会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

東北復興は「求法人」の祈りの心で(下)

2013-08-31 18:01:52 | ボランティア

慈覚大師の画像なども見ても、温和な人柄であったことが分かります。喜怒哀楽を表情に出さなかったそうですから、何物にも動じない信仰心の持ち主であったのでしょう。身長が5尺7寸ともいわれますから、当時としては大男であったようです。東国人の精悍さが感じられてなりません。

天台宗の一僧侶である私は、30代半ばから大原三千院や比叡山で修行に励むと同時に、慈覚大師円仁の『入唐求法巡礼行記』に魅せられて、数え切れないほど中国各地を旅しました。慈覚大師との出会いがあったからこそ、私はそこまでできたのです。関東東北を巡錫し、多くの霊場を開いた志を継ぐのが使命だと思っています。

天台宗では「慈覚大師1150年御遠忌」を皮切りにして、向こう10年間にわたって「祖師先徳鑚仰大法会」の期間としていますが、統一テーマは『山家学生式』で述べられている「国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり」の「道心」であり、サブのテーマは「山川草木みなほとけ」であります。

福島第一原発事故が継続中の福島県にあって、私はその「道心」と「山川草木みなほとけ」の祈りの心の大切さを痛感しております。福島の人たちに「希望」「安心」「安全」「活力」「合力」を取り戻してもらうためには、天台宗の祈りの心が大事なのです。2020年に東京で開催されるオリンピックでも、それが大きなきっかけになるはずです。かつて慈覚大師があの法灯を高く掲げたように。

 

       合掌

         一心頂禮十方法界常住三寶(三遍)

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東北復興は「求法人」の祈りの心で(中)  会津天王寺住職 柴田聖寛

2013-08-30 17:32:12 | ボランティア

慈覚大師は延暦13年(794)に栃木県下都賀郡に壬生氏の子どもとして生まれました。9歳で大慈寺の高名な僧広智に預けられ、大同3年(808)に15歳で、広智に連れられて比叡山に入りました。伝教大師最澄の弟子になるためです。
 

24歳で伝教大師とともに古里の関東に赴きました。大慈寺では伝教大師から潅頂と円頓戒を受けました。伝教大師の入滅の直前には、慈覚大師だけに一心三観の妙義が伝授されました。29歳のことです。それから30歳で止観業の年度分度者として12年籠山(ろざん)に入り、それを経てから比叡山を出て、法隆寺や四天王寺での法華経の講義、東北布教などに力を注いだのでした。

転機が訪れたのは、40歳になって重い病気にかかったからです。横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で、6千部を目標に如法写経に挑戦し、それで健康を取り戻したのです。そこでの写経を納め、本尊として祀り建立されたのが、横川の根本如法堂です。
 

病後に慈覚大師は、「天台教学の心髄と密教を伝えなさい」との伝教大師の夢を見て、それで最後の遣唐使の一員として中国に渡りましたが、希望していた天台山には向うことはかなわず、秘かに求法の旅を決意し、弟子二人と五台山で、禅の必要性から止観の妙旨を伝授せられたほか、念仏三昧の行法も習得しました。また、五台山の法要(引声阿弥陀経)や、仏教の法要に欠かせない声の音楽である声明(しょうみょう)なども体得しました。唐の都の長安では、胎蔵界、金剛界とともに、天台宗の台密では「胎金の両部を不二(ふに)ならしめる第三の契経である蘇悉地経(そしつじきょう)」などを受法しました。

胎金の両部と蘇悉地経の三つを、天台宗では「三部三昩耶」と呼んでいます。仏典や曼荼羅なども入手し、武帝の仏教弾圧を逃れるべく、日本に帰国したのでした。足掛け10年にわたった苦難の求法を書き記したのが国宝である『入唐求法巡礼行記』です。

持ち帰った経典は584部802巻に及んだのでした。曼荼羅などの図像法具も21種あったといわれ、天台密教の大成に尽力したのでした。その功績によって、第三世の天台座主になられ、勅旨での初の任命でした。そして、没後2年にして、日本で初めての大師号が清和天皇から贈られたのでした。最澄が伝教大師となったのも、そのときのことです。

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東北復興は「求法人」の祈りの心で(上)  会津天王寺住職 柴田聖寛

2013-08-29 08:15:32 | ボランティア

 

東北復興は「求法人」の祈りの心で(上)

―東日本大震災から2年半を経過してー

                                                     2013年9月13日

                                                              会津天王寺住職 柴田聖寛

慈覚大師1150年御遠忌が平成24年4月1日から平成27年3月31日までの期間にわたって行われますが、平成23年3月11日に東日本大震災が発生したこともあり、「求法人(ぐほんじん)」の祈りが全国津々浦々に広がっています。

東日本大震災と同じ規模の千年に一回ともいわれる貞観大地震が起きたのは、貞観11年(869)年7月6日のことでした。慈覚大師円仁は貞観6年(864)正月14日に亡くなられましたが、由緒あるお寺は全国で615カ寺ともいわれており、その偉業ははかり知れないものがあります。東北地方だけに限っても106カ寺に達します。その地震の前にも、天長7(830)年の出羽国で大きな地震があり、天地は裂け、山崩れとなり、人々は恐怖におののいたのでした、それを見かねた慈覚大師は巡礼の足をのばしたのでした。

とくに、貞観大地震の地震や津波で大打撃を受けた東北地方は、天台宗のお寺が中心となって祈りを捧げたのでした。慈覚大師が撒いた天台宗の種が、東北の人々を励まし元気づけたのです。そうした故事にちなんで、今回の東日本大震災に際しましても、天台宗は祈りと復興への協力によって、東北の人たちを積極的に応援してきました。

東日本大震災に際しては、春のお彼岸の時期でもありましたが、ガソリンが来なくなったり、福島第一原発事故で会津地方も大騒ぎになったりしていましたので、それどころではありませんでした。

被災地への救援物資の輸送にも私は携わりましたが、まだ高速道路の規制があった3月19日、滋賀県の東雲寺の御住職、真光寺の副御住職の御協力を得て、比叡山延暦寺を中心に、関西各地の宗派を超えた御寺院様から御預かりした救援物資を積み込み、私たちが運転して、会津若松、本宮、郡山というように回りました。それに引き続いて4月1日には、南相馬の日光寺様に食料などを届けました。目が回るほどの忙しさでしたが、私の性格からしても、じっとしてはおれなかったのです。

また、私は天王寺の住職として平成23年4月28日、自寺で慰霊祭を執り行いました。そして、5月9日に気仙沼の大島で天台宗有志、5月11日には陸前高田、気仙沼の観音寺で、座主猊下が参列しての天台宗の慰霊法要がしめやかに行われました。陸前高田では、高台の梨畑は自衛隊や警察の車両で埋まり、そこで宿泊していたのを目撃しました。

「一隅を照らす運動45周年記念大会」が来年11月12日に郡山市の「ユラックス熱海」で開催されます。東北の地に一日も早く平安な日々がもどるように、さらなる祈りを捧げたいからです。

東日本大震災では、津波などでの死者と行方不明者は約2万人にのぼります。それにともなう福島第一原発事故によって、約30万人もが避難を余儀なくされています。忘れてはならないのは、福島第一原発の事故は今もなお続いていることです。収束にはいたっていないのです。今年の8月になってからは、汚染水の問題が明らかになってきており、放射能との闘いは未だに終わっていないのです。

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