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あげちうのブロマガ

宗教とカルトと反社会性の対立

理解出来る分、面倒も思う。

「神の為に働く、素晴らしい事じゃないか?」「どこが?」

少し目の色を変えた人がそう言う前で、その態度は間違ってない気もする。

「人々の為に働く、そういうの大事な事でしょう?」「どこがですか?」

気真面目そうな人の前で、そう不満を言う、のも微妙に同意は出来る。

「働け」「嫌です」

この対立は、どうだろう(-_-;)。

自分もかなり、「狂信者」的な理解?に陥っている感じはまあ、ある。状況が決して良いとは言えないが、「神様」の返答は、意外と反論し得ない。安全と健康は只じゃない、対価の大きさは同時に厄災も産む。何処かが引き受ける、そう言う話の最後に居るのが誰であれば適当か?貴方が護らねばならないのは誰か、世間の同じような立場はどうしているのか、このシステムを組んだのは誰か、その責任は誰が背負うべきか?その上で現在、何か生命を維持する上での不足はあるのか?足りないのは、PS5を買えないとか、そう言う事位ではあるまいか、それは是非とも必要な物か?状況はまだ打開されていない、戦いは続いているのだけど。

「仕事しなさい」「へい」

自分としては、”ここ”には居る訳だけど。


「大衆は神である」時、前者は全て、”同じ事”を要求はしている。そして?後者は同じく同じ事を否定している、訳で。「神とは何か?」に対して、混沌はまだ有る、「大衆は神である」或いは”ここ”にある成功、栄光?その全てが”そこ”を足場にするとしても、それに同意できないそう言うのはある。

一応、感覚としての、到達の絵、としては…幾つかあって。

最終的には”それ”は、「誰が作者か解らない」そう言う特徴を持ち、その狭間に理想が有って、そこに対して勝者、勝ち組、ともかく高揚?そういう「お金を払える何か」が存在する…訳だが。それを得られた事、関われた事、そう言うそれが、或いは目的。

でも目指しているのが”それ”じゃない人、それはまあ、大勢いる訳だ。

解っている事は、「大衆は神なんです」「それは違います」これは、まだ重い、と言う事だ。

ここから先は、自由意思の侵害、そう言う話かもしれない。思想、信仰の自由は大事な話だ、自由意思の堅持こそが人間性の起点、自分で考え自分で判断する結果として、それはそこに答えとして蓄積されて行く。”それ”を妨げる時、人は何かの欠陥を時に纏う。

とは言え、或いは物理的な、相手の思想、その否定ではある。
目指す場所に、その思想では届かない、それは間違いない、それは神じゃないからだ。
神でない物が、貴方に求める物を与えてくれる事は、まず無い。

信者は、そう主張はする。

そして、冒頭の会話が始まるのだが。

結果でしか、或いは。

 


使用イメージ
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https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im5644487

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