会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

法華経の信者であった人間石原慎太郎氏 柴田聖寛

2022-02-26 20:57:50 | 信仰

 

 作家で東京都知事でもあった石原慎太郎氏の死は、私にとっても一つの時代の終わりを象徴するできごとでした。私よりも一回り以上も年で、戦後の日本を牽引したスター的な要素を持った人でした。 
 その人が法華経を信仰していたことは有名なエピソードですが、政治家としては強い性格の反面、作家としてはナィーブなところがあったと思います。すぐに目をしばたかせるのは、神経質だったからだと思います。
 石原氏が霊友会に入ったのは、昭和43年の参議院全国区に立候補するためで、産経新聞の社主である水野成夫氏が会長の小谷喜美氏を紹介したことがきっかけといわれますが、石原氏自身がもともと法華経に関心を抱いていたようです。
 ですから、石原氏は、法華経つながりで、立正佼成会の開祖である庭野日敬氏や、妙智会教団の大導師宮本丈靖氏とも親交があったのでした。
 週刊仏教タイムスの令和4年2月17日号では、そのことが記事になっており、「石原慎太郎と法華経 霊友会・小谷喜美の弟子」「佼成会・妙智会とも親しく」「『師』を意識した信仰者」という見出しが付けられています。庭野氏の葬儀では石原氏は仏説観普賢菩薩行法系の一節「但当に深く因果を信じ、仏は滅したまわずと知るべし」を引用して追悼の言葉としたのです。
 この記事には石原氏がひたすら祈る姿も掲載されていますが、あの石原慎太郎にして神仏のご加護を求めたのでした。マスコミが書いているのとは違った、私たち同じ石原慎太郎がそこにはいるのでした。

         合掌

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仏教伝道協会が師先生を講師に招いて講演会  柴田聖寛

2022-02-24 16:02:40 | 読書

 師茂樹先生

 私の懇願によってわざわざ会津にまで講演に来てくださった、吉田慈順師と共に仏教の共同研究をなさっている師茂樹先生の『最澄と徳一 仏教史上の最大の対決』(岩波新書)が昨年10月に発売され、思想・宗教を扱った書としては珍しく、ベストセラーとなっています。
 これまであまり論じられることがなかった法相宗の僧徳一を高く評価し、その論争相手としての伝教大師最澄について、独自の見方から解釈をされているからです。そこで師先生が強調されたのが「共許(ぐうご)」という伝教大師最澄の思想でした。
(公財)仏教伝道協会(BDK)は来る3月5日午後1時半から仏教伝道センタービル8階(東京都港区4-3-14)とオンラインを併用してBDKシンポジウム「現代社会の分断と調和を考えるー最澄と徳一の論争を手掛かりに」を開催される運びになったのは、伝教大師様の「共許」という思想を、現代にどう生かすかを議論しようというのが趣旨で、だからこそ、講師に師先生が招かれるのだと思います。「個人主義が拡大する現代社会における『分断』と『調和』」というテーマが掲げられていますが、師先生も『最澄と徳一 仏教史上の最大の対決』で書かれていますように、「日本仏教を形作った『共許』」を再認識し、それを広く世界に知ってもらうことが、争いのない世界をするためには、絶対に必要なことであるからです。
 会場は定員60人です。できれば当日私も参加させてもらえればいいのですが、無理な場合にはオンラインの100人に応募するつもりでおります。「共許」という思想を理解する上で師先生が引用されているのは、伝教大師最澄が徳一との論争で著わされた『守護国界章』の文章です。「天台宗が重視する『涅槃経』の五味(喩え)と(法相宗で重視される『解深密教』)の三時の教えは、それぞれ聴衆の能力に応じて雷鳴のごとくと彼、三車説(を唱える法相宗)と四車説(を唱える天台宗)とが両輪となって(衆生)を運載する。方便の教えと真実の教えが声を揃えることで国境が守護され、偏った教えと完全な教えとが轍を異にする(=両輪となる)ことで幅広い民衆を救うことができるのだ。」
「もし(お互いの)意図を理解して相互に承認すれば(相許)、あちらとこちらで利があるだろう。もし(自身の説に)執着して相互に諍えば、あちらとこちらは(ともに)道を失うであろう」
 今の時代に求められているのは、世界の人々が対立と分断を深めることではなく、違いを違いとして認めつつも、お互いに尊重し合って、危機に対処するためにも手を携えていくことではないかと思います。

            合掌

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「伝教大師伝⑨伝教大師最澄と徳一の論争Ⅰ」 柴田聖寛

2022-02-07 18:24:31 | 天台宗

 

 伝教大師最澄と会津の慧日寺の徳一との論争は、それこそ日本思想上最大の出来事であったといわれるが、そのきっかけは、会津を中心にして、福島県全域や茨城県にまで影響力を拡大していた法相宗の徳一教団と、栃木県から群馬県にかけて勢力圏をもっていた道忠教団の争いが発端だといわれています。それが宗教的な論争にまで発展したともみられています。
 田村晃裕編の『最澄辞典』によると、道忠というのは「最澄を後援した東国の僧」で、『元亨釈書』では「鑑真につかえて戒学をうく、真、持戒第一と称す」、『本朝高僧伝』には『出家習学し、鑑真を拝するに及び具足戒に進む』と記されていることに言及しています。また、比叡山おいて修行中で無名であった伝教大師最澄が仏教の書籍を写すのを依頼したときに、率先して協力したことで関係が深まり、それ以降、道忠の弟子や孫弟子が比叡山で修行するようになり、その中から天台教団を支えた人たちが出たのでした。第二代天台座主円澄、第三代天台座主円仁、第四天台座主安慧といったように、実に三十五年間にわたって道忠系の人たちが占めたのでした。
 古くからのそうした関係もあって、弘仁八年(817)に東国を訪問し、上野国(群馬県)浄土院、下野国(栃木県)に一級の宝塔を築き、それぞれに法華経1000部を書写しておさめることとしました。そのときには円澄、円仁、徳円(下総国出身)を帯同しています。そこで徳一が『仏性抄』で『法華経』を方便の教えとして批判していることを知り、最初は道忠教団に向けられた書への反論を自ら書いたのでした。
 この論争についてもっとも簡潔に述べているのは『最澄辞典』です。伝教大師最澄を語ることが同時に徳一を語ることでもあり、最澄研究家の泰斗であった田村氏が徳一研究家としても抜きん出ているからです。
「恐らく発端をなしたのは徳一が『仏性抄』を著わして『法華経』を方便の教えであると批判したことに始まるのであろう。それに対して、最澄は『照権実鏡』を著わして、方便の教えと真実の教えとを区別する基準が一乗思想にあることを示し、併せて前に書いておいた、諸宗の学匠が天台宗を拠り所にしていることを示した『依憑天台集』(もっとも古いのが天台であり、それ以外の影響を受けなかった諸宗はなかったと主張・伝教大師伝⑧で取り上げています)を徳一におくり、更に『法華経』の内容として、天台教学と一乗思想の要点を記した『原守護国界章』を著わし、ここから相手の文々句々を引用して批判する本格的な論争に発展したものと思われる。『中辺義鏡』での批判、『守護国界章』での反論、『遮異見章』の再批判という系列で、天台教学と法相教学・一乗と三乗との問題がとりあげられ、この中、一乗思想について『決権実論』『通六九証破比量文』をめぐる論争に展開され、最後に、最澄はこれらの論争の要点をまとめ、反論を行いながら、『法華経』の他の経典・宗派よりすぐれた思想であること10点にまとめた『法華秀句』を弘仁十二年に著わして、最澄に関する限りでは論争の最後をなし、その翌年弘仁十三年六月に没くなっていったのであった」

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