会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

長講会の侍真僧による献茶が比叡山で執り行われました 柴田聖寛

2024-06-21 23:00:32 | 天台宗

 伝教大師最澄様が示寂されたのは、弘仁13(822)年6月4日のことでしたが、以来忌日には法華10講が営まれてきました。6月会(みなづきえ)、山家会(さんげえ)、長講会(ちょうごうえ)などと称され、現在では長講会を正式名としています。
 天台座主猊下をはじめ、探題大僧正が揃って出仕され、20名の大徳が全国より参集されます。その前に浄土院の院内や院外の清掃は1ヶ月かけて実施されます。
 そこでのクライマックスは、普段より伝教大師様御廟所である浄土院をお守りしている侍真僧(12年籠山比丘)による献茶が御廟内で行われることです。また、天台座主の登竜門である戸津説法を勤仕する説法師が座主猊下より指名されます。
 献茶に用いられるお茶は、伝教大師様が唐から持ち帰ったと伝える比叡山麓、坂本の日吉茶園の茶で、日吉大社の神職の方々が摘んでくださったものです。神仏が一体となった歴史を、今も再現しているのです。
 戸津説法は、伝教大師様が、日吉権現への報恩として『法華経』をお説きになったのであり、立場を超えての交流があったのです。争いが絶えない今の世にあったて、伝教大師様の教えほど尊いものはありません。

     合掌 

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比叡山の令和6年の言葉は「忠恕」 柴田聖寛

2024-02-24 19:31:08 | 天台宗

 比叡山から発する令和六年の言葉は「忠恕」と決まりました。年明けの去る1月1日に、延暦寺萬拝堂にて除幕式が執り行われ、水尾寂芳延暦寺執行より発表が行われました。
 「忠」は中と心から、偏「恕」という漢字は如と心からそれぞれできています。それで「忠」は偏らない心を、また「恕」はしなやかな心を表現しています。「真心を尽くし努めると共に、やさしい心を思いやる気持ちで1年間を過ごして欲しい」という願いで選定されました。この書はこの1年間根本中堂と一隅を照らす会館前に掲げられるほか、「比叡山時報」表紙の題字下にも掲示されます。
 私なりに「忠恕」という考えますと、今の時代に生きる一天台宗の僧として、伝教大師最澄様が説かれた教えを、どう実践するかだと思います。とくに、私は「臨終遺言合せて十箇条」のうちの「一、我生れてより以来、口に麤言(そごん)なく、手に笞罰(ちばつ)せず、今我が同法、童子を打たずんば、我がために大恩なり。努力せよ。努力せよ」という言葉が思い出されてなりません。
 極端な行動に走らずに、完璧ではなくても、若い人たちの手本になるべく精進したいと思っています。人心が乱れ、人と人との争いが続いています。そうした場所からできるだけ離れるためにも、「忠恕」という言葉は、今の世にふさわしいと思います。

     合掌

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比叡山の根本中堂近くの宮沢賢治の歌碑

2024-01-01 12:49:39 | 天台宗

 新年おめでとうございます。令和6年も皆様にとって良いお年となりますようお祈り申し上げます。今年は色々な本を読んで、皆様に感想などをお伝えしたいと思っております。私が今読みたいと思っているのは、宮沢賢治の全集です。賢治は大正10年に父親政次郎と共に比叡山を訪れており。根本中堂の近くには賢治の歌碑が建立されているからです。

 「根本中堂」

 ねがはくは

 妙法如来

 正偏知

 大師のみ旨

 成らしめたまへ    宮沢賢治

 建立除幕されたのは昭和32年9月21日のことです。その歌の「妙法如来」というのは。根本中堂の本尊として祀られている薬師如来のことで、「正偏知」とは正しく悟った人ということです。「大師のみ旨」というのは、伝教大師最澄様の「願文」で『願はくは、必ず今生の無作無縁の四弘誓願に引導せられて、周く法界に旋らし、遍く六道に入り、仏国土を浄め、衆生を成就し、未来際を尽くすまで恒に仏事を作さんことを」と言う言葉があるのを賢治が念頭に置いていたからだといわれます。
 宮沢家はもととも浄土真宗であり、賢治は大正9年に国柱会に入り、日蓮宗の信者となります。親鸞も日蓮の比叡山で修行したことがあるために、親子そろって拝観したのでした。そのときに詠まれた歌です。詩集『春と修羅 第二集』には「比叡(幻聴)」が収録されています。

 「比叡(幻聴)」

 黒い麻のころもを着た

六人のたくましい僧たちと

わたくしは山の平に立ってゐる

それは比叡で

みんなの顔は熱してゐる

雲もけはしくせまってくるし

湖水も青く湛えてゐる

(うぬぼれ うんきのないやつは)

ひとりが所在なささうにどなる

 私も比叡山で修行しましたから、山頂から琵琶湖を望む景色の素晴らしさには心打たれたものです。賢治の作品を少しずつ紹介していきたいと思いますので、今年もまたご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

    合掌

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武覚超師の「戸津説法」を聴聞するご縁に恵まれました 柴田聖寛

2023-09-19 05:37:25 | 天台宗

 天台座主の登竜門といわれる戸津説法が去る8月21日から25日までの日程で、滋賀県大津市下阪本の東南寺で営まれました。天台宗の一僧侶として私も、総本山比叡山延暦寺一山求法寺の御住職武覚超師の「戸津説法と『法華経』の略史」という演題を聴聞するご縁に恵まれました。
 宗内外の高僧や国内外の参拝者の約100名の方々を前にして、武覚超師は法華経が「忘己利他」(もうこりた)の実践であることを説かれたばかりでなく、法華経が聖徳太子以来の日本仏教の中心であった歴史を、かいつまんで説明をされました。
 武覚超師が話された中で、とくに皆さんに知っていただきたいと思ったのは「『法華経』とその略史」です。その部分の資料を抜粋して紹介いたします。

「『法華経』とその略史」

 法華三部経は『無量義経』1巻(開経)、『妙法蓮華経』8巻、観普賢菩薩行法経1巻(結経)からなります。古代インドのマガダ国首都王舎城の東北の霊鷲山(りょうじゅせん)での釈尊の晩年の説法をまとめたものです。
 中央アジア亀茲国(きじこく・くちゃ)出身の鳩摩羅什(くまらじゅう)により、長安に於いて西暦406年にサンスクリット語(梵語)から漢文へ翻訳されました。
 隋代の天台智者大師智顗(ちぎ・538~597)の大蘇山及び天台山華頂峰(かちょうほう)での修行と悟りにより、『法華経』を所依(しょえ)とする天台宗の教えと舌戦が確立された。
 日本においては飛鳥時代に聖徳太子(574~622) が『法華義疏』(ほっけぎしょ)をを著した。さらに日本最初の『憲法十七条』を制定し、『法華経』の精神で国を治めた。
 奈良時代には護国の経典として『法華経』が尊ばれ、聖武天皇(701~756)の勅願により全国各地には法華滅罪(ほっけめつざい)の寺として国分尼寺(こくぶんにじ)が建てられた。
 伝教大師最澄(766~822)は、遣唐還学生(けんとうげんがくしょう)として大唐国に渡り、天台山・台州(臨海市)・越州(紹興市)などを巡礼、求法して、七祖道邃(どうずい)・行満(ぎょうまん)の両座主より天台の教えと大乗戒、さらに順暁阿闍梨(じゅんぎょうあじゃり)より真言密教を比叡山に伝、仏の悟りを目指す「法華一乗」と「真言一乗」の教えを基調とする日本天台宗が開かれた。
 伝教大師の一乗仏教の確立により、天台宗は総合仏教として発展し、鎌倉時代には比叡山から法然上人(1133~1212)・親鸞聖人(1173~1292)・栄西禅師(1141~1215)・道元禅師(1200~1253)・日蓮上人(1222~1282)などの各宗派の祖師方を輩出し、日本仏教の母山と称された。
『法華経』は出家・在家を問わず、現在に至るまで幅広く信仰され実践され、日本文化の精神的支柱となっている。例えば、古くは『日本霊異記(りょういき)』や『源氏物語』、後白河法皇勅撰の『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』など、また、写経や絵画などの美術品によっても明らかである。近年では宮沢賢治の「ねがわくば妙法如来正遍知 大師の旨成らしめたまへ」(根本中堂前石碑)の詩文のように、『法華経』によって真の生き方に目覚め、生涯の支えとされたことなど、『法華経』の影響力は計り知れない。

 この文章を読むと。『法華経』はどういった経過で生まれ、どのようにして日本に伝えられ広まったかを理解することがでると思います。そのことを念頭に置くことで『法華経』はより身近なお経になるのではないでしょうか。

         合掌

戸津説法の資料と武覚超師の著書

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根本中堂の十二神将は焼き討ちを逃れた奇跡の像 柴田聖寛

2023-08-09 19:51:40 | 天台宗

 

 比叡山延暦寺では平成28年から10年をかけて根本中堂の大改修工事が行われていますが、それに合わせて、内陣に奉安されている仏像の修理も順次進められています。比叡山時報の令和5年7月8日号では、十二神将の今回新たに判明したことを「お薬師さまを守護する十二神将」「焼き討ちを逃れた奇跡の像」という見出しの記事で紹介しています。
 とくに話題になっているのは、十二神将と梵天・帝釈天の像内に「勧進僧栄賢」「中臣乙犬女」といった名前が見つかったことです。また、牛神からは「僧栄賢、同栄賀、同乙大女、正慶壬申元年六月日」と記されており、墨書で造仏年を正慶元(1332)年とほぼ特定することができました。さらに、巳神(ししん)からも墨で元徳2(1330)年と書かれていることが判明し、制作に複数年かけたことも判明しました。
 勧進僧の栄賢や仏師頼弁については不明ですが、比叡山の麓にある聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)蔵の『来迎寺要書』の記述から、同寺客殿にある日光・月光菩薩像は、元応元(1319)年に栄賢が勧進し、仏師の頼弁が造ったことが分かっています。
 聖衆来迎寺の日光・月光菩薩像は、もともとは京都岡崎の天台の円戒道場の古刹(こさつ)、元応寺(げんのうじ)の本尊といわれています。
 『来迎寺要書』で根本中堂が永享7(1435)年焼けて再建されたのちの文安4(1447)年頃に元応寺に十二神将が移されたましたが、応仁の乱によって失われてしまった、と伝えられています。
 現在の根本中堂の十二神将は一時的に元応寺にあったものであり、信長による比叡山焼き討ちで焼失した根本中堂が再建された天正13(1585)年頃に、以前の場所に戻ったという見方が、今回の比叡山時報では示されました。
 日本全国にあるお寺は、否応なく何度も焼失しているのが普通であり、その度の仏像の安置される寺が変ったとしても、それは不思議ではないのです。それまでは根本中堂の十二神将は根本中堂の再建年である寛永年間が有力視されていましたが、それよりも古い像であったというのが、エビデンスにもとづいて証明されたのです。
 この記事を読んでなおさら私は、天台宗の血脈の確かさを確認いたしました。十二神将のお姿を拝むことができるのは、私たち天台宗の先人の労苦があったからだと思うからです。

                  合掌

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