会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

伝教大師伝③比叡山寺落慶式に天皇のご行幸仰ぐ 柴田聖寛

2020-09-30 09:21:07 | 天台宗

 

 

 

 

 

  天台宗 祖師先徳鑽仰大法会事務局発行のカタログより 今も明かりを絶やさない比叡山の法灯

 伝教大師様が並々ならぬ決意を持って比叡山を修行の場としたことは、ご自分が著された『願文』によっても明らかです。そして、伝教大師様は「一切経」を揃えることに力を注がれたのでした。「一切経」とは「経・律・論」の三蔵、さらには、その他の注釈書を含む経典の総称です。お釈迦様の教えと関係のある全ての書物を意味します。
 それを全面的にバックアップしたのが、南都七大寺の一つである大安寺であり、唐から渡ってきて、日本律宗の開祖である鑑真の弟子で、東国で大きな力を持っていた道忠が率いる教団でした。とくに、道忠は伝教大師様の思いを応えるために、自らも大量の仏典を提供したのでした。そのときから両者は協力関係にあったのです。
 比叡山に7千余巻に及ぶ「一切経」が完備されましたが、そこでもっとも重んじられたのが『法華経』でした。入山の時点において、伝教大師様は天台の教学がすぐれていることを理解していたからです。
 そうした伝教大師様の行いは桓武天皇の耳にも達し、拝謁の光栄に浴することになったのです。桓武天皇は堕落した奈良仏教を嫌悪していたこともあり、真実の仏教を追い求める伝教大師様に共感されたのでした。
 桓武天皇は一時都を置いた長岡を離れ、延暦13年(794)に都を京都に遷されました。これと時期を同じくして、伝教大師様がお作りになった三体の仏像を安置する御堂が比叡山に完成し、一乗止観院と名付けられました。
 本尊は薬師如来像で、延暦13年(794)9月には、桓武天皇のご行幸を仰ぎ、比叡山寺の落成式が盛大に執り行われました。そして、桓武天皇からは「鎮護国家の名は叡山にとどまる」との御言葉を賜ったのでした。このときに、ご本尊の薬師如来に灯火がともされ、伝教大師様の和歌「明らけく後の仏のみ世までも光伝えよ法のともしび」が捧げられたのでした。この灯火は現在も根本中堂に光輝いています。伝教大師様が天皇の護持にあたる僧である内供奉に補せられたのは、延暦16年(797)のことです。
  桓武天皇のお墨付きをいただいた伝教大師様は、延暦17年(789)から毎年11月24日、『法華経』を講説する法会を開催しました。それが「法華十講」です。今も比叡山で続いている「霜月会」(しもつきえ)の始まりで、朝廷から勅使が遣わされることになったのです。なぜその日にしたかというと、中国天台宗を開いた智顗大師への報恩の意味を込めて、その命日にしたのでした。
「法華十講」では、『法華経』の前に序説として説かれる『無量義経』1巻、『法華経』8巻、結びとなる要点を述べた『観普賢菩薩行法経』1巻の合計10巻を、講師10人がそれぞれ受け持って講義をしたのでした。
 伝教大師様は延暦20年(801)11月中旬には、南都六宗の(三論、成実、法相、倶舎、華厳、律)の勝猶、奉基、寵忍、賢玉、光証、観敏、慈誥、安福、玄耀ら講師に招くなどして、法華経を第一とする自らの信仰を再確認することになったのです。このうち奉基は東大寺、玄耀は東大寺三論宗の学僧でした。それ以外の者たちも、南都七大寺である東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、西大寺、薬師寺、法隆寺の「英哲」と呼ばれた僧でした。天台の教学を南都6宗の側も無視できなくなったのです。
 そして、仏教理論において南都六宗を圧倒するまでになった伝教大師様は、延暦21年(802)4月15日、和気清麻呂の息子である弘世と真綱の兄弟に頼まれて、平安京の高雄山寺で南都の僧を前にして天台を論じたのでした。「法華十講」で講師を務めた9人以外にも、善議、勤操、修円、歳光、道証の5人が加わりましたが、善議は大安寺三論宗の老大家で、修円は興福寺法相宗の僧でありました。
 南都六宗に代表される奈良仏教内部で法相宗が勢力を拡大したことへの三論宗側の反発。平安遷都による奈良仏教の衰退もあって、天台に対する関心が高まったのです。天皇からの勅使が差し向けられたことへのお礼の言葉として、善議は「七箇の大寺、六宗の学生、昔より未だ聞かざる所、會て未だ見ざる所。三論法相の久年の諍、煥焉として氷釈し、照然として既に明らかなり」と称揚したのでした。
 日本における天台への期待を背に受けて、平安仏教の担い手として時代の主役に一躍躍り出た伝教大師様は、天台をさらに深く学ぶために、天皇の勅命によって、還学生(げんがくしょう)として唐に渡ることになったのです。

        合掌

 

 

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『比叡のこころ講座ブックス』で葬儀と戒名を解説 柴田聖寛

2020-09-23 18:18:10 | 天台宗

 

 皆さんは皆さんは仏教について疑問を色々と持っていられると思いますが、天台総合研究センターが出している冊子『比叡のこころ講座ブックス1「道を楽しむ」』をお読みになることをお勧めします。同センターは平成24年4月から京都の仏教大学四条センターで公開講座を開催しており、一冊目の講演録である『道をたのしむ』は平成28年3月にまとめられました。齋藤圓眞同センター長は「はじめに」において「ご担当の吉澤健吉氏(京都産業大学文化学部教授、元京都新聞総合研究所所長)と吉田実盛氏(叡山学院教授)の両研究員の熱心な取り組みに敬意を表する共に、快く会場をご提供下さる仏教大学様に心から御礼を申し上げる次第であります」と書いておられます。
「道をたのしむ」の「葬儀のあり方と戒名」の章では、第2回「比叡のこころ」講座で、吉澤健吉同センター研究員が「現代における葬儀の変容」というテーマで講演された内容と、「お坊さんにここを聞きたい」という題で、吉澤同センター研究員、天台宗大僧正の小林隆彰同センター長、天台宗兵庫教区の真光院御住職、叡山学院教授の吉田実森同センター研究員の3人による座談会でのやり取りが活字になっており、ぜひ皆さんに知ってほしいことばかりです。
 吉澤同研究員は「クリスチャンとして育ちましたが、仏教は大好きで本籍クリスチャン、現住所仏教と言っています」と自己紹介をしながら、近頃葬儀そのものが変わってきていることを問題視し、場所が自宅やお寺から葬儀会館を利用するようになり、「直葬」といって通夜や葬式もしないで斎場で焼いてしまう例が増え、その上散骨ということになれば、お墓もいらなくなってしまうことに言及されています。そうした風潮に対して、伝統仏教としてはどう対応していくべきかを問うたのでした。
 吉田同研究委員は「きょうお話しすることは、多分に地域性があり宗派性もあります。ですから私の言うことのなかで、自分のところで可能かどうかを考えていただき、いいなと思われたら菩提寺やご家庭でご相談していただき、参考になることはしていただけたらと思います」と前置きしながら話をされました。
 お寺との関係については、吉田同研究委員は、事前に葬儀の相談することを提案されています。天台宗では、亡くなってすぐに、臨終行儀としての枕経の念仏を唱えるからです。近親者が「阿弥陀さんのお迎えが来ますから」と耳元で言うのです。まずはお葬式をしますという宣言の式が行われるのです。
 それから葬儀と告別式という段取りになりますが、この二つを区別して、厳粛に執り行われるべきなのが葬儀であると指摘されています。49日にも重要な意味がありまして、私たちの細胞が死に絶えることで、魄(体)から魂が離れていくまでの日数を考慮したのでした。そして、百カ日法要、一周忌法要、三回忌法要と続くのです。
 吉田同研究センター職員は結論として、仏事の意義を説いておられますが、私の考えも一緒です。「仏教は死後の法要がたくさんある。しかも追善法要までしてお布施を巻き上げるのかと思われる人もいるかもしれません。そうではなくて、ご遺族の悲しみのケアも込めて亡くなった方をお送りすることを真摯に考え、そういう法要をつくり上げたという歴史があるということをご認識いただきたいと思います」
 また、なぜ戒名が大事かということに関しては、小林同センター長が分かりやすくお話をされています。「命が終わっても、それが終わりではなく、次がある」のが仏教であることを指摘されています。お経を上げるのも、次に行こうとしているから、励ますためにお釈迦様の教えを送ってあげるわけです。戒名が規則であることも強調されています。「(次の世界)でどんな生き方をしたらいいかという宗教的な目標を持っていただき、亡くなったあとの死後の世界においてもこの名前で供養を続けていくというかたちで戒名は生きていくわけです」
 時代が目まぐるしく変わっていくなかでも、信仰をかたちにした大切なものは守り続けていかなくてはなりません。そのことを理解してもらうことも、天台宗の一僧侶としての私の使命ではないかと思っています。

        合掌

 

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「源信撰『阿弥陀経略記』の訳注研究」を読む 柴田聖寛

2020-09-16 16:21:41 | 読書

 源信の著書としては、極楽浄土に関する文章を仏教の経典や論書から集めた『往生要集』が有名ですが、それ以外にも伝教大師と磐梯山麓の慧日寺の僧徳一との間でたたかわされた一三権実論争の一つの帰結として、源信の『一乗要決』は大乗仏教の根本は「一乗真実」と断言したことで知られています。
 ともすれば、源信の功績としては『往生要集』ばかりが話題となり、同じく源信の『阿弥陀経略記』の研究は立ち遅れているといわれています。それだけに、村上明成、吉田慈順編の「源信撰『阿弥陀経略記』の訳注研究」が本年3月10日に出版されたことは、画期的な出来事であったと思います。
 序文において、龍谷大学世界仏教センターの楠淳證基礎研究部門長は「古典籍・大蔵経研究班」の成果として発表されたことを強調するとともに、対象となった「阿弥陀経略記」は「鎌倉・南北朝時代に成立したとされる『東京大学総合図書館所蔵本』を底本とし、『金沢文庫所蔵本』等の四本を対抗本として読解研究を行った」と解説しています。
『解題』を執筆したのは、村上と吉田の両氏で、冒頭で「本書には、無量寿三諦説をはじめ、無縁慈悲釈(無縁慈悲説とも)や六即阿弥陀仏など、『往生要集』には見られない数多くの思想が示されている」ことに着目するとともに、今後の方向性として「源信個人の教理・教学はもとより、叡山浄土教・日本浄土教といった、より幅広い視点からの解明が行わなければならない」と意気込みを語っています。
 源信の『阿弥陀経略記』の序文には『阿弥陀経義記』があまりにも「文章が簡略過ぎて了解し難い」というので、藤将軍という偉い人から、個人的に『阿弥陀経』の解説を頼まれたということが書かれていますから、それで着手することになったのでした。
 天台大師智顗に仮託された『阿弥陀経義記』があったために、「天台の立場から『阿弥陀経』に注釈を施した文献は極めて少ない」という事情もあって、源信の『阿弥陀経略記』をどう読み解くかが、学問的な大きなテーマになっているようです。
 その一方、「解題」では、これまで多くの仏教学者の『阿弥陀経』の研究によって、智顗の『阿弥陀経義記』は「現在では智顗の仮託偽撰書と考えられているが、少なくとも源信自身は、智顗の真撰書として認識していたことが知られる」と断言しています。文中に「大師の深意」「大師の『義記』」といった言葉があるからです。
 しかし、「解題」では、それが「仮託偽撰書」であるかどうかよりも、それを参考にしながら「源信独自の思想を反映・投入」したことを重視したのでした。問われるべきは、源信が思想のそのものであるからです。「解題」のアプローチは、源信の思想的変遷に目を向けます。「『往生要集』の完成が寛和元年(985)であるのに対して、『阿弥陀経略記』は長和3年(1014)の成立であるからです。29年の開きがある。このような観点からも、本当は『往生要集』において結実した源信の浄土思想が、晩年どのように変化していったのかを探究する上で、極めて注目すべき文献である」と位置付けたのです。
 見解が分かれるのは無量寿(阿弥陀)三諦説をめぐってです。小山昌純氏は「『無量寿三諦説』は中国天台諸氏の文献をはじめ、日本天台においても源信以前の諸師の文献には見当たらず」ということから、「源信選『阿弥陀経略記』」は「源信が晩年になって発揮した独特の思想と考えられる」と解釈をしたのでした。
 これに対して「解題」では、小山氏が述べているような「智顗説灌頂記『摩訶止観』巻一下」の「一念の心は即ち如来蔵の理なり。如の故に即空、蔵の故に即加、理の故に即中なり。三智は一心の中に具して不思議なり」と、源信の『阿弥陀経略記』の「無とは即空、量とは即加、寿とは即中なり。仏とは三智、即ち一心に具するなり」というのがほぼ一致していることは認めつつも、そこに源信に思想的断絶ではなく、『往生要集』から「源信選『阿弥陀経略記』」まで一貫する思想的な流れを看取したのでした。
 その「解題」の立場は「対象を限定しない、無条件の慈しみは」を意味する無縁慈悲は、『往生要集』では「二には縁理の四弘なり。是れ無縁の慈悲なり」、『阿弥陀経略記』では「無縁の慈を観ぜよ」とそれぞれ説いており、それを根本に据えたのでした。
 私は「解題」の「『阿弥陀経略記』において源信は、阿弥陀の梵語に無量光(無縁慈悲釈)と無量寿(無量三諦説)の二義を担わせ、光寿二無量の観心行と本有己心の六即阿弥陀を結び付ける一大思想を示している」との考え方を支持したいと思います。「対象を限定しない無条件の慈しみ」がなければ、阿弥陀信仰は花開くことはなかったと思うからです。
 私なりに「源信撰『阿弥陀経略記』の訳注研究」を読み終えて、まだまだ学ぶべきことがあるのを痛感しました。勉強のためのノートとしてもブログを活用したいと考えておりますので、何卒よろしくお願いいたします。

                          合掌

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伝教大師伝②「願文」 柴田聖寛

2020-09-04 18:34:55 | 天台宗

 —観音寺提供—

 伝教大師様は延暦4年6月には、喧騒とした都を離れて修行の場を比叡山に求められました。御自分の生誕と関係が深い山に入られて、新境地を拓かれたのでした。
 桓武天皇は前年11月、都を奈良から山城の国長岡に移されました。あまりにも政治が腐敗していたため、それを刷新するために、あえて遷都に踏み切ったのです。
 堕落した堕落した奈良仏教に背を向けた伝教大師様は、桓武天皇と示し合わせたかのようでした。時代は変わりつつあったのです。あくまでも伝教大師様は、禅の修行に専念するためだったといわれますが、入山後に書かれたという『願文』には、信仰者としての覚悟のほどが述べられており、人間の弱さを弱さとして受け止めつつ、不十分な自己の反省から、5条にわたる誓いを書き記し、真実の智慧を取得しなければ、山を下りることなく、法会にも参加せず、世俗的な雑務にも携わるまい、との誓われたのでした。
『願文』は全文約550字からなる文章ですが、田村晃裕先生篇の『最澄辞典』では「最澄の弱年の思想が伺われ、志を明らかにしていて最澄の著作のうち、最も宗教的香気の高い作品であるといえよう」と書いています。

悠悠三界。純苦無安也。擾々四生。唯患不楽也。牟尼之日久隠。慈尊月未照。近於三災之危。没於五濁之深。加以。風命難保。露体易消。草堂雖無楽。然老少散曝於白骨。土室雖闇(狭)。而貴賎争宿於魂魄。瞻彼省己。此理必定。

この世は苦労ばかりで、安らかとは縁遠い。お釈迦様が亡くられてからは、次の仏様は未だ姿を現さない。世の終わりが近づいており、人々も汚れてしまっている。命は儚く、肉体も滅びやすい。葬式を行うお堂も平安を得られず、老いも若きも白骨をさらし、身分や職業に関係なく、狭い墓の中で争っている。自分を省みるに、そうなることが決まっているかのようだ。

仙丸未服。遊魂難留。命通未得。死辰何定。生時不作善。死日成獄薪。難得易移其人身矣。難発易忘斯善心焉。是以。法皇牟尼。仮大海之針。妙高之線。喩況人身難得。古賢禹王。惜一寸之陰。半寸之暇。歎勧一生空過。無因得果。無有是処。無善免苦。無有是処。

私は仙人の手になる薬を飲んでいないので、死なずに魂を留めておくことは困難だ。神通力も備わっていないので、いつ死ぬかは定かではない。生きている間に善い行いをしなければ、死んだら地獄の薪となって火で責められるだろう。得ることは難しく、たとえ得たとしても、移ろいやすいのが人の身である。善の心を起こすのは難しく、それを発したとしても、忘れやすいのが人間である。お釈迦様は大海原で一本の針を探し当てることや、もっとも高い山から糸を麓の針の穴に通すことにたとえ、中国の古代の賢い禹王は、ちょっとの時間やわずかな暇であろうとも、一生が空しく過ぎ去ることを嘆いた。原因がないのに結果があることはなく、善をなさすに苦しみを免れる道理もない。

伏尋思己行迹。無戒窃受四事之労。愚痴亦成四生之怨。是故。未曽有因縁経云。施者生天。受者入獄。提韋女人四事之供。表末利夫人福。貪著利養五衆之果。顕石女担輿罪。明哉善悪因果。誰有慙人。不信此典。然則。知苦因而不畏苦果。釈尊遮闡提。得人身徒不作善業。聖教嘖空手。

仏に伏して自らの行いを尋ねてみると、ひそかに房舎・衣服・飲食・湯薬の生活の保護を受けながらも、戒律にかなう生活をしておらず、あらゆる生き物に迷惑をかけている。「未曽有因縁経」には「施しをする者は天に生まれ変わり、施しばかり受ける者は地獄に入る」と書かれている。献身的に房舎・衣服・飲食・湯薬に尽くした女は、生まれ変わって国王の后となり、貪って施しを受けた5人の出家者は、生まれ変わって皇后の御輿を担ぐ奴隷となった。行いの善悪によって、結果がどうなるかは明らかである。誰しもに恥があり、この教えを信じないわけはない。苦しみの原因を知りながら、苦しみの結果を恐れない者を、釈迦は悪の心から離れなれない者として、仏になるに及ばない者として退けている。人として生まれながら、無駄に過ごして善い行いをしない者を、宝の山に入って何も手にせず帰ってくる愚か者なのである。

於是。愚中極愚。狂中極狂。塵禿有情。底下最澄。上違於諸仏。中背於皇法。下闕於孝礼。

謹随迷狂之心。発三二之願。以無所得而為方便。為無上第一義。発金剛不壊不退心願。

 我自未得六根相似位以還不出仮。其一。

 自未得照理心以還不才芸。其二。

 自未得具足浄戒以還不預檀主法会。其三。

 自未得般若心以還不著世間人事縁務。除相似位。其四。

 三際中間。所修功徳。独不受己身。普回施有識。悉皆令得無上菩提。其五。

伏願。解脱之味独不飲。安楽之果独不証。法界衆生。同登妙覚。法界衆生。同服妙味。若依此願力。至六根相似位。若得五神通時。必不取自度。不証正位。不著一切。願必所引導今生無作無縁四弘誓願。周旋於法界。遍入於六道。浄仏国土。成就衆生。尽未来際。恒作仏事。

ここにおいて愚か者の極みで、狂っている者の極みで、まともではない最低の僧侶である最澄は、仏の教えに反し、天皇が決めた法律にも背を向け、親に対する孝行も欠いている。謹んで、迷い狂える心を持ちながらも、ここに5つの誓いを立てるにいたった。あらゆることに囚われることなく、真実の教えを、壊れず退くことのないように、固い心から願ったのである。

その一 あらゆる事柄について、ありのままに見聞し、「相似」(仏様と同じくなること)の位というレベルに達するまでは山を下りない。

その二 仏の教えを照らし出す信仰を手にするまでは、芸事はしない。

その三 出家者として戒律を身に付けるまでは、法要に出てお布施はもらわない。

その四 仏の真理の智慧を身に付けるまでは、世間の仕事はしない。「相似」の位に就けば、その時は許される。
その五 私が現在の世で身に付けた善い行いの報いは、独り占めにするのではなく、遍く生きとし生ける者に施して、誰もが仏の真理の智慧を得られるようにしたい。

伏してお願いするのは、解脱の喜びに自分だけ浸るのではなく、その喜びをこの宇宙の生きとし生けるものが、同じく解脱し、安らぎを得られるような信仰を示したい。もしその願いがかなって「六根」(見たり、聞いたり、考えることなど)が「相似」の位に至れば「五神通」を得た時には、自分だけ仏になるのではなく、「周く法界を旋り、遍く六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)に入り、仏国土を浄め、衆生を成就し、未来際を尽くすまで恒に仏事を作さん」。

 日本天台の本拠地が比叡山になったのは、伝教大師様が修行されたからで、比叡山が京都の鬼門にあたることから、王城鎮護の寺となったのは、平安遷都の後のことです。奈良仏教が学問仏教であったのに対して、実践して信仰を体得し、悩みにさいなまれる人々を救おうとしたのが平安仏教であり、伝教大師様は、その先頭に立たれたのでした。伝教大師様が「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」と評されたことは、信仰を踏み固めるために、あえて自らの弱さに触れたのでした。伝教大師様を身近に感じることができるのは、そうした言葉によってなのです。知識以前の信仰者の熱き情熱によって書かれたのが『願文』なのです。

          合掌

 

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