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侍戦隊シンケンジャー 1 真の「シンケンジャー」は48幕から始まる

2010年02月10日 | アニメ・特撮
円谷(英二)特撮至上主義者だったわたしは、東映の初期特撮ものがビンボ臭くて大嫌いでした。
「仮面ライダー」「イナズマン」「変身忍者嵐」「ゴレンジャー」などなど
(例外的に「赤影」「キカイダー」「ロボット刑事K」は良かったですね)。
戦隊シリーズは一種のギャグとして時おり観ていたていどで、
お子様向けのプログラムTVシリーズだと半分馬鹿にしていました。

ところが!

この「シンケンジャー」にはやられました。

前半はシリアスギャグものかと思っていたのですが、
後半にかけては1話から伏線を張ってあったドンデン返しあり、
またそれをあっと驚く展開で切り抜けて、
すっかりシリアスストーリーに変身(文字通りに)しているじゃないですか。

しかも子どもにはアクションシーンを、親(大人)には成長物語を、とうまく並立させながら番組を作っています。

「電王」でもその技のさえを見せてくれた小林靖子が、
さらに腕によりをかけて「現代に殿様と家臣という主従関係を復活させたらどうなるか」という命題を
エンタメとして見せてくれました。
脚本が良ければおもしろい番組になると、いまさらながらに見直しました。

他の戦隊作品を観ていないので確かめられないのですが、
1話で集まったメンバーが最終話で解散していくという設定は
「シンケンジャー」が最初ではないか、と思うのですが、どうなんでしょ。
戦隊が解散しちゃったら他のシリーズにゲスト出演できなくなってしまいますし。

この一期一会的な設定が、ファンタジィ(物語)として有効に働いています。
ファンタジィは、乱暴な言い方をすれば「なにかを喪失する話」だと思うのです。
「ゲド戦記」「指輪物語」「ナルニア」などなど、最後には失い、捨てることになります。


「シンケンジャー」でも、家臣の一人ひとりは1話で戦う力を得て、
物語が終わればその力と家臣という地位を捨ててただの人へと戻っていきます。
影武者としての殿は最終回寸前で殿という地位を捨て、
本当の当主も最後には当主という立場を捨てます。

影武者である殿は、当主という地位を捨てねばならなくなったとき、自分自身の中には何も残っていないことに気づきます。
しかし、自分自身の中には何もなくとも、他者(家臣とジイ)との関係は確かに残っていることにも気づきます。
このあたりの筋運びは説得力があり、力強いですね。

結局、真の「シンケンジャー」としての物語は最終回直前の第48幕(話)から始まるのですね。

殿(元影武者の)と家臣が真の主従として戦うことになるまでを1年間47話分かけてやっていたわけです。
主従とは身分制度ではなく、互いのことが言葉で言わなくても通じ合う仲間、というメッセージでしょう。
最後の戦いで、殿様の一言で全員がそれぞれの役目を果たす場面や、
最後のトドメはブルーに刺させるという意外性も、47話分の「絆」であったわけです。
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