会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

武覚超師の「戸津説法」を聴聞するご縁に恵まれました 柴田聖寛

2023-09-19 05:37:25 | 天台宗

 天台座主の登竜門といわれる戸津説法が去る8月21日から25日までの日程で、滋賀県大津市下阪本の東南寺で営まれました。天台宗の一僧侶として私も、総本山比叡山延暦寺一山求法寺の御住職武覚超師の「戸津説法と『法華経』の略史」という演題を聴聞するご縁に恵まれました。
 宗内外の高僧や国内外の参拝者の約100名の方々を前にして、武覚超師は法華経が「忘己利他」(もうこりた)の実践であることを説かれたばかりでなく、法華経が聖徳太子以来の日本仏教の中心であった歴史を、かいつまんで説明をされました。
 武覚超師が話された中で、とくに皆さんに知っていただきたいと思ったのは「『法華経』とその略史」です。その部分の資料を抜粋して紹介いたします。

「『法華経』とその略史」

 法華三部経は『無量義経』1巻(開経)、『妙法蓮華経』8巻、観普賢菩薩行法経1巻(結経)からなります。古代インドのマガダ国首都王舎城の東北の霊鷲山(りょうじゅせん)での釈尊の晩年の説法をまとめたものです。
 中央アジア亀茲国(きじこく・くちゃ)出身の鳩摩羅什(くまらじゅう)により、長安に於いて西暦406年にサンスクリット語(梵語)から漢文へ翻訳されました。
 隋代の天台智者大師智顗(ちぎ・538~597)の大蘇山及び天台山華頂峰(かちょうほう)での修行と悟りにより、『法華経』を所依(しょえ)とする天台宗の教えと舌戦が確立された。
 日本においては飛鳥時代に聖徳太子(574~622) が『法華義疏』(ほっけぎしょ)をを著した。さらに日本最初の『憲法十七条』を制定し、『法華経』の精神で国を治めた。
 奈良時代には護国の経典として『法華経』が尊ばれ、聖武天皇(701~756)の勅願により全国各地には法華滅罪(ほっけめつざい)の寺として国分尼寺(こくぶんにじ)が建てられた。
 伝教大師最澄(766~822)は、遣唐還学生(けんとうげんがくしょう)として大唐国に渡り、天台山・台州(臨海市)・越州(紹興市)などを巡礼、求法して、七祖道邃(どうずい)・行満(ぎょうまん)の両座主より天台の教えと大乗戒、さらに順暁阿闍梨(じゅんぎょうあじゃり)より真言密教を比叡山に伝、仏の悟りを目指す「法華一乗」と「真言一乗」の教えを基調とする日本天台宗が開かれた。
 伝教大師の一乗仏教の確立により、天台宗は総合仏教として発展し、鎌倉時代には比叡山から法然上人(1133~1212)・親鸞聖人(1173~1292)・栄西禅師(1141~1215)・道元禅師(1200~1253)・日蓮上人(1222~1282)などの各宗派の祖師方を輩出し、日本仏教の母山と称された。
『法華経』は出家・在家を問わず、現在に至るまで幅広く信仰され実践され、日本文化の精神的支柱となっている。例えば、古くは『日本霊異記(りょういき)』や『源氏物語』、後白河法皇勅撰の『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』など、また、写経や絵画などの美術品によっても明らかである。近年では宮沢賢治の「ねがわくば妙法如来正遍知 大師の旨成らしめたまへ」(根本中堂前石碑)の詩文のように、『法華経』によって真の生き方に目覚め、生涯の支えとされたことなど、『法華経』の影響力は計り知れない。

 この文章を読むと。『法華経』はどういった経過で生まれ、どのようにして日本に伝えられ広まったかを理解することがでると思います。そのことを念頭に置くことで『法華経』はより身近なお経になるのではないでしょうか。

         合掌

戸津説法の資料と武覚超師の著書

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根本中堂の十二神将は焼き討ちを逃れた奇跡の像 柴田聖寛

2023-08-09 19:51:40 | 天台宗

 

 比叡山延暦寺では平成28年から10年をかけて根本中堂の大改修工事が行われていますが、それに合わせて、内陣に奉安されている仏像の修理も順次進められています。比叡山時報の令和5年7月8日号では、十二神将の今回新たに判明したことを「お薬師さまを守護する十二神将」「焼き討ちを逃れた奇跡の像」という見出しの記事で紹介しています。
 とくに話題になっているのは、十二神将と梵天・帝釈天の像内に「勧進僧栄賢」「中臣乙犬女」といった名前が見つかったことです。また、牛神からは「僧栄賢、同栄賀、同乙大女、正慶壬申元年六月日」と記されており、墨書で造仏年を正慶元(1332)年とほぼ特定することができました。さらに、巳神(ししん)からも墨で元徳2(1330)年と書かれていることが判明し、制作に複数年かけたことも判明しました。
 勧進僧の栄賢や仏師頼弁については不明ですが、比叡山の麓にある聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)蔵の『来迎寺要書』の記述から、同寺客殿にある日光・月光菩薩像は、元応元(1319)年に栄賢が勧進し、仏師の頼弁が造ったことが分かっています。
 聖衆来迎寺の日光・月光菩薩像は、もともとは京都岡崎の天台の円戒道場の古刹(こさつ)、元応寺(げんのうじ)の本尊といわれています。
 『来迎寺要書』で根本中堂が永享7(1435)年焼けて再建されたのちの文安4(1447)年頃に元応寺に十二神将が移されたましたが、応仁の乱によって失われてしまった、と伝えられています。
 現在の根本中堂の十二神将は一時的に元応寺にあったものであり、信長による比叡山焼き討ちで焼失した根本中堂が再建された天正13(1585)年頃に、以前の場所に戻ったという見方が、今回の比叡山時報では示されました。
 日本全国にあるお寺は、否応なく何度も焼失しているのが普通であり、その度の仏像の安置される寺が変ったとしても、それは不思議ではないのです。それまでは根本中堂の十二神将は根本中堂の再建年である寛永年間が有力視されていましたが、それよりも古い像であったというのが、エビデンスにもとづいて証明されたのです。
 この記事を読んでなおさら私は、天台宗の血脈の確かさを確認いたしました。十二神将のお姿を拝むことができるのは、私たち天台宗の先人の労苦があったからだと思うからです。

                  合掌

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劉宏副総領事(新潟総領事館)の離任パーティに出席 柴田聖寛

2023-07-29 10:57:43 | オピニオン

 

 ギクシャクした日中関係はお互いの利益にはならないと思います。私は福島県日中友好協会の会員であり、妻は日本に帰化しましたが、私たち夫婦は中国で知り合いました。娘は今北京の精華大学の大学院で学んでいます。それだけに、私は日中の懸け橋になりたいと願っています。
 遠藤久福島県日中友好協会会長のお供をして、去る7月11日に私は新潟市にある中国総領事館を訪ねました。劉宏副総領事が離任することになったために、お別れのパーティが開催されたからです。劉宏副総領事は5年間にもわたって、新潟県や東北6県の人たちと積極的に交流し、親密な関係を築かれました。劉宏副総領事が撒かれた種が必ず実を結ぶと私は信じています。
 私のような天台宗の僧侶にとっては、中国の地は憧れの地でもあります。伝教大師最澄様は天台山を、慈覚大師円仁様は五台山をそれぞれ訪れ、そこで持ち帰ったお経や学んだことを日本に持ち帰ったのです。そのおかげで現在の日本仏教があるからです。
 私のできることには限界がありますが、一僧侶として今後も「東アジアが平和でありますように」との祈りを日々捧げたいと思っております。このたびは中国総領事館の方々には本当にお世話になりました。今後ともよろしくお願いいたします。

御仏の教えを学べば平和なる願いを込めて今日も祈らん 聖寛

       合掌

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会津のダム建設での中国人犠牲者の慰霊祭に参加しました 柴田聖寛

2023-07-17 12:01:58 | オピニオン

 

猪苗代町の沼ノ倉にある中国人殉難烈士慰霊碑

中国駐新潟総領事館の劉宏代表総領事の来賓あいさつ

遠藤久福島県中国人殉難烈士慰霊碑保存会長(福島県日中友好協会会長)の謝辞

 中国との交流の絆を強めなくては、と実感しました。福島県中国人殉難烈士慰霊祭は福島県中国人殉難烈士慰霊碑保存会が主催して去る9日午前10時から猪苗代町の沼ノ倉にある中国人殉難烈士慰霊碑前で行われ、県内を中心に約100名が参列しました。
 同慰霊祭では、渡部英一福島県中国人殉難烈士慰霊碑保存会副会長が開会の辞を述べ、眞田隆浄土真宗本願寺派樹林山西円寺御住職による読経に引き続き、参列者による焼香が行われました。
 このあと、二瓶盛一猪苗代町長、中国駐新潟総領事館の劉宏代表総領事、橋本逸男公益法人日本中国友好協会副会長の来賓あいさつがあり、これに対して遠藤久福島県中国人殉難烈士慰霊碑保存会長(福島県日中友好協会会長)が謝辞を述べました。
 同慰霊祭終了後は、同町長浜のホテル「みなとや」で同保存会の総会も開催され、今年度の事業計画などが採択されました。
 同慰霊碑は沼ノ倉や宮下発電所の建設現場で犠牲になった中国人のために1971年に建立されたものです。沼ノ倉の発電所は1943年に着工し、1944年12月に完成しました。宮下発電所は1941年に着工し、運用を開始したのは敗戦後の1946年12月でした。約1000人の中国人がその過酷な労働に従事したといわれ、そこで25人の貴重な命が失われました。
 同保存会は福島県日中友好協会が中心になって2005年に発足しましたが、2015年に同慰霊祭で参列した、当時の程永華大使は「実際な行動をもって過去の歴史を直視し、また後世の人々に警鐘をならし、中日友好と永遠の不再戦を訴えるために、たゆまぬ努力を続けてきた」ことに感謝の意を表しました。
 会津における水力発電所の建設は日本の国策にそったもので、中国人や朝鮮の人たちの力もあって、今日の会津の水力電力の基礎が築かれたのです。このことに関しては、しっかりと後の世にまで語り伝えるべきだと思います。

       合掌

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戸津説法師に延暦寺一山・求法寺の武覚超御住職 柴田聖寛

2023-06-14 12:22:26 | 天台宗

 

 延暦寺一山・求法寺の(滋賀県大津市坂本)の武覚超御住職が来る8月21日から25日までの5日間にわたって、戸津説法師(とづせっぽうし)を務められることになり、去る6月4日の宗祖伝教大師様の御命日に、比叡山宗祖御廟・浄土院において長講会(ぢょうごうえ)の法要の後に、大樹孝啓天台座主様から指名を受けられました。
 戸津説法というのは、天台宗としてもっとも大事な行事の一つです。毎年8月21日から25日までの期間にわたって、比叡山の山麓で琵琶湖畔の東南寺で行われる法華経についての説法です。天台座主への登竜門ともいわれています。
 最初の頃は、東南寺ばかりではなく、生源寺(坂本)、観副寺(下坂本)の三カ所で10日間ずつ30日間実施されていましたが、織田信長の比叡山焼き討ち以降は東南寺のみの30日間、江戸時代になってからは10日間、そして明治からは5日間となりました。
 伝教大師様がご両親の供養のために民衆にやさしく法華経を説いた故事にちなむもので、寺のある場所が「戸津ヶ浜」と呼ばれていたことから、そう名付けられたのでした。
 東南寺に関しては、大津市が設置した看板には「延暦年間に伝教大師が創立した寺で、比叡山の東南、戸津ケ浜にあったので東南寺という。寛永15年、高島郡今津にあった一堂を当地に移したので一名を今津堂ともいう」と記されています。
 私は叡山学院で武覚超御住職から直に教えを受けていますが、会津天王寺の檀家や信徒の一行が平成22年9月、日本海側経由で延暦寺を訪れた際には、当時執行であった武覚超御住職に比叡山会館で「伝教大師と徳一」という題で講演していただいたことがあります。
 大樹孝啓天台座主から指名受けた武覚超御住職は、去る6月5日付の読売新聞滋賀版に掲載された記事の中で「平和や人々の心の安寧のため、伝教大師が法華経を説かれたのが始まり。1200年以上、厳粛に行われているのは尊く、歴史の一端を担えるのは身に余る光栄で、この教えを未来に伝えたい」と述べておられます。
 武覚超御住職は昭和23年大津市生まれ。大谷大学大学院仏教学専攻博士課程修了。日中友好天台宗協会顧問などを歴任。現在は叡山学院名誉教授、釈迦堂輪番、比叡山長臈、延暦寺学問所所長。

       合掌

 

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