璧ではなくても、若い人たちの手本になるべく精進したいと思っています。人心が乱れ、人と人との争いが続いています。そうした場所からできるだけ離れるためにも、「忠恕」という言葉は、今の世にふさわしいと思います。

     合掌

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