「連続殺人事件」に続いて発表された(1941年)フェル博士ものですが、
カーの作風が明らかに変化してきたことがよく分かります。
とくにこの作品はオカルトなし、ドタバタなし、不可能犯罪なし、
登場人物は最小限におさえられ、コンパクトなミステリとして成立しています。
しかしダグラス・グリーンの評伝「奇蹟を解く男」では、
『(猫と鼠の殺人における)ラストの論理性にはまったく納得できない』と書かれています。
この「猫と鼠の殺人」が書かれた1941年以降、44年までの3年間はフェル博士ものは書かれていません。
それでもHM卿ものは年に1作は書かれていますが、30年代に比べると小説の執筆量がずいぶん減っています。
その間カーはなにをしていたかというと、
ラジオドラマ、それもプロパガンダ性の濃いものを多く書いていました。
しかしカーには、プロパガンダドラマを書いているのに、
新聞などのメディアに対しては批判的な態度を隠さないというちょっと矛盾したところがあります。
たとえば「連続殺人事件」で筋にあまり関係ない登場人物(ロンドンのゴシップ専門紙の記者)を宴会でコテンパンにしたり、
「読者よ欺かるるなかれ」では超能力をニュースネタにする各新聞を批判したり、
とくに新聞にたいしては腹にイチモツあったんじゃないかなんて勘ぐりたくなります。
横道にそれましたが、カー自身は差別意識のないリベラルな人物であったかもしれませんが、
小説の登場人物となると英国人や米国人以外の国籍の人間をやや偏ったイメージで描いていることがあります。
「髑髏城」に登場するドイツ貴族の探偵はバンコランのかませ犬みたいですし、
「読者よ欺かるるなかれ」の自称超能力者もけっこうひどい扱いです。
この「猫と鼠の殺人」の被害者は、イギリスに帰化したイタリア人という設定ですが、
カーの筆は「殺されて当然」というような性格に描いているようにも思えます。
第二次世界大戦真っ只中で、枢軸国側のイタリア系の人間を被害者にした理由はただの偶然だったのでしょうか。
ミステリとしては「死時計」の2番煎じですが、
話がすっきりしているので読みやすいです、
逆にその読みやすさ、すっきり感が物足りないかな。
カーの作風が明らかに変化してきたことがよく分かります。
とくにこの作品はオカルトなし、ドタバタなし、不可能犯罪なし、
登場人物は最小限におさえられ、コンパクトなミステリとして成立しています。
しかしダグラス・グリーンの評伝「奇蹟を解く男」では、
『(猫と鼠の殺人における)ラストの論理性にはまったく納得できない』と書かれています。
この「猫と鼠の殺人」が書かれた1941年以降、44年までの3年間はフェル博士ものは書かれていません。
それでもHM卿ものは年に1作は書かれていますが、30年代に比べると小説の執筆量がずいぶん減っています。
その間カーはなにをしていたかというと、
ラジオドラマ、それもプロパガンダ性の濃いものを多く書いていました。
しかしカーには、プロパガンダドラマを書いているのに、
新聞などのメディアに対しては批判的な態度を隠さないというちょっと矛盾したところがあります。
たとえば「連続殺人事件」で筋にあまり関係ない登場人物(ロンドンのゴシップ専門紙の記者)を宴会でコテンパンにしたり、
「読者よ欺かるるなかれ」では超能力をニュースネタにする各新聞を批判したり、
とくに新聞にたいしては腹にイチモツあったんじゃないかなんて勘ぐりたくなります。
横道にそれましたが、カー自身は差別意識のないリベラルな人物であったかもしれませんが、
小説の登場人物となると英国人や米国人以外の国籍の人間をやや偏ったイメージで描いていることがあります。
「髑髏城」に登場するドイツ貴族の探偵はバンコランのかませ犬みたいですし、
「読者よ欺かるるなかれ」の自称超能力者もけっこうひどい扱いです。
この「猫と鼠の殺人」の被害者は、イギリスに帰化したイタリア人という設定ですが、
カーの筆は「殺されて当然」というような性格に描いているようにも思えます。
第二次世界大戦真っ只中で、枢軸国側のイタリア系の人間を被害者にした理由はただの偶然だったのでしょうか。
ミステリとしては「死時計」の2番煎じですが、
話がすっきりしているので読みやすいです、
逆にその読みやすさ、すっきり感が物足りないかな。
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