会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

「伝教大師様と徳一菩薩」   柴田聖寛

2012-12-28 11:03:12 | オピニオン

 今から1200年も前に、隆盛を誇った南都仏教に背を向け、磐梯山の麓に慧日寺を開基したのが徳一菩薩でした。
 その当時は、僧侶の生活も華美に走り、乱れが目立つようになりました。太政大臣、法皇となって、権勢を恣にした道鏡のような僧も現れました。
 また、庶民の苦労を尻目に、寺院の建築費や維持費が増加し、それが国の財政を圧迫していました。納税の苦しみは増すばかりでした。
 そんな中で、新天地を求め会津を目指す徳一菩薩がいました。それを個人的な出来事として考えるのではなく、仏教の東漸として見た方が理解しやすいと思います。
 そして、あくまでも私の見方ではありますが、北陸を廻ってというよりも、房総半島などの太平洋側から、北上したのではないでしょうか。まずは現在のいわき市に出てから、夏井川渓谷を経由し、阿武隈川から本宮を通って、会津入りしたのだと思います。
 南都六宗の法相(唯識)の第一人者であった徳一菩薩は、背に磐梯山、南に猪苗代湖、東に奥羽山脈、西に阿賀川や越後山地といった四神相応の地に、慧日寺を建立したのです。風水の地の利、全てにおいて、最高であったからです。
 それだけの配慮がなされたために、徳一菩薩は民衆を教化し、伝道に成功することになったのだと思います。
 日本仏教の源流でもある天台宗の伝教大師様(最澄)と三一権実(三乗仏教と一乗仏教)の論争を繰り広げ、日本の密教の大成者であった空海にもあえて論争を挑もうとしたのは、辺陬の地である会津にありながらも、仏教者としての自信があったからでしょう。
 私も天台宗の僧ではありますが、伝教大師様と徳一菩薩の大論争を経て、仏教が日本に根付くことになったち信じています。仏教をめぐって、激しい議論をたたかわせ、切磋琢磨した意義は大きいものがあるからです。
 その当時は、南都六宗は腐敗の頂点にあり、僧綱職などを通じて、権力の中枢に結びついていました。それと妥協することを拒否した徳一菩薩は、自分を必要とする民衆への伝道を、最優先に考えたのでしょう。
 また、徳一菩薩が会津におられた時期は、天変地異が日本を襲った時でもあります。千年に一度ともいわれる昨年3月11日の東日本大震災によって、私たちは人間の非力さを痛感させられました。
 人間の奢り、文明の利器への過度な依存、それが招いた禍いではないでしょうか。人間の力ではどうにもならないものがあり、私どもは祈りを捧げるしかないのです。
 伝教大師様は「悉く仏性有り」と説いて」おられます。人間は弱いがゆえに、かえって信仰を踏み固めることができるのです。どんな人でも仏様になることができるという信仰は、徳一菩薩という論敵がいたおかげで、なおさら内容豊かなものになり、後の世に受け継がれることになったのです。それだけに、徳一菩薩を理解するためにも、まず伝教大師様の教えを学ばなくてはならないのです。
 私は今、会津の地にあって、志においては徳一菩薩の後を継ぎたいと思っています。「菩薩行」によってしか、今の日本の危機、いや世界の危機は救えないからです。

 

なお、私のこの文章は、平成24年10月に発行された、磐梯町編者の『徳一菩薩と慧日寺の祈りーエッセイ集2012』にも掲載されております。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ー新年にあたってのご挨拶ー    柴田聖寛

2012-12-16 15:22:31 | 日記

2013年(H25年) 住職ご挨拶

 千年に一度の東日本大震災と人災でもある原発事故

「今年は参回忌です」

天台宗徒として祈りも大切です。

傳教大師の思いと「志」は、あと「実践」です

その実践とは(習慣の壁を破る事。それには自分を高めようと挑むこと。・身についてしまえば習慣になる・更に新たな課題に取り組む勇気である)

国民と共にバランス的思考と目線に立って「復興真最中」突進あるのみ!!

技術立国である我らが国土「助け合いの精神」老若男女ガンバロウ!

福島を救うのは「信仰の力」だ!

おのおの第一歩・・・・前進

努めよ!努めよ!!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする