会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

水上勉の『わが山河巡礼』と私の比叡山での修業時代 柴田聖寛

2024-02-16 17:41:52 | 読書

 今もって私は、仏の道を極めることはままならず、あくまでもその途上にある身ですが、僧侶となると決意したのは、それこそ30代になってからでした。人生山あり谷ありですが、会社勤めをしていて、このままでは虚しくなる一方だと思ったからです。
 それだけの覚悟があっても、時には迷いもありました。私にも忘れられない思い出がありました。比叡山を逃げ出したい一心で、西に一人で向かったのです。訪ねる宛もありませんでした。いつしか岡山県久米郡美咲町の本山寺の前に立っていました。
 外にまで英語でお経をあげている声が聞こえてきました。大した人に違いないと思って声をかけたところ、清田寂雲御住職が「お入りなさい」と言ってくれたので、私の辛く思っていることを残らず話しました。すると清田御住職は、親身になって聞いてくださいました。そして、私が学んでいた叡山学院で教授をしておられることも知りました。
 懐も淋しくなりかけていたので、食事までご馳走になりました。それだけで私は救われた気持ちになり、比叡山にもどって、それから叡山学院で学びながら、大原三千院でも修行をしました。
 そんな経験をしている私ですから、水上勉の『わが山河巡礼』に収録されている『樒(しきみ)の里 柚子(ゆず)の里』という文章は、涙なしには読むことができません。とくに、私は山城と丹波の境にそびえる愛宕山の周辺は、それこそ自分の庭のようにしていましたから、なおさら水上さんの気持ちが分かるからです。
「京都で寺の小僧だった私は、修行が辛く、秋の一日脱走を試み、山陰線を線路伝いにゆけば、故郷の若狭へ辿りつくと信じ、無銭旅行をやった。その時、あり金はたいて、嵯峨にきて、線路を歩きはじめたが、保津川の崖上で道はトンネルに吸われたので、思案した末、念仏寺の下から鳥居本まで歩き、いまの平野家の横から、谷を入って落合に出、そこから、水尾、原をすぎて、亀岡に降りた。十二歳の時だから、おぼろな記憶しかない。奥嵯峨から、落合にきて、高い崖上の賛同を歩いていると、泣きたいほど淋しかったが、やがて水尾の村にきてほっとした。陽当たりのいい段々畑に、柚子の実がなっている。腹が減ったが、農家へにぎり飯を所望する才覚もなかった。柚子の畑をすぎ、やがて谷の暗い道に入ったとき、山の傾斜に柿が熟していた。原の部落にきた頃、日が昏れた。愛宕神社の裏参道を表示する朱(あか)い門の下でひと休みし、とある寺に寄ってから、だらだら坂を保津村へ下った。亀岡について不審尋問に会い、和尚様の捜索願で、警察に保護されている」
 私はこの文章を読むたびに目頭が熱くなってしまいます。私よりずっと年若い小僧さんですから、なおさらのことです。そして、水上さんは保津峡駅での悲しい出来事に触れています。「金閣寺を焼いた鹿苑寺の徒弟林養賢君の母堂」がその近くの鉄橋から保津川に身を投げたからです。親として責任を痛感したからでしょう。身近に思えたのは、炎上した時の金閣寺の住職は、水上さんを養育した瑞春院の先住の村上敬宗師であったからです。
 水上さんは林養賢については、そこでは詳しく語りませんが、他人事には思えなかったはずです。不思議なことには、水上さんがそのときに世話になったお寺は、その地を何度訪れても探し当てることができなかったということです。このため「熱い湯と握飯と沢庵はおいしく、涙が出た」という寺は、もしかすると「まぼろしの寺であったか」とも書いています。
 私は水上さんの小説が好きです。苦労をしてどん底を味わい、名も知れぬ者たちの涙の味を知っている作家だからです。とくに『わが山河巡礼』は何度何度も読み返しています。

         合掌


 


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